第32話 サンルームにて

戦略家 ジークベルト・フォン・アインホルンの物語


「姉様、お願いです。僕の話を聞いてください」

 ジークベルトは、姉メーアの居室の扉を叩きながら、幾たびも部屋の中に向かって嘆願の声を送った。

 しかしながら、メーアからは何のいらえも返ってはこなかった。

「姉さま、お願いです…」

 扉を叩く手を止めて、ジークベルトは大きくため息を吐いた。

あの夜、ゼークト家を出奔したエドラー・ヴォルフが、深更、アインホルン侯爵家本邸を襲撃した。

 エドラー・ヴォルフは、まず、姉メーアの寝室に侵入し、メーアを凌辱しようと図ったのだった。

 しかし、無体な行為に及ぶなら自ら命を絶つと宣言したメーアを言いなりにさせるために、エドラー・ヴォルフは次にジークベルトの居室に入り込んだ。

 ジークベルトを人質にとって、「言う事を聞かないと、弟を殺す」と脅して、メーアを無理やり、我が意思に従わせようとしたのだった。

 メーアの機転で、 ヴァルデス公国の貴婦人たちが密かに隠し持つ暗器、ツァイガーで刺され、エドラー・ヴォルフは、激痛にのた打ち回りながら逃走しようとし、邸内に忍び込んでいた別の人物によって毒を打ち込まれたのだった。

 暗殺者アサシンか、斥候スカウトか、盗賊シーフか、いずれにしても、公国の宰相兼財務卿の地位にあるアインホルン侯爵家の敷地の裡に入り込んで。隠密行動がとれるのであるから、その実力は瞠目すべきものであった。

 エドラー・ヴォルフは左胸の上部に刺さった毒矢を受けて、絶命した。

死の間際、エドラー・ヴォルフは獰猛に笑って「地獄で会おうぜ、兄弟」と吐き捨てたのだった。

 まさに驚くべき男であった。

エドラー・ヴォルフに死の矢を送った暗殺者は、そのまま夜の闇に溶けて消えた。

 ツァイガーによって強烈な出血性の蛇毒を送り込まれ、全身を焼く激痛に耐えながら、エドラー・ヴォルフがジークベルトの寝室の窓を破って庭園に飛び降りた時、メーアはジークベルトに駆け寄って彼の身体を抱擁した。

 まるで、姉が小さい弟を守ろうとするかのように。

姉メーアが危険を顧みず、自分を助けてくれたこと、メーアが一瞬の機転でツァイガーを用いて、形勢を逆転させたこと、何よりも、大切な姉がエドラー・ヴォルフのような凶漢の餌食とならずに済んだこと、安堵の共に様々な感情が一気に込み上げてきて、ジークベルトは、メーアを力強く抱き締めて、メーアの唇に接吻した。

