第25話 スライマーンの娘

ゴーレムマスター ザザ・グアルネッリの物語


 ザザ・グアルネッリは、冷静な目で少女を見詰めた。

窓辺から吹き込む涼風が、少女のアッシュブラウンの髪の毛を優しくなぶっている。

 彼女の肌の色は、雑味のない純白の色味をしている。

瞳の色はサファイアブルーで、明らかに亜大陸の南北の民族の血が混じっている。

 その雪白の肌は、少女が北方エフゲニアの血を受けていることを意味しているし、また、彼女の髪の毛の色は、明らかに南方の沙馮シャフーのものだ。

 ヴァルデス公国の第三公子、ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスのように、彼女もまた、エフゲニアと沙馮シャフーという、二つの異なる民族の血が混じり合い、絶妙のバランスで美の均衡を保っているかのようだった。

 その幼さを残す美貌は、わずかでも均整が失われれば、その美しさのすべてが損なわれるかのような危うさをはらんでいる。

 少女は、モスリンの男とヴァヌヌ、そしてザザ・グアルネッリに向かって、両手を体の前にあてて、静かに一礼した。

 この違法な奴隷商の館にあっても、この「ラーダ」と名乗った少女こそが、最上級の商品であることは容易に判断できることだった。

「この娘の名前はラーダ。ラーダ・スラ… い、いや、奴隷落ちした今の身分では、旧姓は関係ありませんな。今はただのラーダ。ご予算の許す限り、彼女こそが最上の選択であるかと存じます」

 ザザは、かたわらのヴァヌヌに小声で言った。

「どうだ? 彼女は、君のご主人、チェーザレ・ヴァンゼッティのお眼鏡にかなっているかな?」

「はい、チェーザレ様のお好みに合って… いいえ、彼女はそれ以上の素材だと思います」

 ザザは、ヴァヌヌが奴隷の少女ラーダの美貌に圧倒されているのを見て取った。

アスベル、マリベルのバウムガルトナー家の双子、アデリッサ・フォン・レオンハルト、そして、ジークベルトの姉、メーア・フォン・アインホルンなど、二人の周りには、美しい少女たちが多い。

 ラーダの美貌は、彼女たちとは性質が異なっている。

それはここが奴隷商の館であり、彼女が金銭で売買される奴隷の身分である事と関係していることは間違いなかった。

 ラーダは、生来の美貌の他に「背徳感」という、少年たちにとっては特別に魅惑的な雰囲気をまとっていた。

「では、彼女を買わせていただくことにしましょう」

「商談成立ですな。では、契約書を作成することといたしましょう。お二人とも、応接室までご足労願いますか」

 ザザは、鷹揚にうなずいた。

ヴァヌヌもそれに倣う。

 ヴァヌヌの眼に浮かんでいるのは、困惑を通り過ぎて、ほとんど恐怖に近い感情だった。

 平民であるヴァヌヌにとって、目を疑うような大金。

また、人間が売買されていく現場などは、ヴァヌヌは、それまで想像さえしたことがなかったであろう。

 ラーダは、重ねた手を前に置いたまま、深々と一礼した。

その花のようなかんばせには、何の感情も浮かんでおらず、自分が金銭で売り買いされる商品である運命を黙って受け入れているかのようだった。


「購入資金は30万ギルダーであるとおっしゃっていましたが…」

 豪奢を極めたレセプションルームで、テーブルをはさんでザザとヴァヌヌと向き合いながら、モスリンの男は、探る様に言った。

 メイドの扮装をしたザザ・グアルネッリがその問いに答える。

「ご主人様からお預かりしているお金は、ちょうど30万ギルダーです。私どもでは、その金額に上乗せする権限はございませんので、ご承知おき下さい」

 銀の鈴を転がすような、十代の少女の声である。

改めて、ヴァヌヌはゴーレムマスターであるグアルネッリ伯爵家の家伝の絶技に息を飲む思いであった。

 モスリンの男は、にやりと笑った。

「これは、誤解をさせてしまいましたようで… 私が申し上げたかったのは、むしろ、あの娘の売値として30万は高すぎるという事でして… 掛け値なし、あの少女、ラーダを20万ギルダーでそちら様へお譲りいたしましょう」

「20万?」

ザザは小首を傾げた。


なぜ、大幅な値引きをするのか?


