第一話(02) 見たな、気付いたな、気付いたぞ


 * * *



 幸い、学校の近くだった。僕は保健室に連れられ、一時間目を休んだ。その間にバッグに忍ばせておいた緊急時用のトマトジュース一本を消費した。

 保健室の先生には、ばれなかった。


「授業、出る? 今日は家に帰った方がいいかな? ご両親に連絡するけど……」

「いえ、大丈夫です。二時間目から出ます」


 二年C組。自分の席に着けば、今朝傘を奪っていった奴らが傘を返しに来た。


「ご、ごめん……そうぶっ倒れるとは思わなくて」

「いや……僕も変だったから」


 何事もなく傘を返してもらう……わかっていた、一年の時もそうだったから。だから僕はこいつらには悩まないし、体質だって、傘を返してもらえば大丈夫。これで帰りも安心――だけど。

 ……左隣から妙な視線を感じる。瞳だけを動かして、僕がそちらを見れば、隣の席に、びっくりするほどの美人が座っていた。両手で頬杖をついたまま、首を傾げる。


「久太郎くん、大丈夫? 貧血? だってね」

「あ……えっと、目堂、さん。今朝は、ありがとう……」

「一時間目のノート、見る?」

「い、いや井伊に見せてもらうから、大丈夫……」


 目堂早織さん。落ち着いた声は、何だか気品に溢れているように思える……僕の視線は、分厚い前髪に隠れて見えないようになっているはずだけど、どうやら見ているのがばれたらしい。適当に笑ってごまかして、正面を見る――見られない。目堂さんから目が離せない、動けない。


 間違いなく、この学校一の美人だと思う。艶のある長い黒髪は絹みたいだ。僕は「青白い」といわれたけれど、目堂さんの肌は人形みたいな綺麗な白色。つり目気味の黒い瞳は、未だに僕を捉えて放してくれない。


 あんまりにも美人過ぎるから、なんだか少し近寄りがたい気もする。でもそこがまた気になる、だからみんなも彼女を気にする……この学校の、高貴なアイドルだと思う。僕の友人である井伊曰く、まさに目堂さんは「アニメや漫画に出てくるクールビューティー」だった。


 ……それだけだったらよかったのに。


 風が、白いカーテンを揺らして教室に流れ込む。目堂さんの黒い髪も、川のように流れて揺れた。艶がきらきら輝くその様子は、まるで天の川だ。

 その輝きの中に、髪の毛にしては太い漆黒と、ギラギラ光る怪しい双眸が。


 ぎょっとして、僕は息を呑む。同時に目堂さんが瞬きして、その瞬間、僕は金縛りがとけたかのように正面へ向き直った。何も見てない。何も見てない。


 目堂さんの髪の毛の中に蛇がいるなんて、そんなの見てない!


「……久太郎くんってさぁ」


 と、不意に名前を呼ばれて、僕は軽く跳び上がる。


 目堂さんは淑やかに、もしくは怪しく笑っていた。赤い唇、その端がかすかにつり上がらせていた。


 目堂さんの「蛇」に気付いたのは、同じクラスになってすぐのことだった。

 僕は、知ってはいけないことを知ってしまった気がして怖かった――目堂さんのその口から、一体何を言われるのか……。


 ――がらがらがら、と教室のドアが開いた。チャイムが鳴っている。二時間目のはじまり。国語の先生が入って来る。


 目堂さんは何も言わなかった。くすりと笑うと、国語の教科書とノートを引っ張り出した。

 「起立!」と今日の日直の声。皆が立つ。僕も慌てて立つ。「礼!」をして座って、授業が始まる。


 ……よかった、と思う。目堂さんは一体、何を言おうとしていたのか。


 朗読の声が教室に響いている。ちらりと目堂さんを見れば、彼女は教科書を開いて文章を追っていた。優等生、ぽくはない。片手で頬杖をついている。でもそれがまたミステリアスな感じで、とても絵になっている。本当に不思議な人で、教科書を見つめる目の睫毛も、長くて綺麗な形をしている……。


 ……いや。

 ……うわめっちゃ見てる。えっ、めっちゃ見てくるじゃん!


