第8話 手いっぱい

 あくる朝、実家にいた頃に使っていたベッドで目をさました有栖は、部屋の中を見回した。壁のいたるところが、ミスキャンパスコンテストでの優勝や、珠算検定一級、読書感想文の入賞など、数多くの思い出で埋め尽くされていた。これらは、すべて父親が飾り付けたものだ。

 祖母の芳江は、食卓テーブルに向かい、「老化予防のためなのよ」と言って、クロスワードパズルを解き続けていた。女子大時代に成績優秀者として表彰されたのは、はるか昔の話だというのだ。

 そこへ電話のベルが鳴り響いた。

「もう十時よ。誰かしら」そう言いながら受話器を取ると、「もしもし」と聞き覚えのある声が耳に伝わってきた。

 それは、明らかに大友常務の声だった。「お休み中、恐縮ですが折り入って、専務にご相談したいことがございまして…」かしこまった調子で、彼は言うと待ち合わせ場所を指定した。

 ちょうど、有栖は大友常務一派を追い出すことに、ビジョンを現実化する自分の心の力を使えないことに苛立ちと、何故かほっとするような気持の両方を感じていたところだった。

  ※

 JR「浜松町駅」へ行く途中にある高級ホテルで有栖はタクシーを降りた。それから、バッグを小脇に抱え、クルマの流れを見つめ、近くで停まるクルマがないか目を光らせる。

 毛利取締役や松平所長の意見は、有栖の心の中では喉に刺さった魚の小骨のようにいつまでも気になりそうだった。

 彼女がお気に入りの安積得也の詩集「一人のために」の中の詩の一節を思い出しているとき、立山課長が運転するベンツがスーツと入ってきた。

 安積得也は「手いっぱい」という詩で…

  眼前のことで手いっぱいのときも

  花を忘れまい

  大空を忘れまい

  おおいなるものましますことを

  忘れまい

 という言葉を編んでいた。

 クルマのドアが開くと、助手席に座っていた秋川課長が小走りに近づいてきた。

「専務、お待たせして申し訳ありません。思ったよりも、渋滞していたものですから…」

 続いて、東村部長、中田副部長、大友常務の順に近づいてきて「申し訳ありません」とそれぞれが言うと、頭をちょこんと下げた。

 そうして、五人でレストランの席に腰かけた。駐車場にクルマを回した後で、立山課長が席に着いた。立山は有栖の方を見ると、横柄な態度で「そらあ、クルマが遅れることぐらいなら、ありますよ」とだけ言って、ニヤリと笑った。

 立山の横柄な態度や口の利き方は社内でも評判が悪かったが、彼の営業力は群を抜いて優れていた。得意先に対するときだけ、別人のように愛想よく丁寧な態度で臨むため、周囲では、彼の複雑な心理を計りかねていた。

 有栖も、立山のことを快くは思っていなかった。だが、他の三人は礼儀正しく、そつがないため、悪印象はなかった。

 これが、もし推理小説のようなフィクションの中の出来事なら、もっとも犯人らしく思える大友は、真犯人ではなく、(物語の途中に出てくる狂言まわしのようなダミーではないのか)と有栖は思った。

「突然で恐縮ですが…」と、大友は切り出した。そして、東村に手で合図した。

 すると、大友の横、有栖の斜め左に座る東村が隅にいる秋川に命じて、カバンの中からノートパソコンを出させた。

 立山は「こんなの資料を見るまでもなく、当たり前のことなのだけどね」と生意気な口調で言った。

「資料は、休み明けの会議の時にスライドにしてお見せするつもりでした」と東村は、申し訳なさそうに言った。

 有栖がパソコンのディスプレイを見ると、そこには統計を基にした棒グラフや折れ線グラフが表示され、もっともらしい説明が大きく記述されていた。

 大友は「実は専務にこれまでの非礼をお詫びし、あなたの方針に全面的に協力をしたいと考えて、この席に御呼びしました」というと頭を下げた。

 立山は「それじゃあ、まるで米搗きバッタだよ」と言って、鼻を鳴らした。今まで、大人しくしていた中田が、急に立ち上がると「立山君、少し言葉を慎んでくれないか?」と強めの口調で諭した。

「はいはい、いいのですよ、中田さん」と言うと、立山はニヤリと笑った。

 有栖は、これまで何度も会議の席上で、人工知能やロボティクス技術を導入し、文書データの自動抽出や会計システムへの入力作業の自動化、データマーケティングへの応用を提案していた。

