第14話 スペイン旅行

 三月になり大学の卒業式が体育館で挙行された。式典が終了し、大学を出て表通りを歩きながら、有栖はこの二年間の出来事を振り返った。

 つまり、有栖が専務に就任してから二年が経過していた。無事に大学を卒業し、これからは土日祝日を除いた毎日、会社に出勤することになった。これまで、週二日の勤務で「何にも専務取締役」と陰口を叩かれながらも、学業と両立させてきたことや、思いのほか激務だったことを思い出して、自分自身をねぎらいたくなった。だが、これからが正念場なのだと思いを新たにもしていた。

 大学卒業後の約一ヶ月の間に、彼女は社員食堂の受託給食会社を入れ替えて、多様なメニューを提供する自然食中心のものにした。さらに、社内提案制度を充実させ、たとえ新入社員であっても、画期的な提案をした者のために報奨金を進呈することにした。

 会社への不満は、匿名での申告を受け付け、万一提出者が誰かわかったとしてもお咎めなしとした。これによって、社畜と呼ばれる役員たちの意識は向上するだろうと、彼女は確信していた。ただし、根拠なく人を貶めるような申告は、断固として許さない構えも同時に示した。

 さらに、地域商社事業の活性化を図るために、地場産品などの商材開拓、全国の販路開拓に注力するよう支社や支店への出張を精力的にこなした。こうしたことが奏功して、社員たちは、有栖のことを「何にも専務取締役」とは呼ばなくなった。

 彼女には、勤務スケジュールの厳しさに耐えかねて、弱音を吐いている暇はない。当面は、情け容赦なく続く辛い勤務にも耐えられる自信があった。

 長曾我部商事株式会社は、一日の業務を六時に終了する。終了時間になると、従業員たちは帰宅の準備のため、退社時刻を打刻し、コンピューターをシャットダウンする。

 有栖の存在は、正社員のみではなく、契約社員、派遣社員、準社員にも知られるようになり、彼らがガヤガヤとおしゃべりしながら退社して行くときには「専務、お先に失礼致します」と、大半の者から声を掛けられた。

 くたくたに疲れた有栖が帰宅したときは、もう夜中になっていた。この一ヶ月間は昼食をとる時間もないほど忙しい日が多かった。夕食もカップラーメンやサンドイッチだけで済ませることもあった。

 彼女は(もうひと踏ん張りすれば、ゆったりと過ごすことができる)と考えていた。(苦行は悟りの因にあらず)とも…。

  ※

 有栖の大学卒業を祝して、ゴールデンウィークに家族でスペインの観光地や町を旅行することになった。

 スペインと言えば、町全体が世界遺産のトレドのエル・グレコ、フェルディナンド二世とイザベル女王の物語などを思い出した。

 飛行機が着陸態勢に入り、市街地がどんどん近づき、長い滑走路を降りるにつれて、有栖はほっとした気分になった。

 マドリード・バラハス空港のターミナルビルは込み合っていて騒々しく、混沌としていた。有栖たちは、群衆とともにホールまで進んだ。

 ホールの出口からロビーに出ると、観光客でごったがえすロビーに出た。日本人の団体客のうち、初老の女性が「ヨシダはん、はよ、はよう、こっち来て…」と大声で叫んでいる。関西からの旅客らしいが、出発に間に合わないと、友人を呼んでいる様子だ。

「興ざめだな」と誠が言うと、智恵子は「あれも旅の風物詩なのよ」と言ってなだめた。

 さらに、父の誠が旅行会社に頼んで「運転手付きのリムジンをチャーターしよう」と提案したが、二人は反対した。そのため、彼は「何が旅の風物詩だ」と言って不機嫌になった。

 空港からは電車、地下鉄、バスを乗り継いで、約一時間四十分で世界遺産の街「トレド」にたどり着いた。トレドは、ゴミ一つなく非の打ちどころがないほど清潔だった。有栖たち三人は、太陽が燦燦と降り注ぎ、乾いた空気の香りが鼻腔をくすぐるのを感じた。

 トレドは、中世の面影を残すおとぎの国のように美しい所である。ギリシャ人画家のエル・グレコが愛し、四十年近くを過ごし多くの作品を残している。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が混在した歴史を持ち、タホ川に囲まれた旧市街は世界遺産にも登録されている。

 サンタクルス美術館では、エル・グレコの絵画を鑑賞し、トレドでもっとも高い丘の上に立つアルカサルを訪ねた。この古城は、軍事博物館にもなっており、古代ローマや中世の武器が展示されていた。有栖は、自分がまるでシンデレラ姫になったような気分だった。

 誠は「兵(つわもの)どもが夢の跡だな」と言うと、感慨深げな表情をした。

 アルカサルの周辺を散策している時、翔太によく似た少年が通りを歩いていたのを目撃した。が、彼は有栖の方に目もくれず、そそくさとその場を立ち去っていた。

誠は旅先の観光地でも仕事の話ばかりするため、智恵子から嫌がられていた。逆に、母の智恵子は「本当にきれいな街並みねえ」と言って、目を輝かせていた。

 昼食は観光地でパエリアとガスパチョのスープに舌鼓を打ち、夕食はホテルのレストランでフォアグラのステーキ肉を頬張った。

 今回の旅行では、スペイン観光だけではなく、目的がもう一つあった。

 スペインではAIは、すでに広く活用されている。マドリードを本拠地とする企業が、AIとブロックチェーン技術を応用し、自動車事故を二十五%減らすと公表し、実用化まで秒読みとなっている。

