第15話 自由の刑

 ゴールデンウィーク明けに出社したところ、新入社員の一人が「五月病になり、退職願を出している」とみさきから連絡があった。新入社員の彼女は、国内トップの大学を優秀な成績で卒業していた。

 みさきの話では、エントリーシートに書かれた内容、成績、数度の面接での受け答え、グループディスカッション、論文、英語力までずば抜けて優れていたらしい。「そのまま辞めさせるのは惜しい」と言うのだ。

 そこで、有栖が退職理由を問い質し、慰留することになった。話してみると、同い年の彼女の気持ちが痛いほど理解できた。

 高いプライドで学業や習い事に取り組んできた彼女が、些細なことで叱られ「自信を失ってしまった」と言うのだ。「あなたの気持ちは分かるわ。でもね…」と、有栖はなだめるように言った。

「今のタイミングで辞めるのが、あなたにとってベストなものなら良いのだけど…」

試用期間中は「解約権留保付労働契約」となるため、会社から本採用を拒否する権利がある。だが、彼女は無論、その対象ではなく、将来に期待ができる社員として、幹部候補として名前が上がっていた。有栖はそのことを考えていた。

「中途半端な時期に辞めると、あなたの将来にマイナスになる可能性がある。叱られたのが原因なら、他社に入っても同じ繰り返しになることも…。もう一年、辛抱した方があなたにとっても人間的に成長できるわ」

 有栖の話を聞いて、新入社員は「はい、そうですね」と言って、何度も頷いていた。

「考えの方向を変えるのよ」と有栖は指摘した。「今のあなたは自分のことばかり考えている。自分のどこが悪いのか…何故、周囲に溶け込めないのかと…」

「でも、考えなければ問題は解決できないのでは…」

「むしろ、考えすぎること、それがあなたの問題なのよ。あなただけが特別じゃないし、自分自身を憐れむのは、しばらくやめてみてはどうかしら」

 若年層はよく抽象的に「人間的に成長したい」という言葉を使う。学生時代は人間的成長を学業成績に求め、社会に出てからは、会社にとっての利用価値に換価して考えるものだ。(でも…、それがすべてだろうか? )と有栖は思った。

 そして、(自分は恵まれている)と、彼女は感じていた。が、そのことに誇らしさよりも、後ろ暗さを感じることもあった。

   ※

 有栖は化粧台の前に腰掛け、鏡に映る自分の顔をチェックした。そして化粧を始めた。

 化粧水で顔全体を湿らせると、ファンデーションを塗りつける。彼女は目を美しく見せるため、アイシャドウを使った化粧法には特に気をつけた。

 そして、椅子を後ろに引いて、鏡に映る自分の化粧の出来栄えを確かめた。(私は若くて魅力的だわ)

 有栖は、しなやかで艶のある髪にくしを入れ、もう一度鏡を覗くと、腕時計で時間を確認した。(もうこんな時刻…。急がなくちゃ)彼女は、女性誌の特集記事で、若手経営者として取り上げられ、インタビューを受けた後で、タレントとの対談が予定されていた。

 女の魅力は肌や髪のつやではなく、ファッションセンスの有無でもない。有栖の考えでは、目の輝きによって証拠づけられるものだ。そういう意味では、魅力的な中高年層の女性を何人も知っていた。だからと言って、メイクや服装へのこだわりを疎かにしたくもなかった。

 女性誌の対談では、女たらしで有名な男性タレントが選ばれていた。二枚目俳優と甘ったるいドーナツの組み合わせは妙なものだが、この元二枚目俳優は、ドーナツに目がないようで、せり出たお腹が無類の甘党であることを証明していた。

 彼は「経営は面白いものだと思うが、肝心なものが欠けているとも思う。つまりそれは、大勢の観客の存在だ。大きな声援がなく、万雷の拍手がない。自分を支えてくれるファンもいない孤独な作業だと思う」と言うと「あなたはどう思いますか?」と尋ねた。

 有栖は「経営者は、自分に対するファンの声援を期待することは出来ません。ですが、顧客の有形無形のニーズに答えることが命題だと思います。さらに、サイレントマジョリティーの声なき声を聞き、社会に貢献することを第一義に考えないといけない。それが、私どもの企業利益と結びつくことがベストですが…」