大金を得らえる機会を態々、見逃すのは何か、理由があるのか?


何か、裏があるのではないか?


 しかし、この場では何も思いつかなかった。

「他意はございません。元々、あの娘の売値は20万ギルダー。私どもといたしましては、うちの商品を正当な対価でお譲りする… ただ、それだけのことです」

「…分かりました。こちらとしても、否やはございません。諸々、手続きに入っていただけますか」

 モスリンの男は、扉の前に立っていた黒服に視線をやった。

男は無言でうなずいて、キャビネットから書類を取り出す。

「何ヵ所か、サインを頂くことになりますが…」

「申し訳ありませんが、こちらとしても主家の名前を明かすわけにはまいりません。

それで、構いませんでしょうか」

「それで結構ですとも」

 モスリンの男は、書面にさらさらと羽ペンを走らせながら、答えた。

「商品の性質を考えましたら、当然のことでしょうから」


「なぜ、男装を?」

 モスリンの男が、首を傾げた。

奴隷の少女ラーダは、ザザとヴァヌヌが持参した少年の服に着替えさせられていた。

 シルクのレースアップシャツの上にチュニックを重ね、腹部にはロインクロス、下半身はシックな焦げ茶色のブリーチズを穿いている。

 貴族か、裕福な騎士階級の子弟であると言われたら、誰もそれを疑う者はいないだろう。

 わずかにウェーブのかかったアッシュブラウンのロングヘアが、ラーダの細い腰のあたりまでかかっている。

 そんな不自然な姿であっても、ラーダの容姿は名工の手になる、一服の絵画の様に美しかった。

「こちらにも、諸々、事情がございまして…」

 ザザが完璧な少女の声でそう答えた。

「…まあ、そうかもしれませんね。失礼ながら、あなたを見れば、あなた方のご主人が、色々と… その多様なご趣味をしておられることは察しがつきます」

 ザザが、妖艶に笑った。

「…僕が本当は男である事、いつから分かっておられましたか?」

「あなた方を奴隷たちの居室エリアまでご案内したあたりからでしょうか… これでも女を見る目にかけては、プロでございますのでね」

「驚きました… 女装を見破られたのは、これが初めてです…」

 これは、ザザ・グアルネッリの正直な感想だった。

「女装させた美少年に、今度は男装させた美少女ですか… あなた方のご主人様は、実に典雅な趣向を楽しんておられるようだ。それを実現できる資力をお持ちだというのは、実にうらやましい限りですな… ところで…」

 モスリンの男は、真顔になった。

「所詮は女衒の身、売買する女どもに特別な思い入れなどを抱いたりはいたしません。それでも、あえて申し上げますが、ラーダの事、あまりひどい扱いはなさらないよう、伏してお願い申し上げます。あの娘は、本当にいい子なのでね」