 僕はかたかた震え出して、動けなくなる――まさに蛇に睨まれた蛙みたいに。


 目堂さんの瞳こそは、教科書に向けられていた。

 けれども、髪の毛に紛れ込む蛇の瞳だけは、僕に向けられていたのである。


 間違いなく、それは蛇……ぎらぎらとした黄色の瞳は、蛇よりももっと恐ろしいものに見える。蛇の黒い鱗は、目堂さんの髪の毛と同じく艶やかで、ちろちろだしている舌は血でも舐めたのかと思うほど赤い。


 僕は蛇と目が合ってしまっていた――蛇も僕が見ていることに気付いている。ゆっくりと頭をもたげて、ついに「髪の毛」から完全に「蛇」として現れる。うねって、踊るように宙でゆらゆら揺れている。まるで煽っているみたいで、怖い。玩具でもなんでもない。尻尾は見えないけれども、間違いなく本物の蛇。どうしてか、目堂さんの髪の毛に紛れている。


「――影山くん!」

「は、はいっ」


 急に名前を呼ばれた。思わず僕は立ち上がる――国語の先生が、教壇でこちらを見ていた。先生だけではない、クラスメイトみんなも。教科書を開いて。


「大丈夫? そういえば今朝、貧血で倒れたらしいわね……保健室に戻る?」

「い、いえ、大丈夫です……ええと……」


 多分、僕の朗読の番が来たのだ。でもええと、どこまで読んだ? まずい、授業をちゃんと受けてなかったことがばれてしまう。僕はなるべく、問題とか、そういうことは起こしたくないのに。


 頭の中は真っ白になる寸前だった。もういっそ、体調が悪いことにして保健室に戻る? でもそうしたら、いい加減母さんに連絡される……。

 そう焦っている時に、隣の席から。


「――二十八ページ、三行目、『私が鏡を覗くと』」

「『私が鏡を覗くと、そこに私の姿は映っていなかった』」


 そこから僕は、無事に一段落を読み終えて席に座った。次の人が次の段落を読む。


 僕は誰にも聞こえないように深く溜息を吐いて、肩の力を抜いた……教えてくれたのは、目堂さんだ。教えてもらっていなかったら。


 ……再びちらりと目堂さんを見れば、先程と何も変わらない。髪の毛から姿を現していた蛇も、もういない――。


 かと思えば、びっくり箱を開けたかのように、不意に目堂さんの髪が幕のように開いて、そこから牙をむいた蛇がしゃーっ! と飛び出してきたのである。


「うわぁっ!」

「――影山くん!」


 僕は椅子から転げ落ちた。先生の悲鳴が聞こえる。教室がざわつく。


 瞬きすれば、もう蛇の姿はない。目堂さんは、ほかのクラスメイトと同じように、心配と不審の混じった目を僕に向けている。垂れた髪の毛を耳にかけるが、そこにも蛇の姿はない。蛇は完全に引っ込んでしまった。

 先生が慌ててやって来る。


「ほ、本当に大丈夫? 無理しないでね、だめだって思ったら、帰宅した方がいいわよ」

「い、いえ。大丈夫です……」


 何も見てない。何も。普通でいよう。何か変なことを知って、変なことに巻き込まれたくない。

 僕は平穏に過ごしていたいんだ。僕は「普通」や「何でもない」でいたいんだ。

 何も知らない、ただの「人間」でいたいんだ。


 落ち着いて、椅子に座り直す。もう目堂さんを見るのはやめた。目堂さんを一度見てしまうと、そこから目が離せなくなってしまう。


 見ないことは、知らないこと。


 ――でも、目堂さんは容赦なかった。

 隣の席から、そっと差し出された折り紙。ノートを破いただろう紙は、丁寧に蛇の形に折られていた。


 女子って、もっとかわいい形に手紙折るんじゃないの?


『蛇、見た?』


 恐る恐る開いてみれば。


『うまく隠してるつもりなんだけど、久太郎くん、気付いたんだ?』


 そこでまたしても、僕は目堂さんを見てしまった。

 目堂さんは教科書を見ていなかった。僕を見て、笑っていた。小さく手を振って、髪の毛をかきあげ後ろに流す。現れた蛇も、僕を見ていた。


 気付いてしまったことに、気付かれてしまった――。

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