 それは肉親の情としてのキスではなく、明らかに異性を対象としたそれであった。

メーアも当然、それに気が付いて、ジークベルトの抱擁と接吻から、身を捩って逃れようとした。

「やめて、ジーク」

「刺すわよ」

 そう叫んだメーアに、ジークベルトは、「姉さまがお嫌なら、どうぞ、刺して下さい」と答えた。

 メーアは抗いながらも、最後はジークベルトのキスを受け入れていた。

幼い頃から、何度となく交わしてきた、血が繋がっていないとはいえ、姉と弟、お互いに愛し合い、信頼し合う肉親としてのキス。

 ジークベルトの口づけは、明らかに弟のそれではなく、ジークベルトの熱情の込められた口づけを受け入れたメーアのそれもまた、姉のものではなかった。

 あの恐怖の夜、ジークベルト・フォン・アインホルンとメーア・フォン・アインホルンが極限の状況下で交わしたキスは、明らかに男と女のそれであった。

「姉様…」

 ジークベルトは、部屋の扉を叩くことをやめ、扉に額を押し当てた。

「あ、あの、ジークベルト様…」

 おずおずとした声がジークベルトの背中へ届いた。

振り返ると、ジークベルトとさほど年齢の変わらないメイドが、恐々とジークベルトを見詰めていた。

「メーア様でしたら、今朝はとても早く起床されて… 私どもの手を借りずに身支度を終えられてから、ダイニングへ行かれましたが…」

「そ、そうか… ありがとう」

 若いメイドは恐縮して、一礼した。

彼女に醜態を目撃されたかもしれないという恐れなど、今のジークベルトには、どうでもいいここだった。

 霏々ひひとして、雪が降りしきる中、ジークベルトは、公都ヴァイスベルゲンのスラムの路上で、母のエーデルガルトとともに凍死しかけていたのを、今は亡き、ブリュンヒルト・フォン・アインホルン侯爵夫人に拾われたのだった。

 ヴァルデス公国の大貴族中の大貴族、名家中の名家であるアインホルン侯爵家に、突然、拾い上げられた娼婦の息子に、侯爵家では親族ばかりでなく、メイドや召使まで困惑し、ジークベルトの存在を完全に侯爵家の異物として扱った。

 ブリュンヒルト伯爵夫人や、その良人おっとであるユルゲン・フォン・アインホルン侯爵は、事あるごとにジークベルト庇ってくれたが、侯爵家に夫妻が不在であるとき、彼らはジークベルトに対して、侮蔑と偏見の視線を隠そうともしなかった。

 身を守るすべを持たない、幼いジークベルトを守ってくれたのが、二歳年上の血のつながらない姉、メーアだった。

「ジークに対する侮辱は、このメーアに対する侮辱と同じ。いいえ、ユルゲン・フォン・アインホルン侯爵とその令夫人、ブリュンヒルトに対する侮辱と同じであると心得なさい」

 メーアはそう言っていとけないジークベルトを守り、同時にジークベルトに貴族としての礼儀作法、マナーやエチケット、そして何よりも、「気高いとはどういいう事か」という貴族であることの意味を身をもって教授し続けてくれたのだった。

 いかなる形であれ、この世で一番、大事な姉と仲違いすることなどあってはならないことだった。

 ジークベルトは、メイドに礼を言って、ダイニングに向かった。

 

 アインホルン侯爵家のダイニングルームは、邸内の東の翼屋ウイングにある。

早朝、曙光が東の空を赤く染める頃、半透明の雪花石膏アラバスターを曇りガラスのように使ったバラ窓から、朝日が差し込んで、室内を明るく照らす。

 選び抜かれたチーク材で製作されたテーブル類は、メイドたちの手によって磨き上げられ、ダークブラウンの深みのある輝きを放っている。

 血相を変えて、ダイニングルームに駆け込んできたジークベルトの姿を認めて、まだ幼さの残るメイドが慌てて頭を垂れた。

「お、おはようございます、ジークベルト様」

「姉さまは… メーア姉さまは、おられないのか」

 メイドの視線が宙に泳いだ。

「あ、あの… メーアお嬢様は先程、朝食を召し上がって… アカデミーへ登校されるため、正面玄関脇の馬車寄せへ行かれましたが…」

「こんなに早い時間にか」

「わ、私どもも本日に限って、特別にお早いと訝しく思いましたが…」

 

 姉様は、僕を避けている…


ジークベルトは唇を噛み締めた。

 身をひるがえしてダイニングを飛び出していくジークベルトの背中に、若いメイドは大慌てで一礼した。


 アインホルン侯爵家の馬車寄せには、六頭立てに仕立てられた豪奢な馬車がゲストを待っている。

 敢えて光沢を無くしたピッチブラックに塗装された車体には、侯爵家の旌旗である「勇み立つ一角獣」の紋章が描き込まれている。

 この紋章は、アインホルン家が本来、エフゲニア帝国の貴族であった証であり、このデザインは、アインホルン家の先祖が凍土を駆け回る古い部族クランであった頃から用いられてきた旌旗の意匠に依っている。

