脆弱
智野めいき
脆弱
彼と幾年かぶりに会った。
中学の頃からそれなりに時間は経っているわけだから、相応に見てくれとかは変化があったものの、あのすっとしたすっとした切れた目付きと、マスクを取ってみた時の儚げなような微笑とは、まるで氷の中に入れて飾った花のそれのように変わっていないとみえた。
しかし、どうにも違和を覚えた。彼のことは言うなれば自分のことのように存じ上げているから、よりそれが感じられた。しかしその違和感というか変化というものに、ついに私はたどり着くことなく彼の話が始まった。
「変わりないね」
「君の方こそ、全然変わってやしないじゃないか」
私が言うと、彼は思うことありげに微か笑って見せた。
「そうか、変わりないと思うか」
「だって、そうだろう。そりゃあ背丈だのなんだのは違うけれど……」
私は私で言っていることに、例の違和感のことを付け加えようと思ったがしかし、久しくしっかりと会う相手に、言語化も難しいような変化について指摘するのも、なんだか申し訳ないというか無粋というかに思えて、ごくりと飲みこんだ。
すると彼は、
「そうかい」
と言って特段追及もせずに椅子に掛け直し、コップを傾けて水を一口飲んだ。
居場所は中学の頃に仲間内でしばしば世話になった大衆向けの喫茶店で、そういう場所柄から話題は当座中学時代の思い出になった。
「
「陸駒はイラストやらマンガの道を志して芸術系?デザイン?の専門に行ったらしい。匠巳は最近露骨に笑い顔が多くなったよ」
「笑いが?お笑いでも目指してるのか?」
「ああ、違うよ」
こう見て分かる通り、彼は中学時代のメンツの道には精通していないらしかった。個人的に、彼にこれから言う匠巳のニュースはさぞ衝撃だろう。
「アイツ、彼女持ちになってさ。随分とお熱いよ。うらやましい限りさ」
「はあ、そうか」
思った通りだった。言葉調子こそこのようだが、彼はかなりわかりやすく驚いてくれた。確かに自分が聞いた時も入たくびっくりした。なにしろ匠巳は自分たちの仲間で最も色恋とかけ離れたような男であった。その彼が恋人持ちなど、驚かぬわけがない。
彼は驚き顔を引っ込めて、しばらく何かしら話すか話すまいかと思案に暮れている様子であったが、頼んだカフェオーレを一口飲むと切り出した。
「それじゃあ、流れみたいなもので……俺のそういう話、聞いてもらっていいか」
断る理由もなかったし、彼の話に興味もあったので、私は首を縦に振った。
彼は微笑んだような頬の緩みを見せると、落ち着いた声で、ゆっくりと語り始めた。
自分の弱さ、こと脆さに気づいたのはいつ頃になるだろう。
少なくとも中学かそこいらの時には、自分はどこにでもいるなんということのない……少しばかり理数と一種の運動が苦手な……仲の良い連中と馬鹿笑いしている、普遍的でサンプルチックな中学生だったと思う。当座、恋愛に関しても前向きで、彼女ができるできないだの、欲しいだの欲しくないだの軽口を友達内で叩きあっていたのが容易く思い起こせる程度には強い意志を持っていたものと見れる。
最も、一地方の中学生が思い描く恋愛観などというのは、友達の延長か、そうでなければコミックやアニメの煌びやか限りない早めの青春というようなものであったから、真面目にこの年頃で男女交際などまるで考えてはいないものが大多数であったと、この矮小な一個人は回顧する。
強いて言えば、自分とて中学校の時分に恋愛だのについて考えることが皆無だったかと言えばそうではない。むしろ人並みに好意を持っていた同年の異性の人間ひとり、ふたり、そのくらいはあった。けれどもその些細な感情一つで、その人物を欲するかというとそうではなかった。当時の自分自身の恋愛観から見れば、付き合いたいとこの上なく強く思ったその人物しか眼中にない、くらいの情熱を燃やすものが恋愛だとのみ思っていたので、少々気にするだけで終わった。
