第11話 壮大なビジョン


 昨夜、営業部の内部通告で知ったことですが、あなたを含む創業者一族のことを大友たちが情報収集しているようです。具合の悪いことは、何も出てはこないでしょうが、念のためお伝えします。川端より。

 有栖は川端のeメールを読むと、とりあえず「了解しました」とだけ返信した。

大友が自分たちのことを調べ上げているのは、陥れるためではない。おそらく、趣味嗜好性を調べて上で、もてなし自分たちの社内での立場を良くしようとしているのだ。

 そう思うと同時に、父親の誠の誤判断が悪い展開につながることが信用できるのなら、憎しみを抱くべきではないとも思った。

 有栖は、何事も無駄にするのが嫌いな性分だった。弾かないで埃の積もったピアノほど悲しいものはない。同様に実力がありながらも、無理解な上司のパワハラに追い詰められて辞めていく社員をもっと悲しいと感じていた。

 会社の諸規則には、出向規定が記述されているものの、実際に出向を求めるには本人の承諾が必要だ。

 大友はすぐに出向することを受け入れるだろうか? 有栖は、彼の功罪を数え上げているうちに気が重くなった。

  ※

 島津伝次郎取締役は、社内では人斬り伝次郎の異名で呼ばれていた。労務対策のプロで、大勢の従業員を解雇してきた。

 また、社内の労働組合を心底嫌い、組合出身者を要職に就けないように手を回してもいた。彼は「組合活動を社会主義者だ」とののしり、「共産主義者の言うことは信用するな」と痛罵した。

 彼は「かつて、経済学者たちは市場主義経済に対して、計画経済の優位性を主張していた。が、共産主義国の相次ぐ崩壊を見ればわかるように、市場原理が勝利したことは疑いない。計画経済ではなく、市場経済の自由競争原理こそ、世界経済になくてはならなかったということだ」と自説を展開していた。

 有栖は「勝利したのは、共産主義に対する自由主義であって、資本主義ではない。つまり、混合経済体制こそがもっとも妥当なものなのよ」と反論したが彼は頑として譲らなかった。

 有栖は「バブルの時も、青天井みたいに高騰した不動産価格をバブルショック後は底なし沼みたいに下落するに任せていた。あのとき、市場原理に委ねずに、政策的に価格調整を図るべきだったのよ。国土利用計画法をうまく使って、不動産価格の極端な下落の歯止めにするべく、調整弁を働かすことができたはずよ」と自説を主張した。

 さらに「そうすることで、その後の大勢の失業者も出さずに済んだだろうし、資本家の権益も守れたはず…」と付け足した。

 だが、島津は「君の言うことは、単純な理想論であって現実味がない。私のT大の同窓生は皆、優秀だ。特に成績優秀者が舵取りをしている官僚は、その代表選手と言っても良い。資本主義陣営の素晴らしい仲間たちと言ってもいいだろう」と言った切り、押し黙ってしまった。

 島津には、いわゆる直感像素質といわれる能力があった。一度見たものは全て記憶できる能力だが、これはいわゆる超能力ではない。

 生き字引のように正確な知識は、味方にとっては心強いが、敵にとっては脅威とみなされた。

「あなたは、該博な知識を基にして強弁する癖がある。ですが、知識に偏重しすぎると、人や現実を見誤ると思うのだけど…」

 島津は有栖の指摘を聞くと、意外なことに頬を綻ばせ、嬉しそうな口調で言った。

「私は自分の知識の不足を知識で補おうとする癖がある。何かわからないことがあると書物や資料で検証しようとするからだ。が、あなたは、すぐに知識で補うのではなく、想像力を駆使して自分の頭で考えようとする。それが、クリエイティブな発想につながっているようだ。そこが良いと思うのだよ」

 そもそも弁証法とは、テーゼ→アンチテーゼ→ジンテーゼという論理の運動法則だ。対立する論者の存在なしには、次に展開も成長もないだろう。有栖は島津を見て、自分の考え方とのコントラストから、多くのことが学べるのではないかと考えていた。