 また、スペイン国内の警察で、被害届や盗難届のうち虚偽文書を八十%超の精度で見破るAIシステムが導入されている。

 こうした実務に結び付く、視察や研究も目的の一つとしていた。大型連休とはいえ、必然的に駆け足での探訪とはなったのだが…。

 他国での取り組みを調べ、実地に見ておくことは単に見分を広めるだけではなく、ビジネス上の新たな発想につながる。誠は「多様な取り組みや、そのコントラストを見て感じておくことが大事だ」と言った。

 智恵子は「仕事の話ばっかり…」と言って苦笑した。誠は、そんなことは気にも留めない様子で「歴史やビジネスの知識もなく、想像力も乏しい愚か者が、観光気分で旅するのとは、同じ時刻に同じ場所を見ても意味が違う」と皮肉な口調で言った。

 有栖は、智恵子に同情しつつ、誠の言い分を間違いだとは、思えない自分に気が付いていた。

 いずれにしても、ここまでのスペイン旅行は驚きと感動の旅になった。大学卒業後の最初の海外旅行ということもあり、有栖は新しい人生の始まりを予感していた。

 木曜日、マドリードの空に雷鳴が轟いた。不快な雨をため込んで膨れあがった黒っぽい雲が、四方から押し寄せて太陽を隠していた。五月のマドリードは東京に比べて降雨量が少ないため、どしゃぶりの雨が降り出すことは想定外だった。そのため、サン・イシドロ祭の期間、ラス・ベンタス闘牛場で毎日開催される闘牛の催しもこの日は中止となった。

 有栖は、ぼんやりとホテルの部屋の窓辺に立って外を眺めた。どしゃぶりで、通りを見通すこともできない。雨に目を細め、窓を伝う雨粒の行方を追いながら、どうするか考えてみた。

 そして、三人で相談し美術館巡りに予定を変更した。プラド美術館ではゴヤやベラスケス、ソフィア王妃芸術センターではピカソやミロ、ダリなどの絵画を鑑賞した。

 夕方になりようやく雲に切れ目が生じ、太陽が水浸しの地表を照らしていた。

 旅も終わりに近づいた金曜日、三人はマドリードからAVEの超特急でバルセロナに移動した。

 サグラダファミリア教会は、観光客でごった返していた。中に入ると外観と異なり、光を効果的に使ったモダンなアートを見ることが出来た。この教会を設計した稀代の建築家アントニオ・ガウディは「人間は決して自由な存在ではない。でも、人間の意欲の中には自由が存在する」という言葉を残している。

 夕方から、リセウ大劇場でノルウェーの劇作家・イプセン原作のオペラ「幽霊」を観劇した。この物語は三幕物で、偽装結婚の悲劇を描いたものだ。有栖は、悲劇的な結末に衝撃を受けつつも見事な演出には惜しみなく拍手を送った。

 スペイン旅行の最終日は、両親と離れて単独行動をすることにした。有栖は、夜遅く観光地から少し離れた場所にある小粋なバーに腰かけていた。

 サングリアという赤ワインベースのドリンクとタパスを注文し、舞台上で演じられているフラメンコのショーを見た。

 女性ダンサーの後ろには歌手が一人、ギタリストが二人いた。メランコリックな曲想が激しいものに変化し、曲のテンポが速くなると、手拍子とギターのメロディーに合わせてダンサーは、情熱的に踊り始めた。

 有栖は、サングリアの二杯目を飲み終わると、尿意を催したため席を立った。

 トイレから席に戻る途中で、男二人に挟まれて、若い女がカバンを奪われそうになっているのに出くわした。有栖は咄嗟にスペイン語で「Estúpido(バカ)」と叫ぶと慌てて、席に戻り「Ayudame(助けて)」と書いた紙片を折りたたみ、店員の手の中に押し込んだ。そして、後を追ってきた男たちの方を指差した。

 彼女は、付け焼刃のスペイン語で「iBasta! (やめて)」ではなく、「Estúpido(バカ)」と言ってしまったことを後悔した。そのせいで、内心の不安感は一気に増大していた。それは、男たちの誰かを痛めつけなければ気がすまないという、不条理な怒りの犠牲者にならないかという不安だった。

 彼女の手のひらは汗ばみ、心臓の鼓動が早くなっていた。だが、二人組の乱暴な男の顔など、二度と見たくはなかった。

 有栖が勘定を済ませて、出口に向かって歩いていた時、男性の呼び声を耳にした。

「有栖」

 彼女は、振り向くよりも早く、声の主の正体が分かった。それは、この世で最高の魔術師がもたらした奇跡のようにも思える瞬間だった。翔太が有栖に向かって近づいてくる。明るい笑顔の翔太は、大きな声で言った。

「もう大丈夫だよ、有栖。こんなところに来るなんて驚きだろ?」

 有栖は驚きと、喜びで胸がいっぱいになり、心臓が止まるのではないかと思った。(私をこんな気分にさせるのは、世界中でこの人だけだわ)

「本当に大丈夫だ。お前の姿はあいつらからは見えないよ」

「いったいあなたは、どんな能力を…、いえ、どんな魔法を使ったの?」

「異次元空間を利用したのだよ。まあ、今のお前に言っても、それが何か分からないだろうけどな」

 心臓の動悸がおさまるにつれて、日常にあるような安心感が戻ってきた。有栖は(いったい何が起ころうとしているのだろう?)と思わずにはいられなかった。

「心配無用、俺がついているよ」

 高校時代に一度だけ両親に連れられ銀座の歌舞伎座で「義経千本桜」を見に行ったときは、退屈のあまり眠ってしまった有栖だったが、スペイン旅行では目を生き生きと輝かせていた。

 歌舞伎の鑑賞の時は、誠が不機嫌になり「四百年以上の歴史を持つ、日本の古典芸能に退屈するような者は将来が期待できない。大成する器ではない」と断言していた。が、今回の旅行では、同様の対立は起きなかった。

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