第4話 余波

 有栖はホテル・ラ・スイート神戸ハーバーランドに部屋をとった。ゴールデンウィーク中くらいは、ゆっくりと過ごしたかったからだ。宅配便で送らせていたスーツケースを受け取り、部屋へ運び上げると、午後二時になっていた。

 窓を開いて、風を招き入れていたため、窓の下ではしゃいでいる子どもたちの声が、近くにいるようにはっきりと耳に届いた。

 有栖が窓から外を眺めると、全長七十~八十メートルはありそうな遊覧船が出航するのが見えた。多忙を極めた毎日を忘れるために、ここにやって来たのが正解だったような気がした。

 昼食を済ませていなかったので、ルームサービスでフライドポテトとギネスを取り寄せた。よく冷えたギネスをグラスに注ぎ、ポテトを齧りながら、港の様子を見ていると、ここがかつては大震災の被災地だったことが不思議に思えた。

 有栖は「少量のアルコールなら健康に良い」という父親のアドバイスに従って、ビールなら中ジョッキ二杯、ウイスキー、ワイン、シャンパン、カクテルはグラスに一杯程度まで嗜んでいた。

 ほろ酔い加減で、気分を良くした有栖は、ホテルを出てハイヤーをチャーターし、美術館に向かった。ベルギーの画家ルネ・マグリットの絵を見るためだ。

 美術館に到着し、窓口でチケットを購入しようとしていると、どこからともなく翔太が現れた。

 唖然としている有栖の様子を見て、翔太は「俺たちのような能力者には、こんなことは朝飯前だよ」と言った。彼は、東京から瞬間移動して来たというのだ。

 ルネ・マグリットは、不思議な画家だ。代表作の「人の子」「再現しない」「ゴルコンダ」などの作品では、ごく平均的な人物がシュールな筆致で描かれている。

 チケットを購入せず、瞬間移動で館内に入った翔太は「マグリットは存在の神秘や哲学を絵画のかたちで描写できる」と、つぶやくと、微笑んで見せた。

 マグリットの絵は、何処かしら翔太の持つ雰囲気に似ているな…と、有栖は思った。

 美術館を出て、近くの喫茶店に立ち寄った。

 店の入り口のドア近くに配置した止まり木には、体長五十センチはありそうなタイハクオウムがいた。オウムは関西弁の口真似で「おおきに、おおきに、ほんま、ほんま」と甲高い声を出した。

 オウムは翔太の方ばかりを見つめていた。翔太が「口が達者なオウムだなあ」とからかうと、「そら、あんたやがな」との声が返ってきた。二人は顔を見合わせて爆笑した。

 店内は、立てたばかりのほろ苦くて香ばしいコーヒーの匂いが立ち込めていた。欅の天然木で造られたテーブルや椅子は、木目が浮き出ており、独特の風情があった。

 二人で席に着くと、翔太は「長曾我部商事でのアルバイトは、有栖の出勤日と同じなのだって…」と言うと、片方の眉を吊り上げた。

「実を言えば…」と有栖は、少し複雑な表情で翔太を見た。「あなたたちの力を借りるのには、抵抗感があったのよ」

「自分も毛利取締役に頼まれなければ、おまえに話しかけはしなかったよ。研究所のメンバーも紹介しなかったと思う」

「でもな…」翔太は照れ臭そうに「俺たちは有栖の力になれると思う」と言いながら、微笑んで見せた。

 喫茶店を出る時、またあのタイハクオウムが甲高い声で「おおきに、おおきに、ほんま、ほんま」と言った。

「それは、さっき聞いたからいいよ」翔太が言うと、オウムは「なんでやねん」と返してきた。

 翔太の希望を聞き入れて、脇浜海岸通のなぎさ公園までハイヤーを飛ばした。約十分後に到着すると、彼は「潮風の匂いがするよな」

と、有栖の方を向き、大きく伸びをした。

 そして、公園の石畳の上を行ったり来たりした後で、ズボンやシャツを脱ぎ捨て、海に向かって走り出し、そのまま勢いよくダイブした。

 ゴールデンウィークのこの辺りの海では、昼間であっても水温は十五度前後のはずだ。時刻は午後七時を過ぎていた。それを怖れ知らずに、飛び込んで見せる翔太の心境はさすがに計りかねた。

 翔太は、有栖に向かって手招きすると「俺は海の中でおしっこするタイプじゃないから…大丈夫だよ」と楽しそうに笑った。

 彼は驚くほどの超能力をいとも簡単に「俺たちは、ただ単に特異体質なのだよ」と言ってのける。

 イタリアのリモネ村には、ポルタトーリと呼ばれる長寿遺伝子を持つ人たちが存在する。いわゆる突然変異によるものだ。

 有栖は、超能力研究所のメンバーたちが、ポルタトーリと比較しても、想像を絶する能力者であることに首を傾げざるを得なかった。

  ※

 あくる日、有栖は大阪にあるUSJ(ユニバーサルスタジオジャパン)まで足を延ばした。場内にある「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター」がお目当てだ。

 USJに着いて、入場ゲートから中に入り、しばらく一人で歩いていると、またしても突然、翔太が目の前に現れた。今回も長距離を瞬間移動したのだという。

 場内は、家族連れなどの大勢の客でにぎわいを見せていた。愛嬌を振りまく、ウッドペッカーや、スヌーピー、エルモなどのキャラクターたちが、楽しい雰囲気を盛り上げ、あちらこちらから歓声が聞こえてきた。

