第18話 予感

 土曜日の朝、太陽が輝きを見せつけ、空に上り、その威容を示した時、シルバーメタリックのプリウスが高速道路を走っていた。萌が運転するクルマは、有栖とみさきを乗せて、湘南まで約一時間三十分の道程を走行した。

 湘南海岸公園からは、江の島が近くに見えた。砂浜ではビーチバレー、海に目をやるとサーファーたちが技を競い合う様子を見ることが出来た。サーファー越しに箱根の山々も見える。

 三人は水着に着替えると、砂浜で海の様子を眺めていた。みさきは萌の顔を見つめ、萌はみさきの顔を見て、二人して笑い出した。二人は、海に向かうと泳ぎだした。

 黄昏が迫り、サーファーや、海水浴客が帰路に着くと、入り日が赤い色を空に映し出していた。

 静かに打ち寄せる波の音で、有栖は徐々に気持ちが落ち着いてきた。それは、彼女たちに対して、正直な態度を示したことで成し遂げられたことでもある。

 午後七時から花火大会が開催されるが、まだ時間に余裕があったので、みさきの提案を受け入れて先に夕食を済ますことになった。

 港の近くにある小さなレストランでは、みさきは食事をしている萌の向かいに座り、彼氏のことや家族のこと、そして、近所のもめごとまで話し始めた。

 レストランの中は煎りたてのコーヒー豆の美味しそうな香りが立ち込めている。

エアコンのきいた店内は、ほてった身体と頭を覚ますのには丁度いい具合だった。みさきは機嫌を良くし、饒舌ぶりに拍車がかかっていた。

「あなたの口は、まるでお喋りのためにあるみたいよ」

「ヒュルヒュル、ドーン、ドーン」と花火の音が鳴り響くと、歓声が上がり始めた。

 レストランの窓から、夜空に大輪の花が咲くのが見えた。海水浴客と入れ替わり、浴衣姿の見物客が大勢集まっていた。

「きれいね」とみさきは言うと、コーヒーのカップを手に、有栖の方を向いた。萌もデザートのケーキを食べながらそちらを見た。

 有栖は二人を横目に見ながら、食事に箸もつけず、黙ったまま考え事をしていた。それでいて、二人は心配する様子もなく「専務様の思考能力はたいしたものね」と茶化した。

 花火大会が終わった後も、二人は飽きずに話し続けていた。次から次へと話題が広がり、二人は古くからの親友のように話していた。気が付くとレストランは閉店の時間を迎えていた。その間も有栖は考え事をし、時折二人の会話に割り込んだ。

 ウェイトレスがあきれたような表情で有栖たち三人を見つめてから「ラストオーダーは、何かございますか?」と尋ねた。

「いいえ、特にないわ」

 三人がレストランを出たのは午後九時だった。有栖のマンションの近くに来たところで、みさきは念を押した。

「もう大丈夫よね。気持ちが少しは楽になったかしら」

「ええ、まあ、そうかもね」

 萌は助手席に座るみさきの顔をチラ見した後で、バックミラーで有栖の様子を確かめると、ハンドルを握りながら「あなたが努力家なのは知っているけど、毎日のように自分に過酷な訓練を課して寿命をすり減らすようなことはやめてね。人には息抜きも、眠る時間も、何も考えないでいる時間も必要なのよ」と諭すように言った。

「ありがとう。でも、あなたたちに言われなくても分かっているわ…」

 彼女は二人に別れの言葉をかけ、外に出るとクルマは走り去った。みさきと萌は、彼女らなりのやり方で自分を励まそうとしている。それが、有栖にとっては何よりも有難かった。

