恋花~夢幻の砂時計~

美池蘭十郎

第1話 不思議な力

プロローグ

 彼らが日常、感じているのはたとえようもない不安感だった。総勢七千人を擁する大企業の要職にアルバイト中の二十歳になったばかりの少女が就任したからである。ワンマンで知られる創業者の一声で、人事が実現してしまったのだ。取締役会のメンバーは創業者の会長をはじめ、総勢十四人、執行役員三十人で構成されている。創業者の一族は、会長本人以外は彼の子息にあたる社長、孫娘の…つまり今回、専務に就任した長曾我部有栖の三人だ。その他の役員は全員が小心者だが野心家ぞろい。出世のためなら従業員に責任を押し付け解雇することも厭わない悪賢い男たちだ。

 どんな理想を胸に抱き、何のために仕事をしているのか、彼らに尋ねても誰一人として明確には答えられない。彼らが自覚しているのは、国内有数の大企業で、あるときは家族の生活を守るため、あるときは望まぬ実務を命令に従って渋々ながらも、こなしていただけだった。

 ある人は、彼らのことを社畜とののしる。リストラと称して、彼らを凌駕する実力者に対して降格、減給、解雇などの酷薄な処遇を実行してきた連中だからだ。つまり、その時その時の企業が持つ問題や、社会貢献のためのビジョンも自分たちが生き残ることに比較してみれば、なんら緊急性のある命題とは言えなかった。

 新宿にある自社ビルのオフィスには、どの階にもデスクが整然と並べられ、事務員が使用するパソコンが設置されていた。正社員、契約社員、派遣社員、準社員を含む従業員たちの大半は、自己判断が許されず、ただ上司の指示を待ち、言われた通りの作業をすることを求められていた。福利厚生の一環として、社員食堂が三十四階のビルの中間にあたる十七階に配置されていたが、客観的に見てメニューは乏しく、お世辞にも美味しいとは言い難く、ビルの地下一階や駅前のチェーン店で定食やハンバーガーを食する方が余程ましだと考える者が多かった。売上高純利益率を基準に見ると、同業他社と比べて収益性が高い長曾我部商事株式会社でも、近年は社員の定着率が良好とは言えなかった。

       不思議な力

 長曾我部有栖は、いわゆるお祖父ちゃんっこだ。いや、正確に言うとお祖母ちゃんっこだ。彼女の祖母は学業成績優秀で見目麗しい孫娘に大きな期待をかけ、お祖父ちゃんにあたる会長に働きかけて今回の人事を実現したのだ。長曾我部博会長は取締役会の席上で「先行きの読みにくいこの時代を乗り切るため、わが社では、柔軟な発想で臨める新たなリーダーを必要としている。長曾我部有栖は…」と熱弁をふるい彼女のことを持ち上げた。有栖はアルバイトの準社員だったが、既に株主総会で取締役に選任されており、今回の取締役会では代表取締役専務に就任が決定した。

 長くてイライラする会社での勤務を終えた有栖は、見違えるように息を吹き返し、親友の藤堂みさきとともに東京都心の地下街を歩いていた。

「夢を現実化する方法については、古くから研究されているし、物理学の量子論では波動と粒子の二重性の証明によって、この世界が、私たちが思うような物質で基礎から組み立てられているものではないことが分かっているのよ」

 地下街を歩き始めてから、有栖のテンションは徐々に高くなり、会社の将来のビジョンを独自の視点で語り始めた。だが、みさきはそれに対して批判的な意見を述べた。

「分かったわ。でも、あなたが専務に選任されたのは、大学で学んでいる経営学の理論や公認会計士の資格を活かせるからなのじゃないかなあ…。それ以外の魔法のような力の存在をどうやって証明できるの」