 大友はそうした案に全て賛成するばかりではなく、企業のM&Aを含むAIビジネスに本格参入するための具体策を議題に乗せたいというのだ。

 AIビジネスは、ディープラーニングの精度が、飛躍的に高いレベルに達した今こそが最適な参入のタイミングだという主張を大友はまくしたてた。

「つきましては、専務の意見に賛成いたしますので、今回の我々の提案にもご協力いただきたいと思いまして…」

 それを受けて「頭の固い爺さん連中を専務の力で抑えて欲しいのだよね」と立山は言った。

(彼らは容易には、しっぽを出さないだろう)と有栖は思った。探り合いのパーティー会場では、ダンスのステップを間違えて、先に転んだ方が負けになるのではないか…。彼女は(慎重にことを運ばなければ)と自分自身に言って聞かせた。

 有栖はとりあえず答えを保留し「考えておくわ」とだけ伝えた。

  ※

 いつものことだが、有栖の前に突然のごとく翔太が姿を現した。翔太はスズキのGSX―R750に乗って登場すると、後ろの席にまたがるように指示した。

「バイクに乗るには、ちょっとしたコツがある。後ろの席の奴にも、責任があるということだ」と言うと、ヘルメットを手渡し「有栖にも、三つだけ注意して欲しいポイントがある」と、後部座席を手のひらでポンポンと軽く叩いた。

「まず、バイクは車体を傾けてカーブを曲がる。だから、君も怖がって、体を起こしたりせずに、バイクや俺と同じように、カーブを曲がるときは同じ程度に体を傾けてくれ。そうしないと…」

「それは、分かったわ。それから…?」

「次に、膝で俺の腰を挟んで、ホールドして欲しい。そうすることで、動きにブレがでないし、急ブレーキのときにも安全なのだよ」

「……」有栖は少しだけ首を傾げて見せた。

「それから、これが一番大事なポイントだけど…」と言うと、彼は有栖の目をじっと見つめて「俺の背中に手を回し、ギュッと抱き着いてくれ。そうしないと、君は振り落とされることになる」

「それは、ちょっと」と有栖が言い終わるのを待たずに、翔太はバイクにまたがると「ぐずぐずしないで、早く乗って…」と促した。

 走り始めてしばらくすると、バイクの振動とエンジン音、翔太の体温が伝わってきた。

 箱根の丹沢湖や、洒水の滝を見た後で、夕映えのする富士山を見ながら、帰路を急いだ。

 箱根周辺は木々が色づき、燃えるような美観に心を奪われるような気分になった。

 翔太はクルマとクルマの間をスイスイとくぐり抜け、風を切り裂きながら、ハイスピードでバイクを走らせた。

 快調なエンジン音を響かせながら、高速道路を走行していると、後ろからくるハーレーダビッドソンに接近され、何度もあおられたため、有栖は恐怖で胸の中がいっぱいになった。

 そのため、彼女はいっそう翔太に力を込めて抱き着いた。さらに、追い越し車線のベンツが隣に並びかけてきた。クルマの窓がスーツと下りると、大友の顔が見えた。 

 大友はハーレーに向かって「立山っ…、前に回り込め」と大きな声で指図し、左手を振り回した。

 翔太はバイクを巧みに操作し、立山のハーレーをやり過ごし、上手くその横を通り抜けたかに見えた次の瞬間、横転し、有栖の身体は宙に投げ出された。

 有栖は自分の身体が地面に叩きつけられたと思った途端、幽体離脱していた。道路上に横たわる自分の姿を見て、彼女は死を確信した。

 例えようもない恐怖感を胸の奥にしまい込み、浮上してこないように蓋をするのは容易なことではないはずだ。ところが、彼女は不思議なことに、今の状況に安堵を感じ、何かわからないが不思議な力に守られているような感覚が生じていた。

 翔太は、横転のタイミングで、いつものように瞬間移動したのか、怪我一つしていない様子で、有栖の方に近づいてきた。

「有栖っ、大丈夫だよ。おまえはまだ生きている」 

 有栖は(何故、そんな気休めを言うのだろう)と首を傾げていると、けたたましいベルの音が聞こえた。勿論、霊界のものではなく、この世の目覚まし時計の鳴る音だった。

 目を覚ますと、有栖は翔太が夢の中にまで、瞬間移動して、自分の感情をコントロールしようとしているのではないかと思った。

 まだ九月のはずなのに、何故か夢の中では十一月ころの箱根周辺の光景が目に映っていた。

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