第27話 ツァイガー ~毒針~

戦略家 ジークベルト・フォン・アインホルンの物語


  中天に月の女神ディアナが、その青白い裸身を晒している。

カルスダーゲン亜大陸にあっては、月神ディアナを取り巻く星たちは、彼女のなまめかしい裸身を覗き見る好色な神々のまなこだと言われている。

 マホガニーのデスクで、羊皮紙に羽ペンを走らせる手を止めて、ジークベルト・フォン・アインホルンは、テラスの窓から庭園を照らす月の光に目をやった。

 ヴァルデス公国にあって、宰相兼財務卿の要職に任じられているアインホルン侯爵家の邸宅である。

 月神ディアナが地上に放つ青い光を浴びて、アインホルン家の庭園は、しっとりと

夜の帳の中に濡れそぼっているかのようだった。

 ここ一週間ほどは、激動の毎日であった。

あろうことか、ヴァルデス公国にあって、第三位の大公位継承権を持つラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデス公子が、アイヴォリーキャッスルの自室で、刺客に襲われるという前代未聞の事件が発生した。

 偶々、同室していたジークベルトの存在がなかったなら、暗殺は成功していたかもしれなかった。

 その後、ラスカリス・アリアトラシュ専属のメイド、サラの記憶をたどることにより、陰謀の出所がフォン-ゼークト伯爵家であることを確認した。

 そして、ジークベルトはラスカリス・アリアトラシュ、ゴーレムマスターであるグアルネッリ伯爵家の兄弟、ギデオンとザザを伴って、フォン・ゼークト伯爵家を直撃したのだった。

 ジークベルトとラスカリス・アリアトラシュ、そしてギデオン・グアルネッリが時間を稼ぐ間。女装してメイドに扮したザザ・グアルネッリは、見事、フォン・ゼークト家のワイン蔵から人質にされていた沙馮シャフーの少女、リィーン・アフメドを救出することに成功した。

 暗殺者であるガザーラ・アフメドは、実の妹を人質に取られ、ラスカリス・アリアトラシュ暗殺の実行犯となることを強いられたのだった。

 そして、ほかならぬサラをフォン・ゼークト家における監禁状態から解放し、妹を助けてくれるよう、要請したのもガザーラであった。

 ジークベルトらは、ガザーラの望み通り、彼女の妹リィーンをフォン・ゼークト家から救出し、その後、リィーンの身柄はバウムガルトナー騎士爵家で保護されることとなった。

 アスベル、マリベルの姉妹が、事件の顛末を知って、リィーンの保護を自ら願い出てくれたのだった。

 バウムガルトナー家は、ガザーラ、リィーンの姉妹の父親が命を落とすこととなった「シャンプールの惨劇」の主役であったから、双子たちにとって、リィーンの境遇は他人ごとではなかったのだろう。

 その存在を秘匿しながら、リィーンを匿うのに、バウムガルトナー家ほどうってつけの家はあるまい。

 現在は爵位を失い、騎士爵の地位に甘んじているとはいえ、元々、バウムガルトナー家は、ヴァルデス公国の外務卿という顕職を任されてきた大貴族である。

 バウムガルトナー家には、軍務卿であるレオンハルト家に負けないほどの強力な魔導戦士たちが存在している。

 気がかりなのが、事件の後、フォン・ゼークト家の次男、エドラー・ヴォルフが行方不明となっていることだ。

 エドラー・ヴォルフが、ラスカリス・アリアトラシュ殿下の暗殺未遂事件にかかわっていることは明白だ。

 エドラー・ヴォルフは、公立魔導アカデミー高等部の六回生で、ジークベルトの二年先輩にあたる。

 エドラー・ヴォルフは、同級生であるジークベルトの姉、メーア・フォン・アインホルンに一方的に懸想して、自分の女になれと迫っていた。

 メーアがそれを拒絶すると、エドラー・ヴォルフは手下の連中とともにメーアを無理やりに手籠めにしようとする計画を立てた。

 ジークベルトが、ラスカリス・アリアトラシュやグアルネッリ家の兄弟とともに暗殺未遂にまつわる陰謀を暴いて見せたことで、メーアに乱暴するというお粗末なはかりごともまた、水泡に帰したのだった。


