第6話 思案
有栖が専務に就任してから、五ヶ月が経過していた。大学では専門課程の授業と、論文の作成などで、慌ただしい毎日を強いられていた。
同級生たちは、異口同音に「大学で習ったことが、社会に出てから役立つとは思えない」と言う。
だが、有栖は真剣な気持ちで、ピーター・ドラッガーの「マネジメント」、ダグラス・マクレガーの「XY理論」、ウィリアム・デミングの「品質管理」、フィリップ・コトラーの「マーケティング」、マイケル・ポーターの「戦略論」などの様々な理論を実務に役立てるつもりで学んでいた。
※
大学のキャンパスを歩いていると、突然のごとく、目の前に翔太が姿を現した。神出鬼没とはまさに彼のことだ。
「ちょっと、やめてくれる。ここをどこだと思っているのよ」
「女子大のキャンパスだよね」
「だから、女人禁制なのよ」
「嘘だろ? 先生とか、職員とか男の姿を何人も見かけたよ」
「どうして、こんなところにいるの?」
「じゃあさ、俺の質問にも答えてくれよ」
「……」
「ライオンってさあ、オスの方が長髪で、メスの方がお寺の尼僧みたいに、坊主頭なのは何故だろう?」
「さあ、何故なんだろうね」
「あのね、俺が聞いているのだけど…」翔太は不服そうに言いながら続けた。「じゃあさ、ツクツクボウシは何故、自らの名前を名のり続けているのか知っているか?」
有栖は、思わず笑いだしてしまった。笑いながら「今の質問の答えならわかるよ…」
「今の笑顔は最高だね。答えてみてよ」
「ツクツクボウシはセミ科の昆虫で、鳴くのはオスだけで、メスに自分の居場所を知らせているの。ただし、名前を名のっているのではなくてね。犬はワンワン、猫はニャンニャンみたいに、人間が鳴き声から、そう名付けただけなのよ」
「つまらない答えだよな。そんなの退屈だよ」
「あなたの答えはなんなの?」
「まず、ライオンのオスは、ロックバンドのボーカルの格好良さを真似して、メスたちを惹きつけておきたいのだよ。きっと…。ツクツクボウシは、人間たちに駆除されないように自己紹介しているのだと思う」
「嘘ばっかり」
「嘘を言っても、ゼペット爺さんのピノキオみたいに、どんどん鼻が伸びたりはしないだろ?」
「そうかもしれないわ」有栖は、半ばあきれながらもクスクスと笑った。
翔太と付き合いだしてから、有栖の男性観は一変した。それまでのボーイフレンドといえば、マザコンや自分に媚びを売る男たち、それに生真面目で面白みのない退屈な連中ばかりだったからだ。
そうした男たちにはない型破りな奔放さが翔太にはあった。自分の感情に正直なのにも関わらず、それをユーモラスに表現するところに新鮮な驚きを感じていた。
大学のゼミの時間が終わり、帰りに翔太とともに超能力研究所に出向いた。
超能力研究所の松平所長は、人の心を読み取り、テレパシーを送ることができる。
「種を蒔くことで、収穫の秋には果実がもたらされる」松平は尾関の口調を真似て言うと、愉快そうに笑った。
そして「尾関さんは、ノストラダムスや、出口王仁三郎、ババ・ヴァンガ並みの予言者だよ」と、その場にはいない尾関のことを持ち上げた。
話す意欲は充分にあったのだが、最近の寝不足がたたり、椅子に腰かけて松平の声を聞いているうちに、有栖は猛烈な睡魔に襲われた。
彼女は、眠りの世界に引き込まれると、子どもの頃の夢を見た。そして、夢の中で雷鳴が響くのに驚いて、目をさました。
もうろうとした意識のままで、視界を調整する。目の前には、松平と翔太が並んで腰かけていた。
寝ていたのは五分程度のことだ。松平は「大分、疲れているのだよね。無理もない」と慰めるように言った。
「おまえ、寝言は赤ん坊の喃語みたいだよね。むにゃむにゃ、ばぶーっ、だってさ」と翔太が冷やかすと、二人は明るい声で笑った。
「ただでさえ、忙しいのだから、そのまま寝かしておいてよ」頬を膨らませると、彼女は怒ったふりをした。
「気持ちはわかるのだけどね」と松平が言うと「この事務所には、お嬢様を寝かせる高級なベッドはございませんよ」と、翔太が冷やかした。
眠気を覚ますのには、ブラックコーヒーが最適だ。有栖はそう考えて、席を立った。
コーヒーサーバーから、コップに茶褐色の液体を淹れると、香ばしい湯気が立ち昇った。
松平は尾関や奈緒美から聞いた話を元にして、大友の危険性を話し始めた。
現在の大手商社は従来のように貿易、卸売で右から左に商品を売買するだけではなく、金融や投資事業にも力を入れている。
エネルギー関連の収益減を補うために、企業を買収し、経営改善を図っていくことも主力ビジネスの一つとなっている。
そのため、大友常務が担当する営業部門は相対的に影響力が小さくなりつつあると有栖は考えていた。
