第5話 行く道は全て地獄
「愛し子 ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスの物語」
「戦争は血を流す外交であり、外交は血を流さない戦争である」
ならば、綺羅星のごとく内外の貴顕たちが集い、楽しげに歓談している、この華やかなパーティの会場もまた、血を流すことのない「戦場」であることに間違いはない。
ラスカリス・アリアトラシュは、巧緻を極めるシャンデリアを見上げながら、そう感じていた。
ここは、ヴァルデス公国の首都ヴァイスベルゲンの中心地に位置する王城アイヴォリー・キャッスルの大広間、「
かつて、北方の雄、帝政エフゲニアの大貴族であったヴァルデス選帝侯家が、一年に及ぶ独立戦争を経て、帝国から分離して、ヴァルデス公国として建国を果たしてから、今年で三百年。
その独立を寿ぐための招宴であった。
帝政エフゲニアからは、帝国大使とその令夫人を筆頭に、外交官、廷臣、上級事務官らの顕職たち、公国と個人的な縁故を持つ貴族たちが会場に参集している。
男性は絹製のカフタンの腰を錦糸を編み込んだ組紐で結んでいるものが多い。
伝統的なエフゲニアの上流階級の正装である。
女性は純白の真珠を多数、編み込んだローブを纏い、頭部には色とりどりのサラファンを巻いている。
男女を問わず、豪勢な毛皮を着込んでいるのは、酷寒の大地に住まう人々の通例であるらしかった。
ボディラインを男性の目に晒すことを禁忌とする
華やかなパーティの中心にいるのは、ラスカリスの父親であり、ヴァルデス公国現大公であるペンドラゴン・ヴァルデス三世である。
父上は、またお痩せになった。
ラスカリスは、父の健康を案じた。
北方の大国、帝政エフゲニアと南方の騎馬民族集団、
そのような地政学的環境に置かれてきた国家の指導者が、これまで経験してきた艱難辛苦を思えば、息子である自分にできる事は、その心身の壮健を祈ることだけだった。
「従兄弟殿」
ラスカリスの背に快活な声が掛けられた。振り返ると浅黒い肌をした青年と、その母親らしい女性がラスカリスを見詰めている。
「この春から、お前もアカデミーの高等部へ進学だな。おめでとうよ」
「本当に月日の流れは早い事。あの愛らしかったラスカリス君が、もう四回生なんてね」
二人は、褐色の肌、漆黒の髪、鳶色の瞳、典型的な
青年は、アブド・アルラスール・ヴァルデス。
ヴァルデス公国大公位の第二の継承権を持つ、第二公子である。
婦人はその母親シャルーシャ・アルラスールであった。
アブドとその母シャルーシャは、
アルラスール家、アリアトラシュ家、ともに亜大陸南方では紹介の労をとる必要のない名門の一族である。
アブドがラスカリスの心の裡を探るかのように言った。
「亜大陸では、十五歳で成人するのが一般的だ。エフゲニアでも
ラスカリスは、咎めるように言った。
「アブド殿、父上は未だ、健在でいらっしゃいます。その父上を差し置いて、国の将来を慮ることなど、このラスカリスには致しかねます」
「そうですよ、アブド。あなたの物言いは、僭越に過ぎます」
実母であるシャルーシャに嗜められて、アブド・アルラスールは首を竦めてみせた。
「我が従兄弟よ、腹を割って話したい。俺は次期ヴァルデス公国大公位を襲うのは、ラスカリス・アリアトラシュ、お前でいいと思っている」
ラスカリスは、息を呑んだ。
ヴァルデス公国の将来について、
アブド・アルラスールは、自嘲を込めて言った。
「俺はこんな容貌をしているからな。俺が次期大公となったところで、公国の民衆の支持は得られまいよ」
アブド・アルラスールは、現大公ペンドラゴン・ヴァルデスの兄である前大公ミハイロフ・ヴァルデスと、サイード族の王族であるシャルーシャ・アルラスールとの間に生まれた男子だ。
