第10話 ジークの回想 〜廃兵院の男〜

戦略家 ジークベルト・フォン・アインホルンの物語


 ジークベルト・フォン・アインホルンの衝撃的な言葉が、公立魔導アカデミーの入学式を震撼させたその夜、深更にジークの私室を訪れる者があった。小さなノックの音と共に、鈴を転がすような少女の声が扉の向こうから聞こえて来た。

「ジーク。まだ、起きてる?」

 ジークは、すでに夜間着に着替えていたが、ガウンを纏って、自室のドアの鍵を開けた。

「これは、メーア姉様。深夜に男性の部屋を人知れず、訪うとは、淑女のなされようとは思えませんな」

「あなたは私の弟よ」

「血は繋がっておりませんが」

 メーアは、ちょっと鼻白んだ表情を見せてから、ジークの部屋にその身を滑り込ませて来た。ジークの鼻腔を少女が纏う、上品な香水の匂いが刺激する。メーアは真剣な面持ちでジークに言った。

「入学式のあなたの言葉… あれはどういうこと? わざわざ、自分の出自を大勢の聴衆の前で披露してみせるなんて… あなた、露悪趣味であるの?」

 ジークは苦笑した。

「あなたの弟は、そんなおかしな性癖など持ち合わせておりませんよ」

 メーアは、大きく嘆息をついた。

「あなたは自分の置かれている立場が、分かってるの? アインホルン家は、代々、ヴァルデス公国の宰相と財務卿を兼任している家なのよ。そして、公国において貴族たちの筆頭たる侯爵家の家柄でもある。その長子たるあなたが、スラム出身の… ごめんなさい、あなたのお母様を侮辱するつもりはないのだけど…」

「そのアインホルン公爵家の長子が、スラムで拾われた娼婦の息子では、家門の面目が立ちませんか」

「ジーク。お願いだから、そんな意地悪を言わないで。私はあなたがプライドばかり肥大した門閥l貴族たちから、白眼視されるのが心配なのよ」

 ジークは、弱々しく笑った。

「申し訳ありません、メーア姉様。姉様が本気で僕の事を心配して下さっているのは、重々、承知しておりますので」

「ジーク。あなたはこれから公国の門閥貴族たちの反感や嫉妬、軽蔑や困惑などの負の感情に晒される事になるはず。でも、どんな時でも、私はあなたの味方よ。それが言いたくて、こうやってあなたの部屋を訪ねたの」

「ラスカリス・アリアトラシュ殿下からも、同じ事を言われました。殿下には、敵のいない人間には味方もいないとお答えしましたが…」

 メーアのヴァイオレットの双眸が、大きく見開かれた。

「あなた、ラスカリス殿下に知遇を得たの?」

「はい、姉様。殿下と親しい友人となって、お互いにファーストネームで呼び合う約束をいたしました。それに殿下の他にも、素晴らしい友人たちを何人か、得る事が出来ました。グアルネッリ伯爵家の次男で、ゴーレムマスターであるザザ・グアルネッリ。バウムガルトナー元伯爵家のアスベル、マリベル姉妹。レオンハルト伯爵家の次女、アデリッサ・ド・レオンハルト。それと平民ではありますが、ヴァンゼッテイ男爵家の従者、ヴァヌヌ… みんな、僕の発言を聞いて、人間の価値はその出自ではないと言って、僕の元へ参集してくれた者たちです。身分や立場を超えて、アカデミー高等部の四年間を親友として、付き合っていける同級生たちを得る事が出来ました」

 メーアは息を飲んだ。どんな表情をしていても、メーアは美の女神の寵愛を一身に受けたかのように、圧倒的な美貌に恵まれていた。

「平民の子はともかく、他の方たちは、四種類の『魔神器』を預かる高位貴族… そんな方たちと入学式初日で友情を結ぶなんて、ジークったら、凄いのね…」

「ラスカリス・アリアトラシュ殿下やメーア姉様が危惧されている通り、僕はアカデミーの生徒を半分、敵に回したかもしれません。しかし、どんな世俗の思惑をも超えて、このジークの味方をしてくれるであろう友人たちに、本日、出会う事が出来ましたよ、姉様」