 クルマから出ると、外はとっくに夜の帳がおり、小雨が降りだしていた。彼女は、冷たく湿った歩道から、温かいマンションの自室へと戻った。

 リビングルームは、素晴らしい調度品が備え付けられている。壁にはアートフレームに入れられた現代絵画が飾られていた。

 疲れを癒すため、有栖は熱い湯をはった浴槽に身体を沈め、目を閉じた。筋肉の疲労した部分や内臓まで、湯の中で温められゆっくりと癒されていくのを感じた。

 そして、何週間かが過ぎた。

 水曜日の朝、有栖が出社すると、自分のデスクに誰かが腰かけて、コンピューターの画面を見ていた。それは、他ならぬ長曾我部博会長だった。

 昨夜の帰宅時には、シャットダウンしていたはずなので、博が電源を入れたことになる。

「私のパスワードを知っていたのね」

「いや、お前の好きなものを組み合わせて大体の見当をつけた」

「まるで、暗号解読のプロみたいだけど…。そこまでして、何が知りたいのよ?」

「お前を専務にした責任があるからな。パソコンで何を調べているかぐらいのことは、知っておきたいと思ったものでな」

 有栖が冗談っぽく「個人情報保護法に反しないかしら」というと、博は明るい声で「法人の共有すべき情報だからな。大丈夫だよ」と答えた。

 博は有栖が並々ならぬ意欲で、資料を収集し専門家に分析を依頼していることを知っていた。そのため、彼女が暴走しようとしているのなら、自分がブレーキ役を買って出なければならないとも思っていたのだ。

 だが、コンピューターのフォルダに入っている資料は驚くほど多く、幅広い分野に及んでいた。

  ※

 有栖はAIやロボティクス技術を本格導入した後の世界は、どう考えても大失業時代の幕開けとなり、大多数の消費者の購買力が枯渇するため、経済学で言う限界効用逓減の法則により、企業の倒産件数も尋常ではなく増えると予測していた。

 彼女は(まるで、大恐慌を呼び起こす準備のために、タコの足食いをしているかのようだ)と感じて、肌寒くなった。AIを本格導入するには、BIとセットでなければならないのだ。

 BI(ベーシックインカム)の導入などは、政治家が動かないと実現しそうもない。そこで、有栖はローリスク・ハイリターンで企業と小口投資家がWINWINの関係を構築できないか思索を重ねた。

 彼女の立案したビジネスプランでは、産業用ロボットやAIの技術に投資するファンドを作り、これらの技術による収益金から出資者に配当金を分配してはどうかという試案だ。

 彼女は、長曾我部商事の役割は事業投資した金融関連会社をサポートしつつ、次の展開を画策するというスタンスになるだろう…と考えていた。つまり、それが失業者の拡大を抑止し、権利収入で自活できる層を増やせるだろうという目算だ。

 祖父の博は「お前の話を聞いていると、まるで隔世の感がある。わしが起業したころは、白黒テレビ、マニュアル車、黒電話、トランジスタラジオの時代だった。ワープロもなかったので、帳簿も、レポートも手書きで、計算はそろばんを使っていた」と言いながら、有栖の意見を受け入れた。

「実業家の使命は、ただ単に利潤を追求するためにあるものではない。現実社会に貢献しなければ、存在価値はないのだ」

「社員の家族や生活を守るのも、経営者に課せられた使命の一つだと思うの」

 博は「お前は大学に残り、経営学で博士号を取ろうと考えたことはないのか? もし、その気ならわしが大学院の前期・後期の学費をすべて出してやってもいいのだが…」と言うと、少し気難しそうな表情をした。

「私は実業界に身を投じたので、そのために必死の努力をするつもりなのよ。単に机上の論理を振りかざして見ようとは思わないわ」

 有栖は(時代は変化し続ける。科学による変容は、今後も加速し続けることだろう。時代の要求を見過ごさず、自分を見失わず力を尽くそう)と漠然とイメージしていた。

 博は有栖のことを自分の孫娘ながら頼もしく思った。

 博は「若いころに覚えたことは忘れない。水泳や自転車と同じだ。大事なのは知識や経験をブレインで分析し、マインドでイメージするだけではなく、ハートで感じ、スピリットに刻印しておくことだ」と諭した。

 有栖は(祖父の話に説得力があるのは、単なる知識の寄せ集めではなく、経験に基づくからなのだ)と感じていた。

  ※

 失敗には前兆があるように、成功にも予感が伴うことがある。大きなビジネスに携わる人間なら誰でも、長曾我部有栖専務のこれからの可能性を見抜いていた。

 そして、上昇気流は本人の自覚するところよりも、遥かな高みへと連れて行くことがあるものだ。

 一方の有栖は、実業の世界では一寸先は闇なのだと感じていた。成功に次ぐ成功で、毎日のように美食の宴を開催できるものは少ない。触れるものすべてを黄金に変えたという、ギリシャ神話のミダス王のようなわけには行かないのだ。彼女は、そのことを肝に銘じておこうと考えていた。

 その反面で、彼女は会社の未来や自分の将来に対する希望に充ちていた。その仕事が重要なことも十分に理解していた。内心では「何とかしなければならない」という思いと、「自分なら何とかできるだろう」という自信の両方が混在していたからだ。

     

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