 「勇み立つ一角獣」は、漆黒の背景に浮かび上がり、葉状、または幾何学状の文様に彩られ、今にも踊り出さんばかりであった。

 その馬車に、今しも、メーア・フォン・アインホルンが乗り込もうとしている。

そよそよと流れる微風が、メーアのホワイトブロンドの髪を優しくなぶった。

 その様は、名匠の手になる一幅の絵画のようであった。

「メーア姉様」

 ジークベルトが少女の背中に声をかけた。

メーアがその声に振り返る。

 ジークベルトは血のつながらない姉の表情に息を飲んだ。

その出自を北方エフゲニアに持つことを意味するペールブルーの双眸に浮かぶのは、

大きな衝撃によって打ちのめされた人間の動揺であった。

 少女の中で、何かが壊れてしまったようだった。

「姉様」

 ジークベルトは、再度、メーアに呼び掛けた。

メーアは項垂れ、そのまま無言で馬車に乗り込んだ。

 御者がキャビンの扉を閉め、ジークベルトに軽い会釈をして、そのまま御者台へ乗り込んだ。

 御者が馬たちに鞭をくれた。

風を切り裂く鋭い音がして、六頭の馬たちが足並みを揃えて歩み始める。

 大貴族が騎乗するにふさわしい、全く見事な駿馬たちであり、馬車であった。

ジークベルトは、姉が乗った馬車を無言で見送った。

 あの日、ジークベルトが激情に駆られ、メーアを力いっぱいに抱擁し、その唇に自らのそれを押し当てたこと、あの行為がメーアに大きな衝撃を与えたのだ。

 しかし、とジークベルトは考えた。

あの時、激情に任せたジークベルトの口付けに対するメーアの応答もまた、ジークベルトと同じく、炎のような熱い情熱のこもったものであった。

 ジークベルトと同じく、メーアもまた、帰らざる河を渡ってしまったことは、間違いのないことだった。

 もう、仲の良い姉と弟ではいられないのかもしれない…

しかし、この事でメーアに忌避され、メーアとの関係が疎遠になってしまう事、それだけは、ジークベルトにとって耐えられないことであった。


 それから、三日間、ジークベルトはメーアと面会することがかなわなかった。

アカデミーから戻ったメーアは、自室に閉じこもり、食事はメイドに運ばせて室内で済ませているようだった。

 今朝、そうであったように、メーアは早々に朝食を済ませ、ジークベルトと顔を合わせることなく、そそくさと馬車に乗り込んで屋敷を後にする。

 取り付く島もないとは、この事だった。

「姉様…」

 激しい後悔が,十五歳の少年の胸を焼いた。

その夜、メーアの居室の扉を何度目かのノックをしようとして、逡巡するジークベルトの背中に、メイドの少女が声をかけてきた。

「ジークベルト様…」

 振り返ると、雨に濡れた子犬のように心細い目をした少女が、ジークベルトを見詰めていた。

「ご主人様が、ジークベルト様をお呼びです。直ぐに執務室まで来るようにと」

「閣下が…? 分かった、ありがとう」

 年若いメイドは、手をエプロンの前に充てて一礼した。


「ジークベルト、お呼びにより参上しました」

 ノックの後、そう告げて、ジークベルトはユルゲン・フォン・アインホルンの返事を待たず、彼の執務室に入室した。

 ヴァルデス公国の宰相と財務卿を兼任する大貴族中の大貴族、ユルゲン・フォン・アインホルン侯爵は、デスクに目を落としたまま、書類を読んでいた。

「ジーク、くだんのエドラー・ヴォルフの事だが…」

 ジークベルトは、姉メーアとの事をユルゲンに叱責されるのではと、身を強張らせたが、ユルゲンの言葉は、ジークベルトの想像を超えたものだった。

「エドラー・ヴォルフを埋葬した墓が暴かれ、あの少年の遺体が消え失せたという報告が内務省から上がってきた」