後から思って、それが淡いときめきを含む恋慕の念情に近しいものであったということに遅ばせながら気が付いた時には、既に襟元正して綺麗な列を作っているパイプ椅子に座して卒業の祝辞を聴いているところだった。
無論、先刻述した通り一切恋愛とかそれに準じることをしてこなかったわけではない。しかし、今となってはそれが恋愛と呼べる代物であったかどうかも定かでない。自分のそれは、本当におままごとのようなものだったからだ。
この一個人が思うに、あれは小学校時代の延長線上に過ぎなくて、いわばごっこ遊びのようなものに過ぎなかったのだろう。小学校時代から仲の良かった女子生徒が一人いて、中学二年の頃だったと思うが、休日の段に思いのたけを告白するという、まあなんとも面白みのない陳腐な出来事があった。しかしながら、その時は真剣そのものであったので、それが面白いとかは思わなかった。
結果、その彼女はごめんなさい、と言って泣いた。そして自分も泣きそうになり、慌てて家に帰った。今でも彼女の涙を思い出すが、返してみると何故に彼女が泣く必要があろうかと思えてくる。そもそも考えれば此方が勝手に告白したのだから、もしその涙が告白を断って申し訳ないと思う心に由来したからと言って、彼女の方が泣く理由はどこをどう探しても見当たらない。
なんなら、彼女は泣いてはいけないのである。断じて。なにもかも全部こちらが悪いのであって、何も、何者も、彼女を責める謂れはない。悪いのは紛れもなく、勇気を振り絞って好きだと告げたこの阿呆な男子生徒の方なのだ。
それでも、あの時の悲しみと悔しさとが混ざり合ったような気持ちは忘れられないし、今も時々胸が痛むことがある。とかく、自分の初々しい、みずみずしさすら滲む恋というものは、そんな風にして幕を閉じた。それ以降は、もうほとんど、全くと言っていいほど、所謂ときめきであるとか、そういった類の感情を抱いたことはなかったように思える。
それからは、中学を卒業して、市内の高校に入った。正直言って、その頃の自分は恋愛に対して非常に淡白になっていた。中学での失敗を経て、そういうものに固執するのが馬鹿らしくなったのかもしれない。
とはいえ、徹頭徹尾冷めたような姿勢でいれば、今度は自分の印象が良くないであろうことは想像がつく。なにせ、思春期真っ盛りの少年少女たちが、右往左往しては頬染めたりなんだりと、とにかく恋に恋している時期なのだ。そこにきて自分がやけに醒めているようでは、あまりに空気が読めていない。社会的に見て恥と言えることだが、正直なところ、こんな私でも周りから浮くのは嫌であった。だから、ある程度のところで熱っぽい雰囲気を出すような行動をしていたし、それなりの人間関係を築いてきたつもりだ。
しかしながら、恋愛に関してはどうしても、積極的になることができなかった。
それは明快、単純に怖かったからである。また、同じ轍を踏むのではないかと恐れていたし、それに加えて、恋愛に対する恐怖感はなによりも、ただでさえ脆い自分をより臆病にさせた。
そんな脆さの影が見え始めていた高校一年の秋に、未だ遭遇の経験ない出来事に出くわしてしまった。告白されたのだ。それも、生まれて初めてのことである。
相手は同じクラスの同級生で、顔と名前くらいは知っていたが、特段話をしたこともなかった。ある日の放課後、所用で廊下に出ていた際に、彼女はただ一言、私と付き合ってください、と言った。顔が赤くなっていたし、声が震えていた。きっと緊張して、死ぬ程勇気を出したんだろう、と思った。
私は本心からありがとう、とそう言った。しかし、不安感にも似た後ろ暗い何かが胸に燻っているのを感じていて、それを悟られないようにするので精一杯であった。
その時、私は確かに喜びを感じていた。けれども同時にその燻りを抱えていたものだから、突然言われるとどうして良いのか分からなくなってしまった。
その後彼女と色々話したが、結局、
「一日ばかり考えさせてほしい、何しろ唐突なことで整理がつかないから」
と願い出て見ると彼女は変わりない笑顔で、
「もちろんいいよ、こっちこそいきなりでごめんね」
