第2話 ある事件
長曾我部商事に出社した有栖は、すぐさま人事課のみさきの席へ行った。みさきはスマホでお気に入りの歌手の公式ウェブサイトを見ながら鼻歌を口ずさんでいるところだった。
「みさき、久しぶりだね」
親友で同社の役員でもある有栖の顔を見るなり、みさきは口をとがらせて文句を言った。
「四日間も、どこにいたのよ?」
有栖は、明るい表情で笑うと、三歳年上のみさきを気遣う様子もなく答えた。
「私はまだ大学生なので授業に出席するのと、ピアノのレッスン、それと、一日だけ主要取引先への新任の挨拶に出向いていたの」
みさきはあきれたような表情を浮かべた。
「専務に就任して、もう一か月になろうとしているのに…。数多い取引先への挨拶周りはまあ良いとしても…」
有栖は自分が通う大学のカリキュラム表をみさきに突き付けた。
「大学の授業は平日の週三日あるので、勤務は週二日。法律上は非常勤でも代表権のある取締役になれるのよ。ただ、常勤じゃないと社会保険の被保険者にはなれないけどね」
だが、みさきはあきれるような表情をしただけだ。
「社員の中には、あなたのことを何にもしない役員…、つまり『何にも専務取締役』って悪口を言う人も大勢いるのだけど」
「だけどね。あなたたちの生活や会社の未来は、私たち経営者の手腕にかかっている。特に、代表権のある私に対しては、期待してもらっても良いのよ」
有栖とみさきが話し込んでいると、人事部長の三島が近づいてきた。
「あのう、専務…。お話し中、恐縮なのですが、十時十五分から人事部の会議を始める予定です。藤堂君には資料の準備と、会議への出席のため、このあと昼休みまでの時間、お借りしたいのですが」
「分かったわ」
有栖も渋々、承諾しオフィスの奥にある自分用のデスクへと向かおうとした。その時のことだ。(経理部員の谷崎が帳簿の操作をしているぞ。領収書を正確にチェックしてみることだ)という誰のものともわからない心の声が聞こえてきた。
有栖はみさきの方に向き直し腰をかがめると、椅子に腰かけている彼女に顔を近づけた。「あなたにも、今の声は聞こえたの?」
「……」
きょとんとしているみさきに「今の声…、男の低い声で経理部の谷崎さんのことを言っていたわ」
「いいえ、何も聞こえなかったけど」
会社の実務は、始業時間から終業まで、時計で言うと歯車のように機能する。無論、オフィスに人影がない無人のときにも影響する。社外の人たちは時計の針の動きを目視で確認して、その会社が正確に時を刻んでいるかどうかを判断する。が、その内部では時折、何らかの支障が生じ改善を余儀なくされることがある。
有栖は(経理部係長の谷崎友美さんのことは、ただの空耳のような気がしない。調べてみなければ…)と思った。
有栖は謎の声に従って、過去一年間の領収書を集め、一つ一つ丁寧にチェックしてみた。
企業会計には七つの原則がある。一、真実性の原則・二、正規の簿記の原則・三、資本取引、損益取引区別の原則・四、明瞭性の原則(適切開示の原則)・五、継続性の原則・六、保守主義の原則・七、単一性の原則がその原則だ。帳簿への虚偽の記載などがあっては、企業会計は成り立たないのだ。
有栖は調べていくうちに、あることに気が付いた。つまり、約六か月前から領収書の最初の数字に1の出現頻度が激減し、4や7の頻度が増えているということだ。
オフィスでは、電子化、ペーパーレス化を進めており、どの部署でもデスクの上にはパソコンが割り当てられているため、ペンで書かれた書類は見当たらない。
だが、領収書だけは紙に書かれた文字を見て入力していた。有栖は、電子帳簿保存法の二〇一六年から二〇一八年の改正に伴って、税務署に届けることで経費精算システムを導入できることは知っていた。
これにより、スキャン機器を使用して書類の電子保存ができること。膨大な量の書類を保存せずに原本の破棄が可能なこと。さらに、領収書、契約書に記載される上限金額が改正後は撤廃されたことで、ペーパーレス化を加速できることになった。
有栖は、同業他社の大半がコスト削減などのメリットを理由として、既に領収書電子化を導入済みにも関わらず、長曾我部商事では実際の運用に足踏みを続けていることにいら立ちを感じていた。
彼女は会議の席上でも、人工知能やロボティクス技術を導入し、文書データの自動抽出や会計システムへの入力作業を自動化することを提案していた。