 ジークベルトは、絶句した。

「何ですって」

「あの少年を葬った墓には大きな穴が開いていて、棺は無理やり、こじ開けられていたと報告にある」

「そんな」

「驚くべきは、その棺は内側から凄まじい力で破壊されたらしい痕跡が残されていたそうだ」

「内側からっ⁉ それではまるで、エドラー・ヴォルフが復活して、自ら棺を破壊して、墓から抜け出したみたいではありませんかっ⁉」

 ユルゲンは、無表情にうなずいた。

デスクの上に置かれた魔導ランプが、鑿で削り出したようなユルゲンの彫りの深い顔に深い陰影を与えている。

 ジークベルトは、感情の高ぶりのために上ずった声で叫んだ。

「あり得ませんっ。僕はラスカリス・アリアトラシュ殿下とご一緒して、エドラー・ヴォルフの検死に立ち会いました。彼の心臓は完全に停止していたし、その身体からはわずかに腐臭が立ち上っていました。あれは死臭です。あれは、かつてエドラー・ヴォルフと呼ばれた人間の残骸であり、あの男の邪悪な魂はとっくにあの身体から離脱していたのです。あの腐りかけた肉体が復活することなど、ありえません」

 ジークベルトは、あの場で検視官がエドラー・ヴォルフの左胸に、短剣を突き刺して,その死を改めて確認する工程まで、目撃していた。

 ユルゲンは、表情を変えずに淡々とことばを紡ぎ出した。

「お前の言うとおりだ。エフゲニア帝国には、その長い暗黒の歴史の中で生みだされた様々な邪悪な薬物が存在するという。しかし、死者を復活させる薬など、聞いたことがない。また、冥府に旅立った人間の魂を呼び戻し、死したる者の肉体に再び、封入するなど、そのような魔法も存在するとは思えない。しかしながら…」

 エドラー・ヴォルフであったものが、まるで魔法のように闇の中に掻き消えたのは、全く疑いのない事実であった。

「内務省からの報告書には、ほかには何か、記されていないのですか」

「墓地を管理している墓守の老人が、獣のような叫び声を聞いたとのことだが… その声は全く人間とは思えないほど、恐ろしいものだったそうだが…」

「……」

 ユルゲンは、ジークベルトの顔を見上げながら尋ねた。

「ジーク、お前はあのエドラー・ヴォルフが、お前に接近してきた謎の勢力と関係があると思うか」

 ユルゲンが言っているのは、ジークベルトを静電界で満たされた部屋に連れ込んで、あれこれと問答を仕掛けて来た奴らの事だ。

 ジークベルトは、自分がアインホルン侯爵家をわが物として、ヴェルデス公国に並びのない権力者として君臨したい野心を伝え、ジークベルトがこの国を転覆させたい勢力に参加したい意思を持っていることをアピールした。

 それは、大事な姉メーアと、アインホルン侯爵家を守るための方便であったが、彼らは、ジークベルトが自分たちの同志であると認識させることに成功していた。

 ジークベルトは、小さく頷いて答えた。

「はい、僕の部屋でエドラー・ヴォルフが誇らしげに豪語していた話の内容を鑑みれば、あいつが公国を破滅に追い込みたい奴らの一味であることは、間違いないと思われます」

「うむ…」

 ユルゲンは俯いて考え込んだ。

「私としては、ヴァルデス公国の存亡にかかわるような事件に、まだ子供のお前たちを巻き込みたくはないのだが…」

「閣下、若輩ながら、このジークベルト、ヴァルデス公国とアインホルン侯爵家、そして何よりも大切なメーア姉さまを守るためなら、いかなる苦難にも耐える覚悟は、出来ております。あの雪の降る夜、スラムの吹き溜まりでブリュンヒルト様に拾っていただいた時から、このジークベルトは、アインホルン侯爵家のためなら、命を投げ出す気構えは出来ているつもりです」

