第13話 敵か味方か?
有栖は珍しく、休日のスケジュールを予め決めていなかったため、何をして過ごすのが最適か一つ一つ考えてみた。
〈一日中、家にいて卒論の仕上げをする〉
〈上映中の映画を見る〉
〈みさきと萌を誘ってショッピングに出かける〉
〈図書館に行って十日後のフランス語の試験勉強をする〉
〈冷蔵庫の中が寂しくなったので、食料品の買い出しに行く〉
まず、卒論は今すぐ仕上げなくとも、提出期限までには余裕を持って間に合いそうだ。
スマホで調べたところ、映画の上映は午後三時からの回にまだ空席があったため予約を入れた。
少なくとも、みさきや萌を土曜日の当日の朝に誘ったとしても二人ともOKとは言わないだろうと有栖は思った。彼女らは、ボーイフレンドとのデートに忙しそうだからだ。
有栖のフランス語の成績は良好で、休みの日を丸一日潰す必要性はなさそうだ。
映画の上映は午後からなので、午前中のうちに、スーパーマーケットで買い物は出来そうだ。
有栖が、自宅の裏通りの歩道を歩いていると、迷子の子犬が纏わりついてきた。それはまるで、自分がどんな存在なのかを知らないことによって、楽しさを享受しているようにも思えた。
彼女は、新約聖書の「明日のことを今日のうちに思い煩わなくても良い。明日のことは、明日になってから思い煩うことだ。一日の苦労は、一日限りのものと考えるだけで十分である」という言葉を思い出した。
無邪気な子犬は、見知らぬ自分にでも尻尾を振りながら無邪気にじゃれている。
有栖が通りの角にある小さな喫茶店に腰掛けて、コーヒーをすすり始めても、子犬は表から店の中にいる彼女の姿をしばらく見つめ続けていた。
その様子がどこかしら、翔太の持つ雰囲気に似ているため、彼女は「くすくす」と笑い始めていた。ウェイトレスが怪訝そうにこちらを見ていることに気づき、有栖は外にいる子犬を指差した。
ウェイトレスが窓に近づき、屈んで子犬に顔を接近させると、背中を向けて立ち去っていった。
喫茶店を出た後、スーパーマーケットに食料品の買い出しに出かけた。自宅マンションの冷蔵庫を満たすと、有栖は再び外出した。
※
映画館では、複数の作品が同時上映されており、ロビーは観客で賑わっていた。有栖がチケットを求めたのは、大ヒット中のコメディだった。先週公開されたばかりで、午後二時の回は混雑していた。
売店ではいつも通り、ポップコーンとコーラを求めた。上映時間の二時間三十分を考慮して、コーラはSサイズを注文。
彼女は、映画を見ることで、複雑な日常を忘れることが出来ると思ったからだ。だが、頭の中で考えることは想像以上に多く、映画に集中することができなかった。
暗い映画館の客席は、ざっと見たところ、ほぼ満席だった。有栖は客たちを見るために首を回して、明るい昼間から暗闇の中に来て映画を鑑賞する人の心理状態に、不健康な憂いのようなものがないことに気が付き、何故かほっとしていた。
映画の主人公は、人気女優が演じるヒューマノイド型のロボットで、人間の少年との恋愛での行き違いで困惑するところが面白可笑しく演出されていた。
さらに、この物語では、飲食店、コンビニ、量販店の店員はすべて、AI搭載のロボットが登場し、そのぎこちなくも不自然な動きがユーモラスに描かれていた。
有栖の周囲の観客は、一様に映画を楽しみ、場面が変化するたびに爆笑していた。映画館は満席だった。が、映画が終わる三十分前に、隣の席の客が席を立った。直後に、隣の席に腰かけていたのは翔太だった。
「……」
「君に会いたくてさ」
彼女は、氷が解けて薄くなったコーラを飲み干すと、ドリンクカップを座席のホルダーに戻した。
「何も悩むことはない。お前は自分で思う以上に上手くやっているよ」
「ありがとう。でも、本当のところはどうなのかしら」
しばらくして、隣の席の客がトイレから戻ってくると、翔太は姿を消していた。
隣席の男は、誰も腰掛けていない空間に向かって話しかけている有栖の様子を見て、あっ気に取られたように彼女を見つめていたが「あのぅ、大丈夫ですか」と尋ねた。
