第12話 想念と感情


 有栖が専務に就任してから一年が経過した。四年生になった彼女は、就職活動に熱心なクラスメイトを横目に見ながら、卒論のテーマを何にしようかと、考え始めていた。

 それと同時に、授業の空き時間をスピリチュアルの研究に充てようとも思っていた。超能力研究所のメンバーの鼻を明かしてやりたくなったのだ。

 彼らに会ってから、有栖の心霊能力はなくなってしまったかのように、幽霊を見ることもなくなっていた。

 有栖が受講している民間企業が主催している「願望実現講座」は、瞑想方法、脳波のコントロール方法、量子力学、仏教思想まで、複数の講師陣が担当するカリキュラムが組まれていた。

 高額講座のため、年間受講者数三十名限定で、主催者の説明では「既に各界に成功者を大勢、送り出している。修了者は同社のサクセスクラブのメンバーに登録され、その後の人脈として活かせる」とのことだ。

 みさきを誘ったところ、彼女は「怪力乱神を語らず…と言ってね。生憎、そんな講座は受講したくない」と言下に断られてしまった。萌は「超心理学には興味があるし、有栖と一緒なら…」と言って受講を決めた。ただし、受講期間は十日間で日曜開催、受講料七十万円と聞いて青ざめていた。

 願望実現講座の講師陣は、サイエンスライター、大学教授、ヨガのインストラクター、ベンチャー企業の社長、僧侶の五名が担当していた。

 会場は正面にホワイトボードがあり、最前列の机の上にはプロジェクターが置かれ、スクリーンには、今回の講座の講師陣の肩書と氏名、各講座のタイトルが映写されていた。

 まだ、講座が始まる前ということもあって、部屋の中は静かな様子で、スマホやノートパソコンを操作するものや、文庫本を読んでいるものなど、各自が自分の興味があることを時間つぶしにやっていた。

 壇上に、講座の主催者で司会担当の上杉が進み出て、マイクに口を近づけると、受講者の視線は正面に向けられた。

 上杉は「座学で資格取得をねらうのとは違い、ここで学んだことを活かせるかどうかは、受講者の皆さんがどれだけ実践するかにかかってきます」と言った。

 そして、カリキュラムを説明した後で、トイレや喫煙所の位置、昼休みの際の会場周辺のレストランなどの場所について話し終わると、講師にマイクを手渡した。

 初日の講座とで、サイエンスライターは「私たちが見ている現実は、実在するものではありません」と強い口調で言った。そして「二重スリットの実験」「シュレーディンガーの猫」「超弦理論」などの理論をスライドと動画を見せながら説明した。

 彼は一回目と二回目の二日間の講座で物理学の基礎をドラマチックに演出していた。

 三回目と四回目は、大学教授は「唯心論は、古くはギリシャの哲学者プロティノスを起源とし、中世ではアウグスティヌスのキリスト教学、近世ではショーペンハウアー、エマーソン、現代アメリカの哲学者ジョン・サールまで多士済々だ」と説明し、「今回は、これらのアカデミックな哲学ではなく、中村天風、ジョセフ・マーフィー、ノーマン・ヴィンセント・ピールらのポップ・フィロソフィーから役立つ考え方をご紹介しましょう」と前置きした。

 彼は心の力を活用するためのニューソートの考え方を中心にポップ・フィロソフィー全般について教えた。

 五回目と六回目の講義はヨガのインストラクターによるものだ。彼女は有栖の目から見ても、魅力的に映っていた。(男性は女の魅力を女性ホルモンによる性的なものだと考えがちではないか)と有栖は感じていた。ところが、目の前にいるインストラクターは、四十代後半だというのに実に美しく思えた。それは、外見からくるものではなく、内面の充実が眼の輝きに宿っているからだろう。

 有栖がそんなふうに考えていると、彼女は「願望のゴールを現状とは異なるスケールの大きなことに置きましょう。ただし、あなたが信じられる範囲内でないといけない」と指示した。

「そのためには…」と彼女は言うと、参加者の顔を見渡した。

 彼女は「メンタルスクリーンに自分の願望が実現した後のありさまをリアルに思い描き、五感などの身体感覚と感情で味わい尽くすことが重要です」と説明した。そのためには、「正しい瞑想法をマスターすることです。さらに、瞑想中の経験を疑いなく実現するものだと感じ取ること。それから、背筋を伸ばしゆったりと呼吸することなだが大事ですね」と言うと、実演して見せた。

 七回目と八回目は、ベンチャー企業の社長は、願望実現講座の修了者の成功事例をいくつか説明した。彼自身がサクセスクラブのメンバーで、自分が思い描いた理想を実現したというのだ。

 彼は自動車王ヘンリー・フォード、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー、考古学者シュリーマンなどの具体的なエピソードで心の用い方を説明した。

 九回目と十回目の僧侶は唯識思想について語り、他の講師とは真逆のことを言い始めた。

「唯識思想は、インドの世親が著した『唯識三十頌』を始めとする複雑かつ難解な理論の大系です。この教えの要諦は、私たち自身も物事の仕組みも、因縁によって生じており、実体は何もないということです。つまり、あれが欲しい、これが欲しいという煩悩を断つための知恵を身に着けることが大事なのです」

