第17話 さようなら

 マンションの自室に戻った有栖は頭の整理がつかないままに、シャトー・ル・パンをワイングラスに注いだ。

 部屋の中は意気消沈させる雰囲気に包まれていたが、外に出てもたちまちのうちに気分が晴れるような気がしなかった。今の自分に必要なのは、アスピリンではなくアルコールなのだと思ったからだ。

 そして、リビングルームにあるテーブルで、グラスを手に取り、少しだけ口に含んだ。彼女は、冷蔵庫の中にある生ハムの存在を思い出し、取りに行こうと席を立った。

 何気なく、部屋の壁紙に目をやり、正面を向くと、そこに翔太が立っていた。彼は、有栖が一人だけでいる個室にはこれまで現れたことがなかった。それは、暗黙の了解事項だと思っていた。

 翔太は部屋の窓から上空を見上げると「外を見ると、大きなピザみたいな月が見えるだろ? お前ならそこに何をトッピングするのかなと思ってね。トマトやピーマン、玉ねぎにジャガイモ、ベーコンも良いのだけどね」と言って微笑んだ。

 さらに「お前にどうしても言っておきたいことがある」と言うと、有栖の表情から、気持ちを読み取ろうとした。

 彼は腕まくりし、シャツのボタンを一つ外すと、いつになく真剣な表情で口を開いた。「俺たちがすでにこの世のものではないということは、おまえが気付いたとおりだ。うまく説明できないが、現実の世界は複雑に出来ている。俺たちのいる場所も同じなのだ」

 有栖は激しく身震いして、固まってしまった。彼の言う通りなら、今まで白日夢のような光景が目の前に広がっていたということになるからだ。

 翔太は「大丈夫だよ」と言うと、まるで唇を奪おうとするかのように、顔を近づけてきた。一瞬にして、のけぞった有栖の唇に翔太は、ピンと真っすぐに立てた人差し指を当てた。有栖は、その温かさと感触を紛れもなく生きた人間のもののように感じた。

 彼女は「あなたが、死んだ人だなんて信じられない。それに、いつだったか、あなたは『まだ、霊魂の存在なんて科学的に証明されていない』と否定したわ…」

 この世界は、物事で満ち溢れている。まるで何もない場所にも、雑草の生える茂みがあり、目まぐるしく空の色は変化する。手品師が放ったように、鳥たちは空中に散らばり、細長い私道でさえ、それなりの存在感を示しているものだ。

 有栖は驚くほど鮮明な夢の中にでもいるかのような、現実離れした思考と感覚に身を委ねながら、部屋の中を行き来した。

 翔太が部屋のドアを開けると、松平、尾関、奈緒美の三人が立っていた。有栖はおそるおそる近づき、いつもよりも弱弱しい声で「本当にあなたたちなの?」と尋ねた。

 松平は疲れているようにも見えたが、その眼にはこれまで見たことがないような不思議な希望の光が宿っていた。

「様々な障害や悩みがあるからこそ、人間は成長できる」いつもの調子で、尾関はそう言った。

 松平は「現実の世界はアトラクティブでワクワクすることばかりだ。だから、正直言って君のことが羨ましい」と言うと、窓に近づき遠くを見るような視線を投げた。

「私たちは、純粋なあなたのことが大好きなのよ」と奈緒美は言った。

 有栖は自分のことを田舎暮らしの娘のような純朴な女の子だとは考えていなかった。それに、奈緒美のいかにも神妙な表情を見て「それって、いったいどういうことなのよ?」と尋ねざるを得なかった。

 都会の享楽的な雰囲気に慣れ親しみ、贅沢な暮らしをしてきたため、自分のことを羨む者がいたとしても、その純真さに共鳴する者は皆無だろうと思っていたからだ。

 翔太はわざとらしい無神経さで「正体がバレてしまったからね。これからはおまえには、俺たちの姿は見えなくなるということ」と言った。

「これも、予め運命によって、決められていたということなのだ」

 尾関が言い終わるのを待って、奈緒美は「ごめんなさいね」と言って、悲しそうな表情をした。

 翔太は「俺たちは天使だ。別の言葉でいうと、菩薩とか守護神とか…。なんか、そういう感じの奴なのだよ。この世に未練や怨念を残しているわけではないからな」

 有栖は、武市翔太とは小学校の同級生だったが、彼女が女子大付属の中高一貫校に進学した後は長い間、会っていなかった。小学校時代は、家が近所だったため、お互いの家を行き来したりして仲が良かった。

 そのあと、翔太の家族が都内の別のところへ引っ越ししてから、音信不通になっていた。

 二年前に翔太から連絡が来るまでは…。

 有栖には、成長した翔太の姿が眩しく見えていた。

(それが…、すべて幻のような出来事だったなんて信じられない)

 彼女の頭の中では、これまでの出来事が走馬灯のように浮かんでいた。唐突で乱暴だが明るくて楽しい翔太、冷静にアドバイスしてくれる松平、特徴的で風変わりだが、どこか憎めない尾関、明るい笑顔で慰めてくれた奈緒美。そして、今では、有栖の精神的支柱となっていた毛利まで、いなくなってしまうのだ。

 彼女がこの二年間で、困難を克服しながら成長できたのは、他ならぬ彼らのおかげだった。そして、世の中への恐怖を振り払いながら、大人の女性になることができたのは翔太の存在があったからだ。

 有栖は三杯目のワインを飲みながら、たった一日で鬱病になったような気がしていた。今後に対する大きな期待感が裏切られ、絶望感で心の中が満杯になりそうなのだ。

 感情の揺れは、仕事とプライベートの両方に関係があり、楽天的な気分でいられるか、悲観的な気分で塞ぎ込むかは、日常の出来事が影響する。

 彼女は深く息をつくと、風に揺らぐ葦のようによりどころのない気分で、また窓の外に目をやった。

 そこには、翔太が言うように大きなピザのような月が輝いていた。「モッツァレラチーズ、トマト、バジル」と、ほろ酔い気分の有栖がつぶやくと、翔太は「それは多分、定番のマルゲリータだよね」と言って笑った。

「こんなときによく笑えるわね」

 翔太は「心配しなくたってさあ。いつだって、どんなときだって、俺たちは大好きな有栖のそばにいるよ」と、いつもよりやさしく微笑んだ。

 尾関は、有栖の様子を見て「生きること自体が、君に課せられた使命だ」と言うと、柔らかな視線を向けた。

「人がもし、物語ることをやめてしまったら、この世界は闇に閉ざされてしまうだろう。現実とは、神が創造した壮大な物語なのだ」と松平が言うと、翔太は「俺たちの物語も、忘れないでくれよな」と補足した。

「ありがとう。そして、さようなら」

 有栖は、スマホのアドレスや、着信・発信の履歴など、超能力研究所のメンバーと毛利取締役に関するものは、すべて消え去っていることに気が付いた。

 彼女は翔太とのこれまでの出来事を、頭の中から追い出すことなど出来そうもなかった。彼は突然のごとく現れては不躾なことを言い、生きた心地がしないほど驚かせる。だが、その反面、人を楽しませる術を知っていた。今では翔太の存在が、なくてはならないものになっていた。

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