「壮大なビジョンを掲げて、それを実現できる人物ほど偉大な存在はいない。しかし、容易なことでは理想を具現化できないのが常人なのだと思う」島津は、感慨深げにそう言うと「これでも、私の若いころは青雲の志があったのだよ」と続けた。

 大抵のものは、島津が己の野心のためには無情になれる人物で、昇進のプロセスで対立と決別を繰り返すことを屁とも思わないだろうと思っていた。

 だが、島津は社員一人一人のことを実によく記憶し、理解していた。そのため、人員整理の時も、すぐさま解雇するのではなく、本人の希望を極力受け入れて配置転換していた。やむなく、解雇の場合でも、退職金の上積みや、次の就職先の斡旋に注力することを厭わなかった。

 島津の卓越した言語能力と記憶力をもってすれば、人が嫌がる労務処理も迅速かつ、問題なく進んだ。

 人斬り伝次郎と呼ばれながらも、大友のような悪評がなく、どこか憎めないのはそういう点にあるのではないか? 有栖は大友と島津を対比してみることで、より理解が深まった気がしていた。

 少なくとも、彼はインテリを気どって人を見下すような人間ではなかった。

  ※

 長曾我部商事では、資源事業部門、非資源事業部門を大きな二つの柱としてきた。近年は、経済学者や評論家による「商社無用論」が囁かれる背景で、これまでのような取り組みに改革が求められている。資源の分野では、従来型の原油・石油製品の輸入売買に依存するのではなく、油田・天然ガス田の開発・運営に軸足を変化せざるを得なくなっている。

 有栖の考えでは、メタンハイドレートの掘削事業への資金の投入については否定的、藻類バイオ燃料のオーランチオキトリウムへの参入については肯定的な立場をとっていた。

 社内では、彼女の主張に反対を唱える論者が多かった。有栖は、メタンハイドレートの掘削は、地震の発生確率を高める上、実用段階で温室効果ガスの排出が予想されるからだ。

 これに対して、オーランチオキトリウムは、石油生成藻類を利用して製造しており、温室効果ガスの増加にもつながらない。研究者と連携し、これをローコストで供給するシステムの構築こそが急務だと彼女は提案していた。

 さらに、有栖が資源開発の研究から派生して調べたところでは、地震の発生には周期性があると考えられているものの予測技術が確立されていないということ。

 活断層の長さは、一つ辺り四十キロメートル内外のものもあれば、中央構造線のように百キロメートルの長さのものもある。

 免震、制振、耐震の技術を使えば、活断層型地震は解決できるのではないか?

 震度七以上のいわゆる激震では、大勢の死傷者や家屋の倒壊が予想される。震度六でも被害は大きい。が震度五程度の強震程度なら被害はかなり抑えられる。

 地震は大別すると、プレート境界で発生するもの、プレート内で発生するもの、内陸部の活断層を震源とするものだ。

 活断層型地震については、四十キロメートルから百キロメートルの活断層のパワーを減衰するために、緩衝材を使うとすると、百メートルあたり千ヶ所に埋め込む必要がある。

(強度計算をし、どのような素材を開発し、工程管理をどうするべきなのか…。そこを研究しなければならない)と彼女は考えていた。

 これらの調査によって、長曾我部商事の抱える問題は転機を迎えた。初めのうちはあきらかに労力の空費だったが、数々の偶然が新しい視野を開いてくれたからだ。

 大学や研究機関と連携し、新たなパラダイムを創造する。それは、容易なことではないが、有栖にとってはやりがいのある仕事だった。

 量子コンピューターの時代になれば、計算処理速度が格段に速くなり、AIの性能も飛躍的に向上するだろう。

 コンピューターに保存した膨大な資料を整理し終えると、有栖は椅子の背にもたれかかった。それから、お茶のペットボトルに口をつけた。

 若い有栖には、未来は自らの力で切り拓いていくもののように見えていた。祖母の芳江が、有栖を会社役員に推挙したのも、彼女の思考能力と未来志向の考え方を高く評価していたからだ。

 現生人類のホモサピエンスは、何十万年も前から存在しているが、文化を手にしてからまだ五万年程度しか時間が経過していない。今後、人類がさらに発展して行けるか絶滅するか、今がその過渡期かもしれないのだ。

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