 翔太はホグワーツ城の前に来ると、はしゃぎだし「この俺様こそが、世界最強の魔法使いなのさ」と言って楽しそうに笑った。そして、有栖が目を離した瞬間、彼はふわりと浮かび上がり、ホグワーツ城の屋根の上に立っていた。

 それから、面白いように軽やかなダンスのステップを披露して見せた。だが、それも長くは続かず、バランスを崩したと思うと真っ逆さまに地面に墜落した。

「キャー」と有栖は、ありったけの声で叫んでいた。翔太の墜落時の姿勢や高さから考えて即死は免れないと思ったからだ。

 辛うじて気絶しなかったのは、彼を本当に死なせてはいけないという必死の思いによるものだった。

 有栖の大きな声を聞いて、周囲の視線は彼女に注がれていた。が、首を傾げる者やキョロキョロし始める者ばかりで、誰も彼女を助けようとしなかった。

 墜落したはずの翔太の姿が見当たらないのだ。その時のことだ。有栖の肩を指先でトントンと叩くものがいた。彼女が振り返ると、そこに翔太の姿があった。

「二度とあんな真似はしないでね。あなたは、どうかしているわ」

 強い口調で咎める有栖を横目に見ながら、翔太は楽しそうに笑った。「俺は不死身なのだよ」と言うと、ドンと自分の胸を叩いて見せた。

「俺だったら、ヴォルデモート卿にだって勝てるよ。ハリーにも負けない気がする」と言っておどけて見せた。

 有栖は、開いた口が塞がらなかった。

  ※

 連休の最終日に、社外取締役の毛利進に会った。正確に言うと、彼の方から訪ねてきたのだ。

 待ち合わせ場所は、目黒区にあるフレンチレストランだ。小松奈緒美も一緒に来ていた。

 奈緒美は営業部の社員だった。が、今まで社員名簿でも座席表でも、彼女を見たことがなかった。だが、有栖が自分の身分を隠してアルバイトをしていたころに、親切に指導してくれた女子社員がいたことを思い出した。

 それが、他ならぬ奈緒美だったことも…。研究所で会ったのが初対面ではなく、長曾我部商事の社員だったのに何故隠していたのだろう?

 有栖の考えは、喉から先に出そうになりながらも、はっきりとした声にはならなかった。

「人間とはまったく、どうしようもなく自分勝手な生き物ですよ」毛利が口を開くと、奈緒美も無言で頷いた。

 毛利は風変りな男だ。会議の席にも、控室にも足音を立てずに、いつのまにか現れている。周囲からはそんな印象で見られていた。

 彼は、痩せた老紳士という風情で、上等のウールのスーツを着こなし、鼈甲ぶちの丸眼鏡をかけ、パイプタバコを愛用していた。

 料理は前菜からデザートまで充実していたため、会話を何度も中断し、その美味を堪能したくなった。

 毛利は弁護士資格を持つCLO(チーフリーガルオフィサー)で、法律事務所のオーナーでもあった。

「あなたも、ご存知のように、商社の法務実務は多岐にわたるわけです」

「ええ、それはわかるわ。法務部が経営リスクの回避に役立つ部署だと言うこともね」

「ですがね、専務…。経営者というものは、会社を危険に晒すわけにはいかないと思うあまり、社員のトラブルや素行不良などのリスクはネグレクトしようとしてしまう」

「それが、問題だということもわかる気がするわ」

「若いあなたになら理解できることも、年とった頭の固い連中には、分からないのですよ」

 確かに、法務部の実務は契約・取引関連業務、社内規定の作成、株主総会や取締役会の運営、法制度の調査などの他にも、紛争訴訟の対応まで幅広く求められる。だが、重大な案件と判断しない限り、社員をサポートする法務相談を軽視する風潮があった。

 奈緒美によると、女子社員がフラれた腹いせに、同僚の男子社員に痴漢の冤罪をでっちあげたケースがあった。

 さらに、極端な虚言癖のある派遣社員の存在や、パワハラ問題など、多くの問題があるようだ。

 一方で、法務部に敵対感情を持つ、大友紘一常務は、会長や社長の信任が厚く、彼の意見はことごとく採用されていた。

 反面、社員の評判は悪く、彼の権謀術策によって、降格や退職を余儀なくされた有能な社員は大勢いた。

 大友の報復を恐れた社員たちは、緘口令に従い口を閉ざしていた。

 毛利によると、「社内の不祥事の多くは、大友の圧力でもみ消されてきた」と言うのだ。

 営業部の課長の一人が、セクハラがらみのトラブルを起こした時、彼がK大の後輩にあたるということで、女子社員の口封じをし、被害者の彼女の方を退職させたという。

「今回、営業部の小松さんに同行してもらったのも、そういう背景があったからですよ」と言うと、毛利は奈緒美の方を見た。

 そういえば、奈緒美は天耳通や透視力で、遠くの様子がよくわかるはずだ。

「谷崎友美の件では、私が毛利取締役に報告していたの」と奈緒美が言うと、毛利は「実は、谷崎が帳簿の操作をしている。領収書を正確にチェックしてみてはどうかと、お伝えしたのは私です」と続けた。

 有栖が狐につままれたような表情をしているのを見て、「あなたは、すぐそばにいた私の存在に気が付かなかったようです」と言いながら、窓の外の景色に目をやり、すぐさま顔を正面に向けなおした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る