第7話 心の力

 明日香は祖母から「大きなビジョンを描き、五感でその場にいるかのように実感する。そして、ワクワクしながら願いが叶うことを待つ。日常のあらゆることに前向きに取り組み、神に感謝し続ける。毎日、物事に真剣に臨む。そうすることで、自ずと願望は実現する」と言い聞かされて育ってきた。

 彼女には、高校生の頃からの大きな夢があった。一つは、長曾我部グループのコングロマリットを世界有数の規模に拡大すること。さらに、豪華客船で世界一周旅行をすること。そして、理想の相手と結婚することの三つだ。

 三つの夢のうち、二つまでは心境の変化が特になかった。が、三つ目の理想の相手については、セレブで、イケメンで、秀才でというような尺度ではなく、翔太のような奔放で楽しい相手に気持ちがかなり傾いていた。

 翔太とはあれから、休みのたびに国内のあちこちに出かけ、多くの思い出をつくった。もっと正確に言うと、翔太が一方的に、勝手に、唐突に出現しては話しかけてくるのだ。(これが他の相手なら、あまりの無神経さに嫌悪感を抱いていたことだろう)と彼女は感じていた。

 恋愛中のIQは著しく低下し、正しい判断が出来なくなるという。相手との共通点を実際より多く感じてしまい、短所でさえ魅力的に思える心理状態に陥りがちだ。(冷静沈着に判断しなければ…)という思惑と(人の好悪まで、計算で割り出そうとするなんてありえない)という感情との間で、明日香の頭の中は、振り子のように揺れていた。

  ※

 九月の連休に、明日香はみさきと営業部の北畠萌の三人で、北海道に旅行に出かけた。

 お目当ては、大雪山国立公園で日本一早い紅葉を見るためだ。赤岳・銀泉台から緑岳へ抜けるコースは見どころがふんだんにある。

 三人は羽田空港で集合。三人とも、登山を想定した軽装で、トレッキングシューズを履いていた。午前十一時十五分に羽田空港を出発し、旭川空港に到着したのは十二時五十分。シャトルバスに約五十分乗車し、旭岳温泉に着いた。そこから、ロープウェイで山頂を目指した。広葉樹は赤や黄色に、針葉樹は緑に色づき、ナナカマドやカエデの落葉との色彩の微妙な差異が浮世絵木版画の錦絵を連想させる見事な景色が広がっていた。

 ロープウェイを降りると三人は、話しながら歩いた。

 みさきと萌は彼氏の話に花を咲かせ、仕事や勉強で多忙な明日香のことを「お気の毒」と言った。

 明日香は翔太との奇妙だが、親密な関係について、初めて二人の友人に話した。が、彼の持つ、特別な能力や風変わりな登場の仕方には、しきりに首を傾け「あなた、本当に大丈夫なの?」と尋ねるようなありさまだ。

 超能力研究所のことについても、二人はまったく信じようとしなかった。「夢を見ていたのよ」とか「きっと、疲れのせいなのよ」という始末だ。

 しかし、明日香の胸の内では(いつものように、突然のごとく翔太が現れて、度肝を抜くようなことをするに違いない)と、予感を感じ、半ばそれを期待してもいた。

 九月の北海道は、日中は過ごしやすいが、夜になると寒くなる。温泉で身体を温め、疲れを癒した三人は翌日、旭山動物園まで足を伸ばした。

 園内では人気のある「ほっきょくぐま館」「あざらし館」「ぺんぎん館」では行列が出来ており、二十分前後並んだあとで、動物たちの様子を見ることが出来た。

 いつもの翔太なら、ほっきょくぐまが泳ぐ姿に見とれているときに、背後から唐突に声をかけられそうだ。二人の友人は、動物たちを見ているときでも、彼氏の話に時間を忘れている。