 ザザが返事をしようとした時、ヴァヌヌが先に言葉を発した。

「お、お約束します… ぼ、僕が彼女を… ラーダを守ります」

 ヴァヌヌのことばに、モスリンの男は真摯さを感じ取ったらしかった。

「…その言葉、信じましょう」

 戸口に立っていた男が静かに告げた。

「馬車が来たようです」

 モスリンの男は、うなずいて、ラーダに視線をやった。

「これでお別れだな、ラーダ。辛くても、頑張るんだぞ」

 ラーダは、小さく頭を垂れた。

「はい」

 モスリンの男は、ザザとヴァヌヌに退去を促した。

「さあ、もうお行きなさい。ここは、まともな貴族様のご家中のいる場所ではないですから」 

 ザザは、スカートの裾を持ち上げて、優雅な「カーテシー」を疲労した。

ヴァヌヌもまた、片手を胸に宛てて一礼した。


 モスリンの男は、三人の背中を黙然と見送っていた。

「いいんですかい、あれで」

 黒服の一人が、店の扉を閉めながら言った。

「30万ギルダーで売れるところをなぜ、態々、10万もディスカウントしてやったんです? 言い値で買いたいってんだから、売ってやればいいでしょう?」

「お前は何にも分かってねェな」

 モスリンの男は、ふんと鼻を鳴らした。

「ラーダはあのスライマーンの娘なんだぞ。本当なら、こっちから20万でも30万でも払って、厄介払いしたいところだ」

「…スライマーンってお人は、そんなにヤバい人だったんですか?」

 黒服が怪訝な表情になる。

モスリンの男が答えた。

「おめェはまだ、若いから知るまいがな… 公都ヴァイスベルゲンの夜の闇に君臨した悪の帝王、それがあのラーダの父親、サージッド・スライマーンだ。公都の暗黒街の人間でスライマーンに世話にならなかった奴はいねェよ。スライマーンに痛い目に遭わされなかったやつもな。スライマーンに逆らえる奴は一人もいなかったし、やつを怒らせた奴らはあっという間に死体安置所送りにされちまってたからな」

「……」

「ひょんなことから、その遺児を、つまり、サージッド・スライマーンがこの世に残した一粒種、ラーダ・スライマーンをうちで預かることになっちまった。いろんな意味で、あの娘はヤバすぎるんだよ、その存在自体がな」

「……」

「スライマーンが潰されたのは、ちょうど十年前だ。俺は、その現場にいたんだよ。まだ、ほんのチンピラだったが、たまたま、組の用事で外出していて九死に一生を得たって訳だ。現場のありさまときたら、そりゅあ、酷かっぜ。なんもかんも、ぶっ潰されてやがった。文字通り、ぶっ潰されていたのさ、数十人の人間がな…」

 黒服は、息を飲んだ。

「潰されてたって、それじゃ…」

 モスリンの男は、ふっと皮肉な笑みを浮かべた。

「やったのは、グアルネッリ伯爵家のゴーレムマスターで間違いねェ。二か月ほど前、うちのケツ持ちをしてくれてたブルーノ組が同じやり方で、まとめてぶっ潰されただろ? ブルーノ組の破落戸ごろつきどもはな、文字通り、ぶっ潰されていたんだよ、十年前のスライマーン組壊滅の時みたいにな」

「そ、それじゃ、やったのは…」

「間違いなく、今回もグアルネッリ伯爵家のゴーレムマスターの仕業だ。あのメイドの紛争をしていた餓鬼、この店に入店するためのメンバーズ・カードを持っていただろう? あれは、ブルーノ組が発行していたものだ」

「えっ…」

「あの餓鬼どもが奉公しているのは、まず、グアルネッリ伯爵家で間違いねェ。そのグアルネッリ家の使いがうちへやってきたんだぞ? それも、愛玩用の美少女奴隷を買いたいとかいうふざけた理由でだ。そんなの、信じられるか? こいつは、ヤクザ者の本能ってやつが、こいつはヤバすぎると全力で警告しているぜ… グアルネッリ家の現当主、ギデオン・グアルネッリ伯爵は、次の公国内務省の長官だ。10万ギルダーを負けてやったのは、グアルネッリ家に対して、そして公国内務省に対して、そちら様には全然、敵意はありませんってことを意思表示するためだよ」

「……」

「これで、うちはラーダ・スライマーンの厄介払いが出来た… そして、スラムの破落戸ごろつきどもより、何百倍も恐ろしい連中に目を付けられずに済んだ… どうだ、10万のディスカウントなんか、安いものだろう?」


 奴隷商が呼んでくれた馬車は、公都でも最上級のランクの車両だった。

御者の男の身なりは、全く洗練されたものであったし、環境の悪いスラムまで召喚されたことに対しても、気にしている様子もなかった。

 メイドに扮したザザと、侍従の制服を着たヴァヌヌ、そして男装をした奴隷の少女、ラーダに対して無言でワゴンのドアを開け、三人の少年たちが乗車するのを確認してから馬に鞭をくれた。