亜大陸北方を起源とする白系人種である父と、同じく南方を源流に持つ褐色系人種である母から生まれ出たはずなのに、アブドは完全な
髪の毛は石炭のように黒く、アーモンド型の双眸は濃いブラウン。
彫りの深い精悍な顔立ちには、浅黒い褐色の肌がよく似合っている。
北方白系人種であるペンドラゴン・ヴァルデスと、南方有色人種であるハザーラ族出身のシータ・アリアトラシュの子であるラスカリスが、まさに南北の人種の特徴が程よく混じり合い、危ういバランスの上に成り立つ、端正な美貌をしているのとは対照的だ。
「ラスカリス、我が従兄弟よ。お前にも砂漠の騎馬民族の誇り高い血が流れている。お前が次期大公位を襲うならば、サイード族は全面的にお前の後押しをしよう。もちろん、お前の母方の部族、ハザーラ族の支援も得られるだろう。ヴァルデス公国は、ラスカリス・アリアトラシュ、お前の所有物となる訳だな。
「アブド殿、先程も申し上げた通り……」
その時、「
惜しげも無く高価な真珠を縫い込んだ純白のドレスを纏い、頭頂部には黄金のココシニクを被った女性が、その息子らしい青年にエスコートされてパーティ会場に入室して来たのだ。
二人とも雪白の肌にホワイトブロンドの髪、そして色素の薄いペールブルーの双眸をしている。
典型的な北方白系人種の容貌である。
すらりと伸びた長躯に見合った、ほっそりと長い両手と両脚、見る者に畏敬と憧憬の感情を催させる特別なオーラを放っている。
青年は、ヴァルデス公国第一位の継承権を持つ公国第一公子、ウラジーミル・ゲルトベルグ・ヴァルデスと、その母ダーリア・ゲルトベルグであった。
ダーリアの方は、もうかなり酒が進んでいるらしく、陶磁器のような白い肌が、薔薇色に上気している。
ダーリアは大きく息を吐いて、言葉を吐き出した。
「ここは、何か臭うわね。砂漠の獣の匂いがするわ」
アブド・アルラスールは眉を顰め、その母シャルーシャは俯いて顔を伏せた。
ダーリア・ゲルトベルグは、その名の通り、エフゲニア帝国を支配するゲルトベルグ帝室の出身だ。
そろそろ、三十代半ばを過ぎるが、その美貌とスタイルは一切、損なわれていない。
地上で最も美しい民族を自負するエフゲニア人の傲慢と、北方の大国を統治する帝室の出身者である事の矜持から、ダーリアは他の民族に対する優越意識、差別感情を隠そうともしない。
それは、ダーリアの息子であるウラジーミルも変わりはなかった。
ウラジーミルは、他の出席者たちに比べて頭ひとつ背が高く、その腕と足は鋼鉄の
酷寒の地は、その厳しい環境によって、美しさと
「母上は多少、お酒を過ごされましたな」
ウラジーミルは苦笑した。
シャルーシャ・アリアトラシュは、息子の背中に隠れるようにダーリアから背を向けた。
この温厚な婦人は、高慢そのもののダーリアをひどく苦手としているようだった。
ダーリアが目ざとく、ラスカリスの姿を認めた。
ワイングラスに満たされた琥珀色の液体を一気に飲み干し、不敵な笑みを浮かべながら、近付いて来る。
ウラジーミルもラスカリスと、その前にいる二人の
「
次のヴァルデス公国大公位の継承権を持つ、三人の若者が一堂に会しているのだから、注目を集めるのは当然のことだ。
継承権第一位を持つウラジーミル・ゲルトベルグ・ヴァルデスは、そのミドルネームが示す通り、北方の大国、帝政エフゲニアを支配するゲルトベルグ帝室の全面的な支援を受けている。
継承権第二位のアブド・アルラスール・ヴァルデスの母、シャルーシャ・アルラスールは、
ウラジーミルとアブドは、母親こそ違うが、ヴァルデス公国の前大公、ミハイロフ・ヴァルデスの息子である。
それに対して、ラスカリスは、現大公ペンドラゴン・ヴァルデスの息子であるとは言え、強力な後ろ盾を持っていない。
それでも、現大公の嗣子である事は、大きなアドバンテージであり、エフゲニア、