 それでも、エドラー・ヴォルフを出奔を許したのは、過ちであったかもしれない。


ジークベルトは、唇を噛み締めた。

 フォン・ゼークト家を逐電した以上、エドラー・ヴォルフが生家である伯爵家の支援を得ることは出来まい。

 行方知れずとなっているのだから、エドラー・ヴォルフが公立魔導アカデミーに登校して、姉のメーアやジークベルト自身に絡んでくることもあるまい。

 後ろ盾を失った以上、エドラー・ヴォルフ個人にどれほどの事が実行可能なのかは未知数である。

 それでも、ヴァルデス大公家と姉メーアに関する限り、エドラー・ヴォルフとその背後にいる者たちからの脅威が、当面の間、薄らいだことは間違いはなかろう。


 取り合えず、姉様の身を守ることは出来た…


今はそれで良しという事にすべきであろう。

 

 それにしても…


「エドラー・ヴォルフはどこにいるのだろう」


 そのひとりごとに答えるかのように、テラスに立った影が答えた。

「俺はここにいるぞ、アインホルンの儒子こぞう

 はっとして、ジークベルトが月光の差し込むテラスを見やった時、テラスの窓が開いて、闇色のマントを纏った男が、部屋の中に舞い降りてきた。

 巨躯ながら、その動きは若い肉食獣のようにしなやかで、完全にコントロールされており、床に着地した時には、全く音を立てることもなかった。

 この男がこの世で最も危険な存在であることは、疑いもなかった。

ジークベルトは、叫び声をあげることなく、テーブルの下に設置されている非常ベルのスイッチを押そうとした。

 その背中に、影のごとき侵入者が殺到する。

まるで、獲物に襲い掛かる猛獣のごとき動きであった。

 夜の闇を写し取ったかのような漆黒のマントが翻る。

男は、ジークベルトの首筋に手刀を見舞った。

 正確に頚部の急所を捉えた一撃に、ジークベルトの視界が暗転した。

ジークベルトがはそのまま昏倒し、力なく床に転がった。


「ジーク! ジーク!」

 何者かが、ジークベルトの名前を呼んでいる。

若い女の声だ。

 その声に促されてるかのように、ジークベルトは自分の意識が少しずつ、回復していくのを感じた。

「気が付いたか、アインホルンの儒子こぞう

 聞き覚えのある声であった。

そして、もっとも耳にしたくない人物の声であった。

「エ、エドガー・ヴォルフ… どうして…?」

 ジークベルトは、椅子に腰かけた大柄の青年が憎々し気に自分を見詰めていることに気が付いた。

 エドガー・ヴォルフ・フォンゼークトであった。

「ジーク、気が付いたのね!」

 ジークベルトは驚愕に目を見開いて、声のする方向へ視線を転じた。

ジークベルトが誰よりも愛する、血のつながらない姉、メーア・フォン・アインホルンがロープで後ろ手に縛り上げられ、床に転がされている。

「ね、姉様っ」

 自分自身が姉と同じく、後ろ手に緊縛され、うつ伏せの状態にされていることに、ジークベルトは気が付いた。

「エドラー・ヴォルフ、姉様に何をしたっ⁉」

 ジークベルトは、精一杯の憎悪を込めて、エドラー・ヴォルフを睨み付けた。

エドラー・ヴォルフは、フンと鼻を鳴らした。

「これからするところさ… 貴様の目の前でな…」

 エドラー・ヴォルフは、すっと立ち上がった。

全く体重を感じさせない滑るような動きである。

 エドラー・ヴォルフがその畏怖を感じさせる肉体にどれほどの筋力を秘めているのか、空恐ろしいほどだ。

「な、なぜ、姉様が僕の部屋に…」

 エドラー・ヴォルフは、また鼻を鳴らした。

「態々、俺が運んでやったのよ。この女をお前の部屋までな」

「な、なぜだ」