 これから知らない場所へ連れて行かれ、決して楽しくはない仕事をさせられるであろうことが確実であるのに、ラーダはその美しい横顔に何の表情も浮かべていない。

 ザザやヴァヌヌと変わらぬ、年端も行かない少女であるのに、ラーダはとっくに人生をあきらめているかのも知れなかった。

 その事が、ヴァヌヌにラーダに対する同情と憐憫を感じさせた。

「予想に反して、大分、資金が余ったな… ヴァヌヌ、残った10万ギルダーは君がもらっておくといい」

 ザザが、今度は少年の声でそう言った。

ラーダが驚いて、ザザの顔を見やる。

 ラーダは、自分の隣に座るメイドの少女が、実は女性ではなく、男性であることを今、知ったのだった。

 ヴァヌヌは、驚いて言った。

「そんなことは出来ません。チェーザレ様からお預かりしたお金ですから、余った分は、チェーザレ様にお返ししなければなりません」

 ザザは、ふっと微笑した。

「構わないさ。ラーダがアカデミーの男子生徒の寄宿舎で、男性に扮して生活していくという事なら、これから諸々、掛かりもあるだろう。余った金はそれに充てるといい。こんな大金を手元に置くのは危ないから、クリスタロス銀行に口座を作って、金はそこへ入れておくといいよ」

「で、では、ラーダの名義で…」

 ヴァヌヌがそう言うと、ザザは言下に否定した。

「奴隷は銀行口座を持てないよ。ヴァヌヌ、君が口座を開くといい」

「ぼ、僕だって、平民で、まだ、未成年です。銀行口座なんて…」

 ヴァヌヌの言葉に、ザザは穏やかな微笑で答えた。

「心配いらない。きちんとサポートしてあげるよ」


「新規に口座を開設したいと… そのようにお申し出なのですね」

 高級な生地を惜しげもなく使い、それでいて決して嫌味にならないように、品よく仕立てられたスーツを違和感なく着こなした初老の銀行員が、ヴァヌヌとラーダを等分に見比べながら、そう言った。

 ここは、独立要塞都市クリスタロスの商業銀行が、ヴァルデス公国の公都ヴァイスベルゲンにおいている支店である。

 ヴァヌヌは、ラーダとともにこの視点に新しく口座を開設するために、窓口で

申し込みをしたのだった。

 窓口の男は背が高く、鶴のように痩せていて、度の強い老眼鏡の奥では、疲れた灰色の目が鈍い輝きを放っていた。

 謹厳さと実直さ、そして何よりも有能さが、最上級の生地と仕立ての衣服に包まれているかのようだった。

「当行は、為替と貿易業務を主に扱っている商業銀行です。お二人ともまだ未成年でいらっしゃるとお見受けしますが、当行に口座を開設するには、失礼ながら、いささか年齢が不足するかと存じますが…」