「なかなか良いことを言うねえ。だけど、難しいことだよねえ」

「ですが、そこに経営の面白さがあると思うのです」

 対談中にカメラマンがシャッターをひっきりなしに切る。そのため、何度か対談を中断した。あくまでも、自然体を撮影したいのだという。

 元二枚目俳優は対談終了後に会場となったホテルの部屋を横切って外に出る時、携帯電話番号を手渡し「今度、夕飯を御馳走するから、電話かけてよ」と言うと、ポンポンと有栖の肩を叩いた。

 有栖は、ぼんやりと(翔太ならそんなことはしないだろう)と思った。

 彼女が出版社のビルを出るなり、見送りに来ていた記者の一人が近づいて話しかけた。「対談は大成功でした。長曾我部専務、ありがとうございました」

 彼女は女性経営者として認められ、着々と成功の階段を上りつつある。しかし、真価を問われるのは、これからなのだとも実感していた。

 翌々月、その写真が「トウキョウ・マンスリーマガジン」の一面を飾った。写真の説明は“プレイボーイ俳優が美人経営者の本音に迫る”だった。

 有栖は信じられない気持ちで写真を見た。“女子大生が大手商社の専務に就任”というタイトルで、二年前に注目された時以上に、大きく取り上げられていたからだ。

 この記事と写真は、長曾我部商事の社内でも話題になり、有栖は「トウキョウ・マンスリーマガジンの記事を見ましたよ」と度々、声をかけられた。

 みさきは皮肉な調子で「あの何にも専務取締役様が本当にたいしたものよね」と言って、笑って見せた。

「見損なわないでね」

 有栖には、ただそこにいるだけで人を魅了してしまう不思議な力があった。そのため、新聞社や雑誌社も彼女のビジネスや私生活について興味を持って追いかけてきた。

 記者たちへのサービスのため、しばしば名言で応答した。記者の一人が「女性のあなたにとって、経営の難しさとは何でしょうか?」と質問したとき、「男性が家屋の大黒柱だとすると、女性は基礎部分に該当すると思います。いずれがなくても、家は建たない。両者が協力し合ってこそ、経営も成り立つと思うのです」

 有栖を取り巻く人脈は、次第に数を増やしていった。ときどき彼女は、思いもよらぬ大物から声を掛けられ、会食をすることもあった。しかし、彼女の周りに大勢の人が集まれば集まるほど、彼女は孤独を感じていた。

 哲学者のサルトルは「実存主義とは何か」という本の中で「人間は自由の刑に処せられている」と言っている。これは、自分でやったことに対して、自分で責任を負わなければならないからだ。

 有栖は肉体を魂の檻のように感じ、ある種の呪縛ではないかと感じることがあった。そんなときは(むしろ、不自由の刑に処せられているのではないか?)と思うことがあった。

 有栖が長曾我部商事の役員室にいるとき、異変を感じて窓の外を見ると、普段と違うことに気づき、インターネットでニュース検索した。いくつかのニュースサイトを閲覧したところ、東京都心で震度五の地震が発生したようなのだ。ビルの上層階であるにも関わらず、揺れを感じなかったのは、長曾我部ビルが免震工法で建設されているからだ。

 過去二十年間に発生した大地震は、一九九五年の阪神淡路大震災、二〇〇四年の新潟県中越地震、二〇一一年の東日本大震災、二〇一六年の熊本地震、二〇一八年北海道胆振東部地震など大勢の死者と家屋の倒壊、他の多大な経済的損失を発生させている。

 それでいて、抜本的な解決策が見当たらない状況だ。また、テレビ報道では今後の震災の予想で、夥しい死者と損失が出ることを当然のように取り上げて、注意喚起することが関の山なのだ。

 資料によると、今後、大地震の発生が考えられるエリアは赤く塗られ、被害者数や倒壊家屋の数まで記述されている。有栖は(該当するエリアで仕事や家庭を持つ人々は毎日をどんな心境で暮らし、何に希望を見出そうとしているのだろう)と考えると、無力感で胸が痛くなった。

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