「言っただろう? これから貴様に面白いものを見せてやる… 貴様の大事な姉様が、無理やり、男に凌辱され、よがり泣きしながら腰を振る姿をな…」

「な、なんだと…」

「今宵、俺は、先にメーアの部屋に侵入した。貴様にも、貴様の姉にも、色々と報復したいことがあったのでな… ところが、この女は自分に不埒な行為に及ぶようなら、舌を噛み切ると言いやがった… 死体とやっても仕方ないからな、そこで俺は一計を案じた訳だ… 貴様を人質にとって、いう事を聞かないと、お前の目の前で大切な弟を少しずつ、切り刻んでやるぞとな…」

「なっ…!!」

「心配するな、まだ何もしてねェよ。やるのはこれからだと言ったろう。本当は、貴様の姉を凌辱して、ついでに意趣返しに貴様の命を奪ってから逃走するつもりだった。だが、気が変わったよ。ジークベルト・フォン・アインホルン、貴様の眼前で大事な姉様を嬲り尽し、貴様にたっぷりと地獄を見せてから殺してやるよ。直ぐにメーアもお前の後を追わせてやるから、冥府に送られても寂しい思いをすることはあるまい」

「貴様」

 エドラー・ヴォルフは、闇色のマントを広げた。

「これは、フォン・ゼークト家に伝わる《星闇のマント》だ。こいつには、認識阻害の特殊効果が付与されている。グアルネッリ家のゴーレムマスターたちほど、完璧な隠形は不可能だが、警備が万全の大貴族のお屋敷に侵入するには十分という事だ。顔の産毛がぴりぴりと総毛だっているのが分かるだろう? こいつはおなじみの…」

「静電界か…」

「ご名答。貴様らがどれほど泣き叫ぼうと、その声は部屋の外に漏れることはない。という訳で、遠慮なくはしたない声を上げても構わないんだぞ、メーア・フォン・アイホルン」

 ジークベルトは、吠えた。

「姉様に乱暴したら、この世の果てまで貴様を追いかけて、地獄の伝説になるほどの苦しみを与えてやるぞ、エドラー・ヴォルフ」

「おお、怖いねェ… しかしだ…」

 エドラー・ヴォルフは、ジークベルトの胃の腑へ正確に爪先を使った蹴りを叩き込んだ。

 ジークベルトは無言で苦痛に耐えたが、悲鳴を上げたのはメーアの方だった。

「状況ってものを考えろ。儒子こぞう。俺を脅迫できる立場かよ。無様に床に転がったまま、これからお前の大切な姉様がされる事を眺めてろ」

「よ、よせ、姉様にさわ…」

 エドラー・ヴォルフがまた、ジークベルトの脇腹のあたりに爪先を蹴り込んだ。

「お、お願い、エドラー。もうやめて」

 メーアが泣きそうな表情で懇願した。

「お前のそんな顔はそそるぜ。最初からそうしていればよかったんだよ」

「エドラー、あなたが望むことは何でもしてあげます。だから、ジークを… 弟を痛めつけるのはやめて」

 ジークベルトは叫んだ。

「だめだ、姉様。そんな奴の言いなりになっちゃ…!!」

 エドラー・ヴォルフは獰猛に笑った。

「お前をさらって、弟の部屋まで連れてきたのは大正解だったな。辱めを受けるくらいなら、舌を嚙むと言っていたお前が、一転、しおらしいことだ」

 メーアが顔を伏せた。

その表情には、諦観が、これから自分がされることを受け入れるか覚悟と絶望が見て取れた。

「ようやく、俺を受け入れる気になったようだな。お前が素直に俺の女になっていれば、何の問題もなかったんだよ。この国は、もう終わりだ。ヴァルデス公国を覆い尽くす闇は、お前らが想像しているより遥かに深く、静かにこの地に根を下している。これからすべてがひっくり返るだろう。もう、大公家も大貴族も騎士も平民も関係ない。この国の人間は、ことごとく地獄に落ちる羽目になるだろうよ。お前らはみんな、負け犬だ。メーア、お前が素直に俺の意思に従っていれば、アインホルン家は勝ち組の一員になれたはずなのだ。今となっては万事、手遅れだがな」