その矢先の出来事なのだ。領収書を調べたところ、明らかに数字が改ざんされていた。改ざんは、紙の領収書の先頭の金額1に対してペンで修正を加え、4か7にしていた。
だが、これだけで経理課の社員三十名のうちの一人の女子社員に過ぎない谷崎友美の仕業だとは断定できなかった。
有栖は社内調査を実施し証拠収集などの手順を決めた。「オン、ソロソロ、スバーハ」
彼女は精神を集中すると、真言を唱え、無用の軋轢が生じないように一心に念じた。
*
経理課長の川端の目が鋭くなり、友美を嘲るように上唇がめくれあがり、顔色は紅潮していた。
「随分、大胆かつ巧妙な手口だなあ」川端の言葉には皮肉な響きがこもっていた。
「お金はあとで、お返しするつもりでした」友美は弱弱しい声で話し終わると、決まりが悪そうに薄笑いを浮かべた。そして、川端の顔を盗み見た。
「ねえ、谷崎さん、あなたが会社から奪ったお金は勿論、返してもらうわ。でもね、嘘は言わないでね」有栖が言い終わると、川端は「どんな理由で、会社の金を着服したのか、正直に答えてもらおう」と、さっきよりドスの利いた声で話しかけた。
友美は床をじっと凝視して、口元を閉じたまま何も言おうとしなかった。
川端は椅子から立ち上がると、ほんの少し窓の外を眺めたあと、視線を友美に戻した。「社内調査を実施した結果、君が着服した金額は六十二万円内外であることがわかった。たかが、六十万円といっても会社にとっては大切なお金なのだよ。処分が決まるまで、しばらく謹慎してもらう」
川端は言い終わると、さも不愉快そうなしかめっ面をした。
経理課の三十名の社員のうち、課長一名、課長代理一名、係長三名、主任四名、その他の社員二十一名で構成されていた。係長三名のうちの一人が、谷崎友美だ。
「この年になっても、いまだに人間心理を極めているわけではないが、谷崎がまさかこんなことをしでかすとは思わなかったよ」
川端は課員の前でそう言うと、デスクを拳で軽く叩いて見せた。「今回の件は頭だけで考えるようなことではない。我々には良心がある。彼女の置かれた立場を考えた上で処遇を決めたい」
*
数時間後、有栖はみさきを案内し都内にあるタワーマンションの最上階の自宅にたどりつくと、ドアを開け中に入った。「何か食べないとね」有栖はつぶやいた。
そして、マンションの三十六階のイタリアンレストランに電話で注文して、グレンリベットのフルーティーな風味に合うパスタを届けてもらった。
有栖はウイスキーをぐいっと飲み干すと、もう一度グラスの中に注ぎ込んだ。お酒は飲みなれていなかったが、友美の悄然とした様子を思い出すと、飲まずにはいられなかった。
「まじめで優秀な彼女がまさかあんなことをしているなんて、夢にも思わなかったわ」
「まあまあ、そんなにまであなたが気に病むことはないわ。あなたが気付くまで誰もわかりゃしなかったのだから」
有栖はグラスの中の琥珀色の液体を見つめながらため息をついた。「みさきは、今回の件は何が原因だと思う? システム上の問題は別として…」
そして答えも待たず、「社内調査では谷崎さんが一人でしたことみたいだけど、原因は何か別のことにありそうな気がするの。それと謎の声のことも調べないとね」
「そうね」
「私がもう少し注意していたら、今回の事件そのものはなく、彼女を追い詰めずに済んだのに…」
「まあまあ、そんなに気にしないで…」みさきにはそれ以外の慰めの言葉が見つからなかった。まるでそうすることが、人を救うことができない自分へのお仕置きのように、二人はグラスを重ねていた。
何かのせいで人間に変化が生じ、呪いがかけられたかのように、自分を見失ってしまう。それは、目に見えないが肉体を蝕むウイルスさながらに、いつのまにか疲労と倦怠感と耐え難い苦痛をもたらす。友美に生じた変化は現実世界の美しさではなく、醜いありさまをあぶり出し、人の心中を変化させる病魔の仕業だ。
横領罪は刑法二百五十二条一項に規定される犯罪である。が、金額が些少のものであったこと、友美には、他に素行不良が見られなかったことから、懲戒解雇ではなく諭旨解雇が適用されることになった。
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