「ジーク」

「姉様。アインホルン侯爵家は公国の重鎮、それだけに国内外に多数の敵を持つ家門です。そんな連中は、このジークが出自をコンプレックスにしていると思い込めば、必ず、それを突いてくるでしょう。僕がブリュンヒルト侯爵夫人、つまり、メーア姉様の実の母上にスラムで拾って頂いた娼婦の子である事をひた隠しにしようとすれば、それはかえって敵に攻撃の方途を提供することになります。毅然としているのが、最も有効で賢明な戦略であると確信します」

「分かったわ、ジーク。もう、私からいう事は何もありません。ジークったら、いつの間にか、こんなに精神的にも逞しい少年に成長していたのね… 少し、淋しい気持ちもするわ…」

 メーアは、ジークの首に腕を回して、優しく血の繋がっていない弟をハグした。

「姉様…?」

「あなたには平和で穏やかな人生を送って欲しい… それが私とお父様と、そして亡くなられブリュンヒルトお母様の願いなのよ… それだけはわかって頂戴」

「はい、姉様」

「つまらない事を言ってごめんなさい。私がブリュンヒルトお母様を尊敬しているように、ジーク、あなたも命を与えてくれた産みのお母様と大切に思っているのは当然の事よね」

「姉様。僕も最初から母の事を誇りに思っていたわけではありません。スラム街にあっても、自分の肉体を売る売春婦は底辺の職業だと思われていましたし… まだ、幼い少年であった自分にも、母の仕事はとても肯定できるものではありませんでしたから…」

「ジーク」

「姉様。ちょっとした昔話を聞いていただけますか」

 ジークは、姉の身体を抱きしめたまま、遠い目をしてスラムにあった少年時代の事件を語り始めた。

「僕と僕の母、エーデルガルトは公都ヴァイスベルゲンの下町、その中でも最も貧しい人たちが蝟集する貧民窟で暮らしていました。僕の父は、公国の下級兵士だったらしく、僕が物心つく前に戦死していたので、父の面影さえ記憶にありません。一家の大黒柱を失った母エーデルガルトは、売春婦という女性にとって最も悲しい職業に就いて僕を養ってくれました。母が娼婦になったのは、まだ幼い息子を食べさせていくため… それが分かっていても、僕はお金のために実の母が春をひさぐことは、耐えられないほど、辛い事でした…」

「ジーク」

「貧民窟にあっても、娼婦は最低の仕事とされていたし、スラムで暮らしている他の子供たちからも母の仕事の事で揶揄われたりするのが、本当に嫌だった。何回も泣きながら、今の仕事を辞めてくれと母に頼んだものです。そんな時、母はいつも悲しそうに微笑していました。今、思えば、僕は母に本当にひどい事をしました。母エーデルガルトが娼婦に身をやつしたのは。全てこのジークベルトのためであったのに…」

「……」

「ある日、こんな事がありました。母が所属していた娼館の近くに、廃兵院があったのですが…」

「廃兵院?」

「廃兵院とは、戦争で再起不能の大怪我を負った兵士たちが余生を過ごす場所です。負傷の程度がひどくて、もはや実社会に復帰するのが不可能であると判断された元兵士が収容される施設の事です。時々、その廃兵院から、娼館に女の肌を求めてやって来る者がいました。戦争で重傷を受けた男たちですから、裸になってみれば、その肉体は無惨な有様です。