 ジークベルトは、沙馮シャフーの暗殺者、ガザーラ・アフメドが自分とラスカリス・アリアトラシュの前で死ぬ前に吐き出した言葉を思いだした。


「今、ヴァルデス公国に差し掛かっている巨大な影は… あなた方が想像しているより、ずっと深く、ずっと静かに、この国に浸透している… 公国はもう、終わりよ… あなた方では、どうする事も出来やしない… さっさと逃げ出す算段でもする事ね…」


「貴様も、このヴァルデス公国の公民だろう?」

 ジークベルトが吐き出すように言った。

「ふん。だとしても、もうすぐ滅びる国に忠誠を尽くして何になる?」

 エドラー・ヴォルフは血走った目でメーアを凝視した。

それは女性を性欲の対象としてしか見ない獣の目であった。

「さて、静電界でこの部屋の音は一切、外へ漏れないとはいえ、いつまでもここにとどまることもできまい。さっさとやることをやるとするか」

 メーアがまなじりを決して、エドラー・ヴォルフを見詰めた。

「取り引きしましょう、エドラー・ヴォルフ。私には何をしてもいいけど、ジークには決して手を出さないと約束なさい。さもないと…」

「さもないと、何だ」

「あなたの大事な逸物を食いちぎるわよ」

 エドラー・ヴォルフは呵々大笑した。

「いいね、つんとお高くお澄ましした侯爵家のご令嬢から、スラム街の娼婦のごときセリフが聞けるとは。下町の売女どもは飽きるほど抱いたが、これほど興奮させられたのは、筆おろしの時以来だぜ」

「約束しなさい、エドラー・ヴォルフ」

「分かったよ。お前がおとなしく俺に抱かれるというなら、大切な弟の命は助けてやることにしよう」

 ジークベルトが叫んだ。

「だめだ、姉様。そんなの、嘘っぱちです。姉様に乱暴した後、この男が僕をそのままにしておくはずがない」

「良いのよ、ジーク… でも、お願いだから、しばらく、眼を閉じておいてくれるかしら」

「姉様」

 エドラー・ヴォルフは、メーアに近寄り、乱暴にその衣服を引きちぎった。

メーアの白い胸乳むなぢが露になった。

「姉様!!」

「お願い、ジーク。見ないで頂戴」

 エドラー・ヴォルフが洋袴のベルトを緩め始めた。

「一つだけ聞いてもいいかしら、エドラー・ヴォルフ」

「おしゃべりはもうやめだ、メーア。言葉ではない肉体的コミュニケーションの時間だからな」

 だが、メーアは構わず続けた。

「あなたは自棄になっているの? 自暴自棄になって、こんな暴挙を実行しようとしたの?」

「自暴自棄だと?」

 エドラーヴォルフは、嘲笑した。

「この国はもうすぐ、全てがひっくり返ると言っただろう? 大公家を含め、今は偉そうにしているこの国の貴族や騎士たちはこぞって、奴隷と同じ身分に落とされるんだよ。お前らは負け組だ。そして、俺たちこそが新しいこの国の支配者になる。その俺が自棄など起こすはずがあるまい。今まで、俺はヴァルデス公国の公民だった。そして、フォン・ゼークト伯爵家の一員だった。公立魔導アカデミーの生徒だった。今の俺は、その全てをきっぱりと捨て去り、自由の身になった。俺はな、メーア。俺を縛っていた鎖から完全に解き放たれたのだ。エドラー・ヴォルフとは、偉大なる狼とという意味だ。俺を縛り付ける頸木は消滅し、俺は真の意味で荒野の一匹狼となったのさ。これから俺たちの栄光の時代が始まるというのに、自暴自棄になどなるはずがなかろう。さあ、引き延ばそうとしてももう無駄だ。お前にその用意が出来てなくても、俺は無理やりにでも、お前の中に押し入る」