これまで未成年を理由に、ラスカリスは、のらりくらりと両陣営からの圧迫と誘惑を躱し続けてきた。
しかし、公立魔導アカデミー高等部の一年生(四回生)となれば、亜大陸で成年とされる十五歳を迎える。
ラスカリス・アリアトラシュが、エフゲニア帝国に付くのか、あるいは
そして、「中立」などは有り得なかった。
それは、エフゲニアと
シャルーシャ・アルラスールは、ベールの下に顔を隠して、ダーリアの視線から逃れた。
この温和で大人しい砂漠の貴婦人は、人種的な差別と偏見を隠そうともしないダーリア・ゲルトベルグの態度に心底、辟易しているらしい。
アブド・アルラスールが、鳶色の瞳で真っ直ぐにエフゲニア人の母子を見返した。
ダーリアとウラジーミルが、傲岸そのものの態度でアブドの視線を受け止める。
ウラジーミルが、アブドに言った。
「さて、アブド・アルラスール。貴公は我が従兄弟、ラスカリスにどのような陰謀を吹き込んだのであろうな」
アブドは、ニヤリと笑った。
「ラスカリスは、我が従兄弟でもあるのですよ、ウラジーミル殿。大事な血縁者であるラスカリスに、私が彼のためにならない事を勧めるはずがないでしょう」
「ふん」
シャルーシャ・アルラスールが息子の顔を見上げて言った。
「ここは
シャルーシャが、典型的な北方白系人種である母子から逃げ出したがっているのは、明白だった。
ダーリアがシャルーシャの言葉を遮る。
「あら、砂漠の出身者である貴女は、暑さにお強いのではなくて? 砂丘に住まう狐は、恐しい炎熱の中でも平気で生きて行けると聞き及んでいますけど……?」
「砂丘の狐」とは、北方の白色人種が南方の有色人種を蔑んで呼ぶ時の常套句だ。
さすがに、アブド・アルラスールの双眸に瞋恚の炎が燃える。
ラスカリスは、直ちに言葉を刺し挟んだ。
「それはいけません。シャルーシャ様、私が貴方の居室までエスコートいたしましょう」
ラスカリスの狙いは、これ以上、諍いを大きくせず、自身もまたこの場所から逃げ出す事だ。
しかし、彼の狙いは外れた。
アブド・アルラスールが母親の腰に手を回して言った。
「いや、母上は俺が居室までお連れしよう。ここは確かに暑過ぎる。凍土の白熊どもなどのも、のぼせ上がっているようだしな。ラスカリス、改めてアカデミー進学をお祝いする。先程の提案、熟慮してくれればありがたい」
ウラジーミルが、ふんと鼻を鳴らした。
「凍土の白熊」は、「砂丘の狐」と逆に、
アブド・アルラスールは母親を抱えるようにして、「
ラスカリスは、大きく嘆息をついた。
「表向きだけであってもいいから、もう少し、お互いに友好的に振る舞えないものですか」
「そんな御為ごかしに、何の意味がある? そもそも、独立三百年の祝いとは何事だ。エフゲニア帝国は、ヴァルデス選帝侯家の独立など認めておらんのだぞ。ヴァルデス公国は…… いや、ヴァルデス選帝侯国は、今でもエフゲニア帝国の神聖な領土であることに変わりはないのだ」
ヴァルデス公国を支配する大公家は、その起源を帝政エフゲニアの大貴族に持つ。
エフゲニア帝国には、「選帝侯」、つまり、次期の
ヴァルデス選帝侯家は、その中で最強の権勢を誇る家柄であった。
ヴァルデス家は、七つの選帝侯家の筆頭として、常に帝国の内政を壟断し続けてきた。
ある時、エフゲニア帝国を統治するゲルトベルグ帝室は、南方の騎馬民族、
転封を受け入れたヴァルデス選帝侯家は、この地を新たな封土として開発に励み、後に一年間に及ぶ独立戦争を経て、ヴァルデス公国として自立する。
当然、エフゲニア帝国は、ヴァルデス選帝侯家の独立を認めておらず、ヴァルデス公国を承認してもいない。
恐らくは、母であるダーリアの薫陶なのだろうが、ウラジーミル自身は公国の生まれであるはずなのに、自分のアイデンティティを完全にエフゲニアに於いている。
そして、これも母親の影響なのだろう。