「ジーク、メーアと同じく、お前もまた、私にとって大事な子供であることは違いはないのだぞ。それを決して忘れないでくれ」

「閣下」

 何よりも有難い言葉であった。

ジークベルトは、ユルゲンに一礼しながら、涙がこぼれ落ちそうになるのを懸命に堪えた。


 アインホルン侯爵家には、全体がガラス張りで構成されたサンルームがある。

ここは、かつて侯爵家の令夫人であったブリュンヒルト・フォン・アインホルンが多様な観葉植物を育てていた場所であって、その趣味は、ブリュンヒルトの死後、愛娘のメーアに引き継がれた。

 メーアは幼い頃から、ずっと言い続けてきた。

「お母さまが大切に育てていらした植物たちを枯らしてしまいたくはないから」

 メーアは、ブリュンヒルトを失ってから、母に代わってサンルームの様々な花や木々を育て続けてきたのだった。

 アレカヤシ、フェニックス、オーガスタ、パキラ、エヴァ―フレッシュ、ベンジャミン、ウンベラータ、シェフレラ、ポリシャス…

 十分な温度と湿度、そして定期的な水やりが必要な植物たちである。

ジークベルトは、ある植物には毎日、同じ時間、定期的に潅水しなければならないことを知っていた。 

 すなわち、この時間、メーアはその植物の前に立って、水を与えていることが姉の生活習慣であることを確認していた。

「メーア姉様」

 メーアは霧吹きを使って、自分の背丈ほどもある蘭の花に霧状の水分を与えていた。

「……」

 ジークベルトの言葉を聞いても、メーアは黙したまま、作業を続けている。

「姉様、お願いです。僕の話を聞いてください」

 メーアは霧吹きのレバーを握る手を止めて、ジークベルトに背を向けた。

「あなたと話すことは何もないわ、ジーク」

 ジークベルトはメーアに近付いて、その手首を捉えた。

「聞いていただきます。いいえ、聞いていただかないといけないことです」

「離しなさい、ジーク」

「エドラー・ヴォルフの事です。お聞かせしなければならないことがあるのです」

 メーアの身体が緊張するのが分かった。

あの凶漢によって凌辱されかけた夜、勇気を振り絞って、隠し持ったツァイガーでエドラー・ヴォルフを刺したこと、そしてその後、ジークベルトの唇が…

「あの夜のことは、思い出したくありません。手を離さないと、人を呼びますよ」

「…エドラー・ヴォルフは生きています」

 メーアのペールブルーの双眸が、大きく見開かれた。

「えっ、そんなこと…」

「内務省から閣下の元へ報告が届いています。エドラー・ヴォルフが埋葬された墓穴から、あの男の遺体が消滅したのです。しかも、残された痕跡からは、あの男が墓の中で復活して、内側から棺を破って地上へ逃れ出た… そう判断するほかない状況証拠が残されていたのです」

「そんな…」

「メーア姉様、姉様にとっても、このジークにとっても、エドラー・ヴォルフの脅威は未だ、消え去ってはいません。お願いです、姉様。このジークベルトに姉様を守らせてください。姉様に避けられては、あなたをお守りすることが出来ません」

「ジーク…」

「あの夜、この僕がしたことが許せないとおっしゃるなら、あの場で申し上げたように、どうぞ、姉様のツァイガーでこの僕を刺し貫いてください。どんな苦痛であっても、甘んじてお受けします。ですが、エドラー・ヴォルフの脅威がなくなるまで、どうか、このジークベルトから離れるようなことはなさらないでください」

 メーアは俯いた。

サンルームのガラス越しに施設内に差し込む太陽の光が、メーアのホワイトブロンドの髪を朝日を浴びた処女雪のように明るく輝かせた。

 メーアは、このまま意地を張り続けることは、自分ばかりではなく、彼女を守ろうとしてくれているジークベルトや父親ユルゲンにも要らぬ負担をかけることになることを納得したようだった。

