第13話 カッパドキア 

 翌日は雨が降っていた。

 しかも体調が悪く、熱っぽかったので、この日のカッパドキア観光はあきらめた。

 正午頃、ネヴシェヒルのホテルの近くにあったスーパーマーケットに行って、パンとトマトジュースと水を買った。それ以外の時間は部屋の中で過ごした。

 苦行バスだけでなく、これまでの旅の疲れがどっと出たのだと思う。

 ぐったりとベッドに横たわり、たっぷりと眠った。

 怖い夢をいくつか見た。

 夢の中身はすぐに霧散してしまって、ひとつも憶えられなかった。

 その翌日は快晴で、疲れも取れていた。

 カッパドキア観光をしよう。

 カッパドキアは単に数多の奇岩がある景勝地というだけではない。

 そこには歴史がある。

 かなり古く長い歴史が……。

 紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシアの碑文に、カッパドキア州の名称が刻まれている。

 紀元前4世紀にはペルシア帝国に反旗を翻し、アリアラテス1世がカッパドキア王国を創建した。

 紀元前130年、アリアラテス5世は共和政ローマと同盟して、ペルガモン王国と戦い、敗死した。

 17年、カッパドキアは独立を維持できず、ローマの属州となった。当時のローマ帝国にとって最北東の属州であり、敵国と接する最前線であった。

 そのころはまだキリスト教はローマの国教ではなかった。初期キリスト教徒がカッパドキアの地下都市に隠れ住んでいた。この時代、厖大な宗教的壁画がカッパドキアの地下に描かれた。

 ローマ帝国の東西分裂後、カッパドキアは東ローマ帝国の領土となった。地理的に当然そうなる。

 15世紀にはオスマン朝が伸長し、カッパドキアを領有した。

 そして現在はトルコ共和国の一地方となっている。

 わたしは地理的な旅をしているが、歴史にも興味がある。

 わたしには時空を超越する妙な力があって、ときどき歴史を意識せざるを得ない状況に陥る。

 テッサロニキのホワイトタワーのそばで、その力にめざめた。

 それ以来、土地の現在と過去を強く意識するようになった。

 オスマン帝国の支配地域は広大だ。

 17世紀、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからハンガリーにまで及んだ。

 わたしのこれまでの旅路をすっぽりと覆っている。

 恐るべしオスマン帝国……。

 さて、観光だ。

 わたしはタクシーの運転者を1日雇い、カッパドキアをめぐることにした。

「とにかくキノコ岩が見たい」

「オーケー、オーケー、いくらでもある」

 30代半ばくらいに見える髭面のタクシー運転手は、カーオーディオでトルコポップスをかけながら運転した。

 またそれか……。

 やっぱりウンタラカンタラナンタラカンタラギョーンとしか聴こえない。

 やめてくれと言いたかったが、トルコ人運転手のすべてがこの音楽を愛しているのかもしれないと思って、言えなかった。

 ギョレメ・パノラマというところで停車。

 高台から奇岩群が見下ろせた。

 妖精さんが住んでいそうな岩々が視界の彼方まで広がっていた。

 頭はこげ茶色で、下は薄茶色のキノコ岩が林立している。

「間近で見たい。岩に触りたい」

「オーケー、任せておけ」

 トルコポップスを聴きながら移動。

 さまざまな形状をした奇岩を車窓から眺めているせいか、気分が高揚し、あまり音楽が気にならなくなってきた。

 なんという素晴らしい光景なんだ……。

 わたしは人工建築物にはあまり感動しないが、自然には激しく反応する。

 数億年に渡る風化浸食が柔らかい凝灰岩を少しずつ削り、上部に固い玄武岩を残した。

 大自然の神秘に触れて、わたしは感動した。

 感動に次ぐ感動を味わった。

 車が停まり、「好きなだけ見てこい」と運転手が言った。彼は目を瞑って、仮眠に入った。

 わたしは奇岩地帯に足を踏み出し、キノコ岩の真下に立った。

 岩にはたくさんのくり抜かれた穴やトンネルがあり、のぞき見ると、その岩肌は壁画で埋め尽くされていた。

 うわあ、すごい……。

 岩から岩へと散策していると、若い絵師に出会った。

 彼は地下トンネルの壁に聖母マリアと彼女に抱かれた幼いイエス・キリストを描いていた。

 足元には各種の顔料を乗せた皿がたくさんある。

「見たところ、きみはキリスト教徒ではないな?」

 問いかけられて、わたしは戸惑った。

「わたしはなに教徒なんでしょう? 熱心な仏教徒というわけではないし……。わたしはわたしの神を信じています」

「邪魔をしないでくれるなら、それだけでいい」

 絵師は絵筆を巧みに操って、色鮮やかな壁画をさらさらと描いていった。

 オスマン帝国の歩兵が現れた。

 絵師はいなくなっている。

 兵士は壁画を睨みつけ、神の子と聖母の顔の部分をハンマーで叩き、砕いた。

「ひっ」とわたしはうめいた。

 ハンマーがわたしに向けられたので、あわててトンネルから逃げ出した。

 アスファルトの道路があった。時空は現代に戻っていた。

 わたしはタクシーに乗り込んだ。

 運転手が車を走らせる。

 ウンタラカンタラナンタラカンタラギョーン、ウンタラカンタラナンタラカンタラギョーン。

 その日、さらにたくさんの岩を見た。

 アシカの群れ、ナポレオンの帽子、ラクダ岩、三人姉妹などと名付けられた奇岩たち……。 

 カッパドキアのことは一生忘れないと思う。 

 ネヴシェヒルに戻り、夕方に少し散歩をした。

 古い石造の建物が立ち並ぶ素朴な街だった。

 わたしの背後を笑顔の子供たちがつけてきた。その数はしだいに増え、20人を超えるほどになった。

 わたしが手を振ると、子供たちも手を振った。

 彼らはホテルまでつけてきて、わたしが宿に入ると散っていった。

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