 有栖は、みさきの疑念を打ち消すように自信満々な様子で笑うと、彼女と並んで階段を上り地上へと姿を現した。

「大学の専門課程は経営学だけど、一年生のときに受けた一般教養科目の物理学と、宗教学、哲学の授業で、量子力学、唯識論、唯心論を学習した影響で、現実は人の心の中のビジョンで望ましいものに改良できることを確信したの」

「でも、ハリー・ポッターみたいに魔法が使えるようにはならないと思うのだけど」

「私ならハリー・ポッターにはなれないけど、ハーマイオニーにならなれそう」

 言葉に熱気を帯び、ファンタジーの中の魔法使いの真似をして魔法の杖を振りかざすポーズをとると、有栖は本物の魔術師になれるような気がしてきた。

「神話やヒーローものの物語では、主人公に大きな使命が課せられる。その試練を乗り越えることで人々に幸福がもたらされるということ」

「寝とぼけた話のように聞こえるのだけど」

 二人は繁華街へと流されるように歩いて行った。

 しばらくして二人は、カラオケ店に入り、アルコールの入った体でほろ酔い加減になり談笑していた。スピーカーから流れ出る大音響の音楽に合わせて交代でポップスを歌い、歌い終わるとリキュール酒に口をつけ、クラッカーを頬張った。

「少し見て欲しいのだけど…」

 有栖は言うと、手帳の白紙のページを破り、ペンで絵を描いた。

「大抵の人は自分の能力に限界を感じ、ままならない現実に向き合うと、自分をまるで現実世界の被害者のように思ってしまう」

「それは、分かるような気がするのだけど」

「つまり、物質のすべては粒子と波動の二重性で成り立っている。しかも、物理学の実験では波動が物質化するときに観察者の影響を受けるということが分かっているの。この絵で示した通り、観察者の視線が影響してしまうのよ」

 有栖は得意げに話したが、みさきは冴えない表情を見せると懐疑的な様子で首を横に振った。

「だからといって、あなたが言うように心の力だけで会社の業績や社員の定着率の改善はできないと思うの」

「理論と現実が違う時は、その空隙をいかにして埋めるかというのが、私たち会社役員に課せられた命題なのよ」

 給料の大半を本代につぎこんでいる有栖だが、みさきに対しては自分の能力を使って会社の業績アップや、諸問題の解決をやってのけるしか証明のしようがないような気がしていた。

 女子大付属の中高一貫校を卒業後、そのまま同大学に進学した彼女は、子どものころからボーイフレンドと交際することなく、二十歳になっていた。現実の世界では両親が敷いたレールの上を歩むしかなかった彼女は、二十歳になっても物語の空想の世界で生きていた。

 二人がカラオケ店の外に出た時、時刻は既に午後十一時を回っていた。外では大勢の通行人が行き交う中に、たちの悪そうな酔っぱらいの男がいた。男は立ち話をしているOLたちの間に割り込むと「よおっ、ネエちゃんたち俺と、そこまで付き合ってくれないか?」というと、卑猥な視線を向け、さらに体中をじろじろと眺めまわした。

 男は有栖のスラリと長い脚に目をやると、ファッションモデルのような顔を見た。男は何やら言いたげな表情を浮かべていた。有栖は慌てて目をそらすと、隣にいるみさきに耳打ちした。「私があの酔っぱらいを追い払うわ」というと、目を閉じ何やらぶつぶつと言い始めた。「ノウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラタ、カンマン」彼女が唱えた呪文は密教で用いられる不動明王の真言だ。

 すると、間もなく素面に戻ったかのように我に返り、酔っぱらいは、すぐさまその場を立ち去ってしまった。

 有栖のとった手立てに驚いたみさきは、不思議な出来事を理解できない人間が示すもっともありがちな態度で臨んだ。

「早く帰らなくちゃ、明日は彼氏とデートなの」 

「じゃあ、休み明けの月曜日に、私の心の力について証明して見せる…」

 みさきが黙り込んだまま考えている様子を見ながら、有栖は微笑んで見せた。

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