(彼はきっと、この女は病気なのかもしれないと思っているのではないか? 常人と異なる精神構造に戸惑っているのではないか?)と思った。
「ええ、大丈夫よ」
映画はコメディなので、観客は声を出して笑い、大いに楽しんでいる様子だった。ラストシーンでは、人間の少年がヒューマノイド型ロボットにプロポーズし、二人はめでたく結ばれるというハッピーエンドになっていた。 有栖が周囲の観客を見回すと、皆が幸福そうな笑顔でスクリーンを見つめていた。(笑顔は、神様が人間に与えてくれた最高の贈り物といえるだろう)と、彼女は感じていた。
一方で、ドラマの中で、優秀なAIの下で人々は働き、町には失業者が溢れている様子がシニカルに描かれていたことも見過ごせなかった。
※
有栖は午前中の授業を終えると、学生たちで混み合う大食堂で昼食を済ませた。カフェテリアで食事をする学生は、スマホやipodを持ち込み、一人で食事を終えるとしばらく席にいて、音楽を聴いたりゲームをしたりして時間を費やしていた。そのため、混雑しているときですら、それほど騒がしくはなかった。
有栖のスマホに着信が入り、大学のキャンパスを歩きながら考え事をしていた彼女は我に返って電話に出た。
「もしもし?」
「大友です」
「あっ。はい。長曾我部です」
「今、忙しいですか?」
「いいえ、ちょうど午前中の授業が終わったところよ」
「一時間後に会社に来てもらえそうでしょうか?」
緊急の要件であることに気づいた彼女は「ええ、今から出社するわ」
一時間後なら、電車でも十分に間に合うタイミングだと判断して告げた。
「多分、四十五分程度で行けると思う」
大友はほっとしたような声色で「では、待っています」
「分かったわ。あとでね」
会社に着くと、大友が険しい表情で出迎えに出てきた。「大変なことになっています。専務のご意見をお聞きしたいと思いまして…」
長曾我部商事では、海外戦略の一環として中東の国の通信会社に出資していたところ、その国が他国と軍事衝突し、攻撃を開始し始めた。予定では追加出資する方向だったが、有栖は毛利取締役と相談し、早期撤退を決断した。だが、会議は紛糾しそうになった。
ゼロリスクを唱える役員たちが「撤退に伴う損失が大きいため、しばらく様子見をするべきだ」と主張。
大友常務は「営業部としては、事態を重く見ているものの、情勢が定まる前に動くのはいかがなものかと思います」と意見を述べた。
有栖が「通信会社への契約不履行による補償をしても良いから、海外在住の社員の安全と、国際社会での信頼を維持したい」と言っても「だから、あなたは何にも専務なんてあだ名で呼ばれるのだ。考えが甘すぎる」と批判するものまでいた。
これに対して、島津は有栖を擁護し「私は全面的に専務がおっしゃる早期撤退に賛成です」と、強い口調で言った。
有栖はためいきをついた。そして「いずれにしても、社員の無事を祈るしかないわ。それと、損失によるリスクよりも、彼らの安全こそ守ってあげたい」と念を押した。
毛利取締役は、いつも通り黙っていた。さらに、これもいつも通りのことだが、有栖の意見が劣勢に立たされそうになると「ゴホゴホ」と咳払いをした。
誰も毛利のことを気に留めていないように見えるにも関わらず、その咳払いの後で、役員たちは、有栖の意見に賛成した。まるで、咳払いに特別な力があるかのように…。
デスクの前に座った毛利は、一度も発言したことがなく、退屈そうに窓の外を眺めていることさえあった。
有栖は無意識のうちに、どこかが変だと感じていた。そのことを本人に問い質すべく、頭をフル回転して考えても、適当な言葉が見つからないのだ。
彼女は一日の仕事を終え、食事をし、入浴して、やっとくつろぎの時間を迎えることが出来た。テレビを見ながら寝室のベッドに横たわると(長い一日だったが、何とか私はやりおおせたのだ)と思った。
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