廃兵院の男たちは、貧民窟の最下級の娼婦たちからも敬遠されていたのですが…」

「……」

「ある日、その廃兵院から、極め付けのひどい様相の男が娼館にやって来ました。その男は、火難に遭ったらしく、全身が惨たらしく焼け爛れていました。娼館の女たちは、その男を見るなり、部屋に引っ込んでしまい… 間違っても、その男に指名されないように身を隠したのです。その男は、娼婦たちの様子を見て悄然として帰ろうとしました。その時、母エーデルガルトが言いました。『お金は持ってる?』 その男はうんうんと頷きました。続いて母が、『病気は持ってない?』と聞くと、男は大きく被りを振りました。母がにっこりと笑って、『じゃ、いらっしゃい』。そう言ってその男を自分の部屋に招き入れました」

「……」

「母が仕事をしている時は、僕は外に出される事が普通でしたから、僕は外でそのまま、待ち続けました。しばらくして、廃兵院の男が出て来て、僕に笑いかけました。その目にはいっぱい涙が湛えられていました。お客を見送るために外に出て来た母に、廃兵院の男は何度も何度も頭を下げて、お礼を言っていました。『ありがとう』『ありがとう』ってね。

 それから、廃兵院の男はこう言いました。『自分のようなバケモンでも、一丁前に性欲だけはありやがるんでさ』と。その言葉を聞いて、母は男を抱き締めて言いました。

『あなたはバケモンなんかじゃないよ。最後の最後までお国のために戦って傷付いた、勇敢で誇り高い兵士だよ。だから、胸を張って生きていくんだよ。いつか、地上の生が尽きて、神様があなたの気高い魂をその価値にふさわしい場所に引き上げてくださる、その時まで」

「その廃兵院の男性は、もしかすると…」

「はい。あのシャンプール砦の戦いに参加した兵士だったのだろうと、後で母が言ってました。男の二の腕には、シャンプール守備隊の部隊章の刺青が入っていたそうです。廃兵院の男を見送ってから、母は言いました。ヴァルデス公国のために命懸けで戦って、重い傷を受けた兵士が、廃兵院みたいな所で余生を送らなければならないとしたら、それはその兵士が悪いのではなくて、傷病年金や恩給を与える事なく、彼らを廃兵と呼んで切り捨ててしまう、この国の仕組みがおかしいのだと… 僕の死んだ父親、母エーデルガルトの夫だった男性は、公国の兵士だったそうですから、その男に特別な共感を感じたのかもしれません」

「あなたに命を与えて下さったお母様は、本当に素敵な方だったのね、ジーク…」

「はい、姉様。いみじくも母が言ったように、この世に神様がいて、そして天国があるのなら、母エーデルガルトはその天国の最も高みに引き上げられて然るべき人間であると… ですから、姉様。ジークはスラムの娼婦の息子に生まれた事を全く、恥ずかしいなどとは思っておりません。むしろ、あの母の子に生まれた事を心から誇りに思っています」

「ジーク。本当に余計なお世話だったようね… ごめんなさい、もっと私の大切な弟を信頼してあげるべきだったわ」

「メーア姉様のお心、ジークは身に染みて理解しております。心配していただいて、本当にありがとうございます」

 ジークは、メーアの身体を離し、優しく言った。

「もう、おやすみ下さい、姉様」

「あなたもいい子でお休み、ジーク。でないと…」

 少年と少女は、同時に言った。

「ラスティエッジが来るぞ」

 ジークベルトとメーアは、そう言って笑った。メーアは被りを振ってドアを開け、ジークベルトの部屋を退出した。その嫋やかな背中のラインを見送って、ジークベルトは唇を強く噛み締めた。


ーーこの世で最も大切な姉を陵辱しようとする輩が存在する。


 ジークベルトは、拳を握り締めた。


ーーこのジークベルトが、絶対にそんな行為を阻止してみせる。


 そして、そのような不埒な事を企む連中には、生まれて来た事を後悔するほどの報いをくれてやる。ジークベルトは、改めて固く心に誓った。

 しかし、ジークベルトはこの時、まだ気が付いてはいなかった。

メーア・フォン・アインホルンの周辺に渦巻く黒いはかりごとは、ヴァルデス公国を根底から揺るがせる、陰謀の中の陰謀の中の陰謀へ繋がっている事を…

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