北辺の白系人種であるエフゲニア人こそが、亜大陸で最も靭く、美しい民族なのだという揺るぎない信念を持ち、他の人種、民族に対する差別と偏見の感情を全く隠そうともしなかった。
「アブド・アルラスールがお前に示した提案とは何だ?」
ウラジーミルが探るような目付きで、ラスカリスを睨み付けた。
正念場だ。
ラスカリスは、大きく息を吸った。
「アブド殿からは、ヴァルデス公国の次期大公は、この不肖ラスカリスで良い。
ウラジーミルの眉根がピクッと吊り上がった。
「…なるほど、砂漠の蛮族どもはそう来たか… 我が従兄弟、ラスカリスよ、そなたはアブドの提案を受け入れたのか?」
「若輩の身ながら、このラスカリスも『
「賢明なことだ。要するに、そなたを実権を持たない神輿に担ぎ上げて、裏では
「私はまだ、十四歳の未成年者。それに父上は未だ、健在で在らせられます。この場で返答は致しかねると申し上げました」
「ふふん、うまく逃げたな。イエスと答えていたら、エフゲニア帝国を完全に敵に回していた所だ。それにしても、随分と素直に白状したものだな」
「アブド殿とその背後にいる
「大きく出たな。そなたは、アブドとこのウラジーミルとを秤に掛けるつもりか? ヴァルデス公国次期太公の地位は、このウラジミール・ゲルトベルグ・ヴァルデスが襲う。ラスカリスよ、そなたの血の半分は砂漠の蛮族のものだ。しかし、幸いなことに残りの半分は、偉大なる北方の雄、エフゲニア帝国の血筋だ。それに免じて、このウラジーミルの次期大公就位に協力するというなら、公族の一人として手厚く遇しよう。国の
「何とも、魅力的なお申し出ではありますが… ウラジミール殿、ダーリア様がお辛そうにされています」
ダーリアがテーブルに突っ伏して軽い
「母上は多少、お酒を過ごされたようだ。今宵はこれで失礼する事にしよう」
ウラジーミルは、軽々とダーリアを抱え上げた。
「中立などないぞ、ラスカリス・アリアトラシュ」
最後にラスカリスに鋭い一瞥をくれてから、ウラジーミルは「
中立など勿論、あり得ない。
ラスカリスは、唇を噛み締めた。
帝政エフゲニアと
実力もないのに意地だけ張って見せても、待っているのは、ふたつの大国による挟撃だけだ。
かと言って、例えば
エフゲニア側に付いても同じことだ。
ヴァルデス公国は、エフゲニア帝国の南方侵略のための橋頭堡と変わり、同じように公国の騎士や兵士たちは、剽悍な砂漠の騎馬民族たちと戦わされることになるだろう。
まるで、氷と炎のように似ても似つかず、お互いに相容れないエフゲニア帝国と
「以夷制夷」、つまり、「 夷を以て夷を制す」である。
他国の力を利用して、外国を攻め、自らは傷を負うことなく、ちゃっかりと利益だけをせしめる……
行く道は全て地獄、か。
ラスカリスは嘆息を吐いた。
「ラスカリス」
ラスカリスの背中へ、穏やかで優しい声が投げかけられた。
ラスカリスが振り向くと、疲れた灰色の目をした男性が彼を見詰めていた。
「父上」
それは、ラスカリスの父、ペンドラゴン・ヴァルデス大公であった。
「すまんな、息子よ。儂が不甲斐ないせいでそなたに苦労をかける…」
ラスカリスは微笑した。
「父上は何も悪くありません。公国に力が無いのが、無念ということです」
「うむ」
「長生きをなさってくださいね、父上。このラスカリス、ヴァルデス公国を支えるには、まだ、若輩に過ぎます」
父と子は、お互いを見詰め合って、弱々しく笑った。
北方のエフゲニア帝国、南方の「
ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデス、この時、十四歳。
――「公立魔導アカデミー」入学まで、後一ヶ月。
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