 エドラー・ヴォルフの双眸に獣欲の炎が燃え盛っていた。

「最後に一つだけお願い…」

「聞けないね」

「縛られたままじゃ、何もできないわ。片手だけでもいいから解放してちょうだい。そうしたら、それだけ、あなたの要求にこたえることが出来るようになるでしょう」

 エドラー・ヴォルフは少しだけ考え込んだ。

しかし、偉大な体躯を誇るエドラー・ヴォルフの下で組み敷かれているのが、彼の体重の半分しかない小柄な少女であることが、エドラー・ヴォルフの油断を生んだ。

「ふん、そっちもそういう気分になってきたという訳か。よかろう、お前が俺を満足させるなら、弟の命を助けてやる。そういう事でいいか」

「…いいわ」

「契約成立だな。焦らしまくってくれた分、お前の女として自尊心が粉々になるまで、嬲り尽くしてやるぜ。大事な大事な弟が見ている、その前でな」

 エドラー・ヴォルフは、メーアの縛めを解いた。

ただし、右手だけだ。

 彼女の左手は、そのほっそりとした上半身に縛り付けられたままだ。

「さて、自由になった右手で俺に何をしてくれる? 俺の大切な息子をのその白い手で愛撫してくれるのか」

「…ジーク、もう目を開けていいわよ」

 エドラー・ヴォルフがメーアの言葉の意味を図りかねて、眉根を顰めた。

ジークベルトは、姉の言葉を聞いて恐る恐る目を開けた。

 メーアの手がその豊かなホワイトブロンドの髪に伸びる。

その白い指が、髪飾りから何かを抜き取った。

「私の愛がほしいのね、エドラー・ヴォルフ。ならば、お望みの様に」

 月神ディアナの青い光を浴びて、何かがきらりと光った。

その小さな光は、エドラー・ヴォルフの首筋に吸い込まれた。

「ぐわっ」

 エドラー・ヴォルフが首筋を抑えて吠えた。

「き、貴様、何を…」

 次の瞬間、獣の咆哮がエドラー・ヴォルフの喉から放たれた。

エドラー・ヴォルフは、床を転げまわり、絶叫しながらのたうち回った。

 メーアの手に銀色の暗器が握られている。

「気に入ったかしら、私の愛は…?」

 全身を貫く激痛に身を捩らせながら、エドラー・ヴォルフは、自分に激烈な苦痛を与えた物の正体を確認した。

「ツ、ツアィガーか…」

 それは、今から三百年前、独立戦争に勝利したヴァルデス公国(当時は選帝侯国)の祝祭に出現した謎の道化師、ケイパーリットがこの国の女性に与えた護身のための秘密武器であるツアィガー、毒針であった。

 ケイパーリットは、公国の男性に円と球と螺旋の動きを基本とする近接戦闘の体術、ケイパーリット式旋舞拳闘を伝授し、同じく女性に身を守るための暗器、ツアィガーを与えたのだった。