さらに、大友が一九九一年のイトマン事件のような大それたことをしでかす器ではないと見ていた。
コンプラライアンスについても、国内の優秀な大学卒業生が集まる長曾我部商事での不祥事が悪質化するとは考えられなかった。
有栖が調べたところ、刑務所の入所率は大卒を基準にすると、高卒は約五倍、中卒は約三十二倍だ。(学歴だけで人を判断するのは、残酷かつ無慈悲だ)と、有栖は思った。が、これがシビアな現実なのだ。
一方で、大勢の従業員を擁する商社では、社員の犯罪出現率が低くとも、何かあれば「エリートサラリーマンの犯罪」として注目度が高くなることも確かだ。
例えば、痴漢行為で当局につかまっても、被害者との示談が成立すれば中小企業の従業員なら不問に付される。だが、有名企業の場合は、逮捕の事実が報道されると、職務に関係のない行為であっても、懲戒処分にせざるを得ないことになる。そういうケースが散見されるのだ。
松平は少し、天井を見つめて思案深げな表情を見せた後、唐突に「人間の労働者は、産業用ロボットやAIに職を奪われてしまい失業者が大量に発生することになる」と言った。
「それはどういうことなのかしら? 大友常務の件とは、無関係だと思うのだけど…」
「それが大ありなのだよ」
「具体的に言うと…。どんな関わりがあるの?」
「まあ、慌てない。慌てない」有栖が神妙な顔をすると、いつも翔太は茶化そうとした。
「つまり、彼が…、大友が社長に就任した後で、産業用ロボットやAIをフル活用し、大勢の従業員を解雇する。そうすることで、長曾我部商事の収益性を大幅に良くすることになる」
「そのことが、日本全国の企業に波紋を広げるということなのかしら?」
「いや、君のイメージとは規模が違うようだ。大友の諸施策が全世界の企業に波及し、失業者が町中に溢れ、ついには、世界のビッグ3と呼ばれる複合企業に富が集約してしまう」
「松平さん、あなたはその予言を尾関さんから聞いたのね」有栖は、口数の少ない尾関が冗長に話す姿が想像できなかった。
「厳密に言うと、尾関さんの心の声やイメージを読み取ってみたのですよ」
松平は他心通やテレパシーの能力者だ。(しかし、言葉通りに信用しても良いものだろうか? もし、彼らの言葉がすべて嘘だったとしたら、いったい何が狙いなのだろう)と、有栖は思った。
「ミネルバのフクロウは迫りくる黄昏に飛び立つ」という言葉は、哲学者のヘーゲルが「法の哲学」の中に記したものだ。これは、理論は現象が起きた後で構築されるということを意味する。
それに反して、尾関の予言は現象の発生を先取りしている。(このことの意味は大きなものだ)と有栖は考えると、少しの間、目を瞑ってみた。
そして「松平さんの能力を何らかの方法で証明してもらえないかしら」と言葉にした。
「なるほど、疑いたくなるのはわかる。それでは、君に国内外の旅行先のことと、そこで起きた出来事をイメージしてもらい、それを当てて見せよう」
有栖は松平の指示に従い、再び、今度は比較的長く目を閉じた。
松平は「君は、カリブ海に浮かぶタークス・カイコス諸島で、大学の友人二人とバカンスを楽しんでいる。リゾートホテルを出た後、美しい海岸線に沿って乗馬で散歩している姿が見える。どうだろう? 何か違う点があっただろうか?」
「私が心の中でイメージしたことと、寸分も違わないわ」有栖はそう言うと、少しだけ首を傾げて見せた。
有栖は、大友常務が自分の立場を優位なものにするため、少なくとも三十名の従業員に引導を渡していることに、不快な印象を持っていた。だが、したたかな彼は、表向きは大量解雇に反対し、会長、社長、他の役員にアピールしていた。(彼には二面性があるので信用できない)と、有栖も内心では感じ取っていた。
大友はもともと、事業効率化のために営業部員を解雇することに反対を唱えていた。ことごとく、有栖が推進するペーパーレス化や、AIの導入に関する試案に反対の立場をとっている。
(そんな彼が、真逆の施策で臨み大勢の従業員を解雇するだろうか? 大友は「営業部員こそ会社の財産です。彼らなくしては、一分一秒も経営活動は成り立たない」と口癖のように言っていた。つまり…、未来予知が信じられるかどうかも、試してみるしかないのだろうか?)と有栖は思った。
(試そうにも、尾関さんは今ごろ清掃作業の最中で、研究所に立ち寄ることはないだろう)
「大友はおそらく、君が思う以上にしたたかな男だ」松平は、有栖の考えていることを感じ取り、そう付け足した。
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