 一方で、翔太と付き合うことに、二人は反対した。大学で臨床心理学を専攻していた萌によると「あなたが、存在しないはずの人物の幻覚を見ているとすると、統合失調症の陽性症状の可能性がある」というのだ。

「ただし…」と彼女は言った。「他にあなたの異常が見られない以上は、精神疾患の可能性は低いわ」

 みさきが「とすると、他の可能性としては何が考えられるのかしら」と尋ねた。

「おそらく…」と萌は、勿体ぶるように口を開くと「その翔太という男の子に催眠術をかけられているはず…。あなたの財産が目当てなのよ。きっと」と今度は確信したように頷いた。

 萌は、さらに「歴史上の人物だと、ロシアの怪僧と言われたラスプーチンが、催眠術を使ってアレクサンドラ皇后を操り、政治に大きな影響力を持つようになったケースがあるわ」と言った。

 みさきは「それから、どうなったの?」と興味深そうに促した。

「その後、ラスプーチンは暗殺され、帝政ロシアは崩壊する。崩壊の原因のひとつがラスプーチンだと言われているわ」

 聞き終わると、明日香は「憶測で物を言うのもほどほどにしてね」と言い返した。まるで、二人とも職場での立場を意に介してなどいない様子だ。

 みさきは、心配げな表情を浮かべると「とにかく、その男と明日香が交際するのは絶対に反対。ろくなことにはならないわ」と決然と告げるように言った。

 だが、正確に言うと、翔太はいつでもこちらの都合などお構いなしに訪ねてきた。それにも関わらず、今回だけは翔太が姿を現さないことに、明日香は奇妙なイメージを感じ取っていた。

(翔太が現れさえすれば、二人とも彼の魅力がわかるはず)と、内心はいつものような突然の出現を期待し始めていた。

 翌日は予定通り、旭川から札幌に移動。JR旭川駅から札幌駅まで特急を利用して一時間三十分かかった。

 明日香は、北海道旅行で海鮮丼、石狩鍋、味噌ラーメン、ちゃんちゃん焼など、新鮮な素材を活かした美味しい料理を食べて、少し体重の増加が気になっていた。

「旅行の時ぐらい、お腹いっぱい食べなくちゃね」と、みさきはあくまでも、気にしない様子だ。

 結局、最終日まで翔太は姿を現さなかった。(さすがの翔太でも、テレポテーションで移動できる距離には限界があるのだろう)と明日香は思った。

   ※

 豪邸が立ち並ぶ一角に、ひときわ大きく場所を占める邸宅が彼女の実家だ。敷地は相当の広さで、植木の手入れも行き届いている。

 明日香は旅先から東京に舞い戻ると、実家を訪ねて、土産物の「生チョコレート」を祖母の芳江に手渡した。

 博は会社の会議室で話す時のような厳しい表情ではなく、明るい笑顔で明日香を迎え入れた。「ゆっくり、くつろいで行けば良い。晩御飯はお前の好きなペペロンチーノを用意させよう」と言うと、芳江の方を見た。

 明日香が翔太のことや、超能力研究所のことを話すと、博は「確かにイギリスでは、ノーベル賞受賞者まで心霊研究をやっている。が、あまり深入りしない方が良い」とだけ言った。博は、翔太のことについては「おそらく奇術をマスターしているのだろう。あまり、信用できないな」と言って、訝しむような表情を見せた。

 芳江は「あなたが私に嘘を言ったことがあったかしら」と言って目を細め、「きっと、その翔太という子は素晴らしい青年なのでしょうね」と頷きながら、明日香の目を覗き込んだ。

 明日香が大友のことを話すと、博は「休みの日に、仕事の話をしなくても良い」と制止した。

 そして「あいつは、若いころから信用できる男だ」と太鼓判を押した。

 明日香はこれまで、大友の口から「わが社の会長は、神のような存在だ」と、何度も聞かされてきた。だが、それは(本人に伝わることを計算したものだろう)と思い、むしろ嫌な気分がしていたものだ。

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