 ツアィガーは、主に髪飾りやブレスレットなどに仕込まれた武器であり、出血性の蛇毒が塗られている。

 体内に取り込まれると、蛇毒は一気に毛細血管を破裂させ、大の男であっても転げまわって悲鳴を上げるような、強烈な苦痛を与えるのだった。

 メーアは機敏に立ち上がり、うつ伏せに緊縛されたジークベルトの縛めを解こうとした。

 ジークベルトはメーアによって拘束から解放され、まず、床に置かれた静電界の発生装置を踏み潰した。

 そして、デスクの下に配置された非常ベルのスイッチを押した。

耳をつんざくような異音が鳴り響く。

 エドラー・ヴォルフの顔面が雪のように白くなった。

「くっ、こ、儒子こぞう…」

「形勢逆転… というやつだな、エドラー・ヴォルフ」

 だが、エドラー・ヴォルフの双眸はなおも限りない憎悪に燃えていた。

「なめるなよ、儒子こぞう…」

 普通の男ならば、地面を転げまわり、この世のものとは思えぬ絶叫を挙げながら悶絶するほどの苦痛を無理やり、抑え込んで、エドラー・ヴォルフは立ち上がった。

 ジークベルトメーアがその姿に息を飲む。

「こんなところで終わってたまるか… 俺は、この国の主の一人になるんだよ…」

 エドラー・ヴォルフはふらつく足取りでテラスへ向かい、テラスの窓からその巨躯を外へ躍らせた。

 ガラスが砕け散る派手な音が響いた。

メーアが腰から床に砕け落ちた。

 ジークベルトが慌てて、その華奢な身体を抱き留める。

「姉様」

「ジ、ジーク…」

 血のつながらない姉と弟は、そのまま抱き合った。

悪夢のような出来事から解放されたのだという事実が、ジークベルトとメーアを力なく崩れ落ちさせた。

 メーアが震える腕で、ジークベルトを抱きしめていた。

ジークベルトもまた、同じようにメーアの上半身を抱擁していた。

 ジークベルトは、自分の頬を熱い涙が流れ落ちるのを感じた。

最初はそれがメーアがこぼした涙だと思った。

 しかし、ジークベルトは、すぐにそれが自分が流した涙であることを知った。

そして、その涙は自分の命が助かった事よりも、メーアが無事であったことへの安どの涙であることに、ジークベルトは気が付いた。

 ジークベルトは、思わず両手でメーアの顔を包み込んで、その朱色の唇に自分の唇を押し当てた。

「ジ、ジーク、何を…」

「姉様…」

「ジーク、やめて…」

「……」

「ジーク、お願い…」

「姉様、僕は… 僕は…」

 メーアは片手に持った毒針、ツアィガーを振りかざした。

「刺すわよ、ジーク」

「刺してください、姉様… 姉様が本気でお嫌なら、ツアィガーではなく、短剣でこのジークベルトの心臓を刺し貫いて下さい…」

 メーアは、自分の頬を血のつながらない弟の熱い涙が伝い落ちるのを感じた。

その涙には、メーアに対するジークベルトの深い愛情がこもっていた。

 そして、その愛情は必ずしも、肉親に対するそれではなく、明らかに好ましく思っている異性に対するそれであることをメーアは察知していた。

 ツアィガーを保持したメーアの手が力なく下に垂れた。

「ジーク…」

「姉様…」

 ジークベルトのメーアを抱擁する腕に力がこもった。

そして、 メーアもまた、異性としてのジークベルトの接吻を受け入れていた。

「何事ですかっ⁉」

 部屋の外で侍従やメイドたちの上ずった声が聞こえた。

ジークベルトは反射的にメーアの身体を解放した。

 そして、ジークベルトは自分が部屋の扉に鍵をかけていたことに気が付いた。

ジークベルトは立ち上がって、部屋の扉のドアノブを回した。

 血相を変えた侍従が彼の部屋に踏み込んできた。

そして、部屋の中央にうずくまるメーアの姿を認めて、驚愕した。

「メーア様っ!! いったい、何があったのですかっ⁉」

「侵入者だ‼ テラスの窓から逃走した。絶対に逃すなっ!!」

 侍従が打ち破られたテラスの窓枠と、カーペットに広がるガラス片を認め、非常事態であると認識したようだった。

「承知いたしました」


「いたぞっ」

「逃がすなっ」

 松明を持った男たちに追い立てられ、エドラー・ヴォルフは歯噛みした。

「糞ったれが…」

 メーアのツアィガーに仕込まれた毒は、かなり強力なものであるらしかった。

また、毒針を突き立てられた場所が悪かった。