と言うと、参加者から質問を受けた。

「願望実現に執着することは、あなたの説によると、悪業を積むことになるのでしょうか?」

 僧侶は神妙な表情をすると「仏教では無漏善という考え方がある。願望を頭に描いたとしても、それに強く執着せず、手放すことで悪業にはつながらない」と言った。

 願望実現講座の全日程が終了し、主催者から修了証が手渡された。司会の上杉はあいさつの後で「修了者の皆さんは、サクセスクラブのメンバーとして登録され、月に一度の会合に参加し情報交換が出来ます」と言った。

 講座の終了後に、名刺交換会と食事会が用意されていた。彼らのうち、何人かはすでに高い地位についているもの、つまり、経営者、開業医、司法書士などが含まれていた。その一方で、年若いサラリーマンが将来を夢見るように参加していた。

 食事会はホテルの地下一階のレストランにてバイキング方式で行われた。和・洋・中の料理やデザート、ソフトドリンクの他にアルコール類も用意されていたが、クルマで来ていた萌はノンアルコールをグラスに注いでいた。

  ※

 有栖は最近、零細規模の浄水器メーカーの広報担当者によるプレゼンテーションを聞いた時のことを思い出した。彼らはアルカリイオン水の浄水器を使えば、酸性体質を改善できると強調していた。

 そして、あろうことか、リトマス試験紙を持ち出し、「社員の皆さんの体質を酸性よりかアルカリ性よりか判定いたしましょう」と言い出した。

 長曾我部商事では、国内の有力大学の卒業生が多数入社している。リトマス試験紙で唾液を調べても、酸性体質かアルカリ性体質かはわからないことぐらい大半の社員は瞬時に見抜いていた。

「市販のリトマス試験紙では、そこまではわからないはずだ。浄水器よりも、その試験紙を販売してもらえないか?」と言うものまでいたので、浄水器メーカーの社員たちは、慌てて退散していた。

  ※

 萌は、懐疑的に「成功の定義が曖昧だし、偶然起こりうる確率に比較してどうなのかしら?」と言うと、有栖の答えを待った。

「それは確かに検証すべき課題だと思う。私たちはファンタジーに出てくる魔法使いのような存在に何かを委ねるわけには行かないのだから…」

 すると、萌は「高度なテクノロジーは魔術に似ているという言葉があるわ。でも、この講座で習ったことは魔術そのものだと思う」と失望したような表情を見せた。

「でもね。私は明るく考えることの意義について、ちゃんと見つけることができたような気がする。それが、わからないと何かに理由をつけて、暗い考えに慣れ親しんでしまいそうになる」と有栖はにこやかに話した。

 様々な不可知論やフォイエルバッハなどの唯物論の本の読者は、宗教や暗在系や神秘主義には関心を持たなくなるものだ。だが、有栖の知識の範囲からすると、それこそが了見が狭いナンセンスだと考えていた。

 食事会に集まったメンバーで、同じテーブルを囲む何人かは、口をそろえて「有意義な講座だった」と言っている。

 萌は、参加者の弁護士に心を奪われた様子で、彼が同じテーブルに着いた途端に声色まで変化させていた。

 彼は「サイコ・サイバネティクスという考え方を知っていますか?」と萌に尋ねた。「マクスウェル・マルツ博士の『自分を動かす』なら読んだことがあります」

「ああ、それは良かった。彼は人の生活は習慣に支配されているので、習慣を変えることで運命さえも良くすることが出来ると言っています。もっと言うと、心の習慣である自己イメージを変えることが、人を救うということです」

「……」

「あなたは、フォレンジック・サイコロジー(法心理学)については、何かご存知ですか?」

 この質問に、萌は決まり悪そうな顔をした。彼女は、知らないのだ。

 弁護士の男性は、答えに窮している萌を横目に見ながら、ポケットからあぶらとり紙を取り出し、額や頬をぬぐった。

 彼は「それじゃあ、また機会があれば意見交換しましょう」と言って、別のテーブルへ移動した。

 食事会が終了し、萌のクルマで帰路についた。が、途中、事故による渋滞に巻き込まれた。萌は、遅々として進まないクルマの長い列に苛立ちを感じ「早く動けって、叫びたい気分よね」と舌打ちした。

 しばらくして、事故現場に急行するパトカーがサイレンを鳴らし、クルマの列の横を走り去った。

 講座では、講師の何人かが「すべての現象は、自分の想念・感情が創造する。望まないような不都合でさえ、実は自分が引き寄せたのだ」という意味のことを言っていた。それにも関わらず渋滞でさえ、心の力で解決できないのだ。

 有栖は呪文を唱えてみた。

「オン、アボキャ、ベイロシャノウ、マカボダラ、マニ、ハンドマ、ジンバラ、ハラバリタヤ、ウン」

 彼女は、ふと(講座の受講者や講師も渋滞に巻き込まれているのではないか)と想像した。

 有栖は都会のビル街にも、大気汚染にも、クルマの渋滞や満員電車による窮屈で苦痛に満ちた人生から逃げ出したくなることがあった。

 講義で学んだことの一番の収穫は、実にシンプルに心の力の中では「明るく物事を考える力こそが最大のものだ」ということだ。

 カーラジオは、サザンオールスターズの名曲を流していた。

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