 ヴァヌヌは、返答に困った。

頼みのザザは、「後から行く」と言い置いて、ヴァヌヌとラーダに先に銀行へ行かせた。

 ヴァンゼッティ家の使用人として、様々な下働きの仕事を経験してきたヴァヌヌであったが、銀行での交渉などは当然、初めての経験であった。

「あ、あの… 思わぬことでまとまったお金を手にしたので… 手元に置いておくと、危ないですから… その… 泥棒とか…」

 しどろもどろにそう言うほかなかった。

ヴァヌヌは、10万ギルダーの金貨を入れた革袋を窓口に置いた。

「…これは、あなたのお金ですか?」

「そ、そうです…」

「失礼ですが、これほどの大金をなぜ、あなたのようなお若い方がお持ちなのでしょうか?」

「そ、それを説明しないと、口座を開けないのですか」


 当行では、犯罪者の資金は扱わない。


 初老の銀行員は、ずばりそう言いたかったのかもしれないが、相手がヴァヌヌのような若年者とはいえ、直截なものの言い方は当然、忌避した。

「あなた方のご年齢とお立場からすれば、全く不釣り合いな多額の金貨… それを考えれば、いささか不自然な資金であるかと存じますが…」

「ぬ、盗んだお金とかではありません」

 ヴァヌヌは抗弁したが、それはいかにも年齢相応の少年の言葉でしかなかった。

「そうは申しておりません。ですが…」

 その時、ヴァヌヌたちの後ろから、声がかかった。

「すまない、遅くなった」

 ヴァヌヌとラーダが振り返ると、そこには貴族の清掃に身を包んだザザ・グアルネッリが泰然と立っていた。

「ザザ様」

 ザザ・グアルネッリは、メイドの衣装を脱ぎ捨てて、ヴァルデス公国の貴族の年少者の正装に着替えていた。

 淡い緑色のシルクのロングコートに白のレースアップシャツ、ウエストコートは紫紺である。

 少年らしく、下半身は膝丈のハーフパンツである。

初老の銀行員の顔に緊張が走った。

 ザザのスタイルは、典型的なヴァルデス公国の年若き貴族の出で立ちであったからだ。

「僕の名前は、ザザ・グアルネッリ。グアルネッリ伯爵家の次子で、現当主ギデオン・グアルネッリの弟です」

 クリスタロス銀行のヴァイスベルゲン支店のフロアに小さなざわめきが走った。

ザザはなおも言葉を続けた。

「その少年は、ヴァンゼッティ男爵家の家中で、公立魔導アカデミーでは僕の同級生なのです。今回、ヴァンゼッティ男爵家で新しくメイドを雇用するという事となり、そのお金はメイドである彼女の支度金です。その資金の管理は、男爵家の従者である彼の裁量に任されています。そのために、こちらの支店で新たに口座を開設する必要があるのです」

「さ、左様でしたか… 事情も知らず、とんだご無礼を…」

 初老の銀行員は、恐懼してそう言った。


全く、僕の時とはえらい違いだ…

  

 憮然たる思いを内心で噛み締めながら、ヴァヌヌはそう考えた。

ザザは、袂から何通かの書類を取り出した。

「彼の身分は、わがグアルネッリ伯爵家、そして、レオンハルト伯爵家、バウムガルトナー騎士爵家、アインホルン侯爵家が保証します。これはその内容を記した書面です」

 ザザは、窓口に四枚の羊皮紙を差し出した。

その三枚の書類には、それぞれ、グアルネッリ家の「燃える指輪」、レオンハルト家の「獅子吼」、バウムガルトナー家の「矢を番え、背いて立つ二人の少女」、アインホルン家の「勇み立つ一角獣」の紋章が描かれていた。

 いずれも、これら公国を代表する大貴族が、まだ、エフゲニア帝国にあった頃、古い部族の象徴として用いられた来た「旌旗」に由来する紋章である。

 少なくとも、公国の中産階級以上の人間で、これらの紋章と、紋章が持つ意味を知らない者はいなかった。

「た、大変、失礼をいたしました。すぐに口座をお作り致しますので」

 初老の銀行員は、眼前に並べられた「紋章」入りの書面に視線をやることなく、

直ちに書類を取り出して、羽ペンを走らせ始めた。

「それからこれが…」

 ザザ・グアルネッリは、重々しい仕草でさらにもう一枚の書面を取り出した。

「同じく、アカデミーにおける彼の同級生であるラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデス公子殿下の紹介状です。どうぞ、確認して下さい」

 ザザは、丁寧にその書面を窓口に置いた。

書面の上部に、ヴァルデス大公家の「旌旗」である「フルール・ド・リス」、「白百合の紋章」が描かれている。

 大公家の文書を偽造することは、それだけで死罪を意味している。

「フルール・ド・リス」の紋章は、それだけの重みを持っていた。

 初老の銀行員の目が恐怖に見開かれた。

「よ、よく分かりました… ご無礼をどうか、お許し下さい」

 ザザは、ヴァヌヌにウインクした。

「ザザ様」

「ヴァヌヌから事情を聴いて、アデリッサ、アスベル・マリベル姉妹、ジークベルト、そしてラスカリス・アリアトラシュ殿下から、書状をもらっておいたんだ」

ヴァヌヌはほっと溜息をつく。

 その様子を見て、やっとラーダの顔に年相応の笑みがこぼれた。

薔薇の若い蕾が緩やかに花開いていくかのような、優しい微笑であった。


 その夜、ヴァヌヌはラーダをアカデミーの男子生徒用の寄宿舎へ連れて行った。

チェーザレは、ラーダを見て一目で気に入ったらしく、

「でかしたぞ、ヴァヌヌ」

 と大声で叫んだ。

しかし、その喜びが束の間であった。

 何しろ、グアルネッリ伯爵家、レオンハルト伯爵家、バウムガルトナー騎士爵家、アインホルン侯爵家、そして、ヴァルデス大公家がラーダがチェーザレ・ヴァンゼッティの使用人となることを追認しているのだ。

 そのラーダに対して不埒な行為に及んだら、それはヴァルデス公国を代表する大貴族、そして大公家そのものを敵に回すという事だった。

「何という事だ」

 チェーザレの歓喜はたちまち絶望へ変わり、月に向かってチェーザレは慨嘆の叫び声をあげる事となった。






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