 首筋に突き立ったツアィガーは、彼の急所に毒を流し込み、激烈な苦痛とともに下半身に対する麻痺効果をもたらしていた。

 顔から流れ出る脂汗は、まるで滝のようだった。

身体の奥底で火が燃えているかのようだ。

 視界はぐらぐらと揺れ、薄い紗のベールがかかっているかのようだった。

足元はふらついて、まるで自分の足ではないようだった。

 若い女性に散々、不埒な行為に及んできたエドラー・ヴォルフであったが、さすがにツアィガーで刺されるのは初めての経験であった。

 それでも、ツアィガーの毒を受け、それでもここまで動けるのは、野獣のごとき体力を誇るエドラー・ヴォルフならではだっただろう。

 それでも、限界はやってきた。

足がもつれ、とうとう、エドラー・ヴォルフは派手にすっ転んだ。

 その背中に遠慮なく、何者かの体重が伸し掛かってきた。

「おとなしくしろ」

 続いて、利き腕を後ろにねじ上げられた。

エドラー・ヴォルフの両脚が膝裏とかかとの二か所で押さえられた。

 いずれも近接で戦闘することに慣れ切った者たちの手際だった。

それでも、毒さえ受けていなければ、エドラー・ヴォルフの膂力で制圧から脱することが出来たかもしれなかった。 

「は、離しやがれ…」

 舌が痺れ、きちんと言葉を発することが出来なかった。

これでは魔法を唱えることもできない。

「ここまでだ、エドラー・ヴォルフ…」

 頭の上から、限りない憎悪と瞋恚がこもった声が降ってきた。

儒子こぞう…」

 エドラー・ヴォルフは後ろ手にされた手首に手錠が掛けられたことを感じた。

ほぼ同時に、彼の足首にも足錠が嵌められていた。

 万事休すであった。

「仰向けにしろ」

 ジークベルトがそう言った。

その命令を受けて、アインホルン侯爵家の家中の男たちが、エドラー・ヴォルフの巨躯を裏返す。

 エドラー・ヴォルフはジークベルトの双眸が自分を凝視ているのを見た。

その瞳に宿るのは、氷のような冷たさであった。

「…先程、お前に言ったはずだな。姉様に乱暴したら、地獄の伝説となるほどの苦しみを貴様に与えてやるぞ、と」

 エドラー・ヴォルフは唇を歪めた。

「…慈悲など請わんぞ、儒子こぞう

「そんなもの、与えるつもりもない… そもそも、貴様が心配しなければならないのは、僕ではなく、わが父、ユルゲン・フォン・アインホルン侯爵の怒りだ…」

「な、何…?」

「姉メーアは、ユルゲン閣下の亡き妻、ブリュンヒルデ様がこの世に残した一粒種の愛娘だ。それをお前は凌辱しようとした… ユルゲン閣下のお怒りはいかばかりであろうか、このジークベルトでさえ、想像するのも恐ろしいほどだ…」

 エドラー・ヴォルフの顔から血の気が引いた。

いかに猛獣のような男とはいえ、大公家を除けば、ヴァルデス公国において最高権力者である人物の本物の怒りを考えたら、背筋が凍り付くのは当然の事だった。

「エドラー・ヴォルフ、貴様が言ったヴァルデス公国を覆い尽くす闇とやらの事だが、貴様がその闇の一端を担っていることに違いはあるまい。これから、たっぷりとそれを吐いてもらうことになるだろうよ、貴様の意思に関係なく、な…」

 エドラー・ヴォルフの口元に獰猛な微笑が浮かんだ。

「ふっ、お前らごときの思惑通りにはならねェよ… 俺がそんなやわな人間だと思ったのか、儒子こぞう…」

「何」

 エドラー・ヴォルフは、首を傾げて闇の中に向かって叫んだ。

「そこにいるだろう!! 俺を殺せっ!!」

 暗闇の中から何かが飛来した。

それは、エドラー・ヴォルフの左胸に突き刺さった。

「!!」

 ジークベルトが息を飲む。

エドラー・ヴォルフの心臓の上に闇色の矢が生えていた。

 エドラー・ヴォルフが唇の端から血を吐きながら、嘲笑した。

「毒矢だ… 残念だったな、儒子こぞう…」 

 アインホルン家の家中の男たちが、射手を探し出して確保するべく、飛び跳ねるように矢が飛来した方角へ向けて走り出した。

「エドラー・ヴォルフ、貴様…」

 だが、エドラー・ヴォルフの顔にはすでに死相が現れていた。

「地獄で会おうぜ、兄弟…」

 エドラー・ヴォルフは、絶命した。

 


 


 


 

 



 

 

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