「分かりました…」

 メーアは大きなため息をついて、ジークベルトの顔を見上げた。

「ごめんなさい、ここ何日か、あなたを無視してしまって…」

 いつの間に、この子はこんなに背が高くなったのだろう。

メーアはそう思った。

 あの夜、メーアを抱き締めたジークベルトの腕の力強さ、自分の身体を包み込んだジークベルトの上半身の筋肉は、鋼鉄の鞭を撚り合わせたかのようだった。

 そして自分の唇に押し付けらたジークベルトの唇の熱さ…

あの時、メーアはジークベルトの熱い抱擁と接吻。

 それに対して、ほとんど女の本能の様に反応してしまった自分…

メーアは自分がこの数日、ジークベルトを避けていたのは、彼の抱擁と口づけに対して、自分が一人の女性として応えたことだと知った。

 そのことが本当に大きな衝撃となって、メーアの心を麻痺させたのだった。

「あいつは、何なの、ジーク? エドラー・ヴォルフの行動は、ただ私を一人の女性として望んでいるだけとは思えないのだけど」

「エドラー・ヴォルフは、このヴァルデス公国の転覆を目論む闇の勢力の一員であると考えられます」

「えっ、それはどういう事かしら」

 ジークベルトは、準男爵家の娘、ポーレット・リコリスが、偶々たまたま、メーアに不埒な行為を働くという計画を耳にして、その事を彼に伝えてくれたことから、長い説明を始めた。

 サンルームの中は当然のように温度が高く、ガラス壁には水滴が滴るほど施設内の湿度も高かった。

 その中で、ジークベルトは血が繋がっていない、しかし、この世で一番大切な姉にこれまでの経緯を語って聞かせた。

アカデミー高等部における、エドラー・ヴォルフとの会見の後、工作員らしい男たちに密室に詰め込まれ、謎めいた男たちと対面したこと。

 その場で、ジークベルトがアインホルン侯爵家の権勢をわが物として、その権力をもって闇の勢力に協力する旨を伝えたこと。

「もちろん、それは敵を欺くための方便で、完全な嘘なのですが…」

 ジークベルトが長い語り口の中で、そう説明した。

ラスカリス・アリアトラシュが、アイヴォリーキャッスルの居室で毒殺されそうになったこと、暗殺者である沙馮シャフーの少女の死の間際の懇願を受けて、エドラー・ヴォルフの生家、フォン・ゼークト伯爵家へ乗り込み、暗殺者の妹を確保して、現在、某所で匿っていること、これらはすべて同じ陰謀の流れの中にあって、その背後に大いなる黒幕が潜んでいるであろうこと。

 そして、ジークベルトは彼らの味方のふりをしながら、その黒幕の正体を探るため、ユルゲンらの依頼を受けて活動していることなど。

 メーアは大きく目を見開いた。

「あなた、そんな危ないことをしていたの、ジーク」

「メーア姉様を守るためならば、何でもないことです」

 ジークベルトは、唇を歪めて笑った。

その太陽のような笑顔は、メーアの心を暖かくした。

「分かったわ、ジーク。あなたは私の知らないところで、私をずっと守っていてくれたのね、その命を懸けて…」

「メーア姉様を守るためなら、ジークは命も惜しくは…」

 そう言いかけたジークベルトの唇が、メーアの唇で塞がれた。

「姉様…?」

「約束して、ジーク。私を守るためであっても、必要以上に自分の身を危険に晒さないと…」

「姉様」

「その約束が守れるなら、あなたのしたことを許します」

 メーアの暖かな笑顔に、ジークベルトは救われた思いだった。

「はい、お約束します。姉様や閣下を心配させるようなことは、けっして致しません」

「それでいいわ。もう、行きなさい。私はこのサンルームでもう少し、作業を続けるから」

「はい、姉様」

 ジークベルトは、姉の言葉に素直に従った。

メーアは背を向けて去っていくジークベルトの背中を優しく見つめた。

 ほっそりとした、白い指が朱色の唇に触れた。

今度は自分の方から、ジークベルトに口付けをした。

 それは、これまでの幼い日々と同じく、軽いキスだった。

しかし、あの夜、ジークベルトの唇の熱さを知って以来、メーアの心の中では、ジークとのキスは明らかに違う意味を持つようになっていた。


  

 


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