と謝りを口にしてくれた。
そうして、翌日。結論として言えば、交際することになった。
彼女は今まで私が出会ってきた女子の中でも群を抜いて大人しかった。お淑やかな、嫋やかな子という印象で、実際そうだった。一緒に歩いていても、会話が途切れても、あまり気まずくなることがなかった。それどころか、居心地の良さを感じる時さえあった。自然体でいることができたのは、今考えてみれば、当時の自分にとって何よりも大切だったことだ。
交際してから三ヶ月経った頃、彼女が自分と同性の友達を家に連れてきた。平たく言えば男友達というやつで、しかし彼ら二人はどう見ても──私の邪推や卑屈でなければ──男女の仲であった。
彼らが帰った後、少しだけ二人きりになった時に、私は謂れの無い罪悪感に襲われた。
その友人に嫉妬している、ということではない。無論、羨ましいと思う気持ちがなかったと言えば嘘になるが、それよりもずっと大きな感情がそこにはあって、それは、恋人であるはずの自分には何一つ打ち明けてくれなかった彼女の秘密を、他の人間が知っているという点にあった。信頼されていなかった、或いは信頼されてはいたが、それでもどこかに線引きをしていたのです。
そう思うと途端に悲しくなって、寂しい気持ちになって、そして間もなく虚無的な気分に陥りました。
その日から、私は心に鍵をかけたような、或いは顔に仮面を被ったような状態のまま、彼女に接していきました。
彼女は何も言わずに、いつも通り接してくれた。それが優しさ故なのか、はたまたどうしようもないことだったからか、それともまさか、何にも気が引っかからなかったのかは分からないけれど、ただ、そのことが余計辛くて、苦しかった。何よりも、彼女は悪くないということが分かっているだけに、尚更である。
そうやって、ずるずると日々を過ごしていくうちに、段々と心の中は空っぽになっていった。
やがて月日は流れ、高校二年の春を迎えた。その頃にはもうすっかり、恋愛に対する興味は完全に失せてしまっていた。失せたというよりもむしろ、怖がっていたように思う。恋が怖いのか、それとも愛が恐ろしいのか? 否、自分が恐れていたのは、結局のところ恋愛という行為そのものに他ならなかったわけです。
好きという感情が恐ろしかった。自分の弱さを知るのが、自分の愚かさを思い知るのが、自分の醜さを突きつけられるのが、とても、本当にとても怖くて、堪らなかった。だから、恋愛というものに一切の希望を見いだせなくなっていて、だからと言って彼女と別れようという気持ちになることもなくて、中途半端な宙ぶらりんな関係が続いていた。
そんな日々が続いた夏休み明け頃のこと、私は彼女に話しかけられた。
「その、さ。言いづらいことではあるんだけど」
「うん、言っていいよ」
全く、自分で自分を見てみて常々思うことだが、こうも淡白なのは一種悪癖という名の才覚にも思える。
デリカシイに欠ける、というのが適当な具合で、よくもまあ、こんな人間に行為を持ってくれたものだとおもった。
「ひょっとして、嫌いになった?私のこと……」
「まさか、嫌いになんてなるわけが無い」
これは事実でした。恋愛に興味を、味気をなくしていたからと言って、別段彼女を切ってしまうとか、そういうことはとんと考えてはいませんでした。しかし、答えた私を見る彼女の瞳の、なんと哀しげなことでしたか。
その後ずるずる、ふた月、三月数えた頃、冬休みに入った辺りで私たちは交際を取りやめました。何度でも言いますが、彼女は何も悪くはありません。
むしろその段になって、私は、あの時彼女の男友達を見た時に感じた感覚、彼女と交際している時の気分、そういった物をすり合わせて、一つの考えに至ったのでした。
自分は、到底、誰かに愛されるべき人間では無い、と。
つらつら、滑り良いような、呆気ないような。
そうして話し終えた彼はまた、氷がすっかり姿を見せたグラスのカフェオーレを一口飲んだ。
「どうだい、つまらない限りだろう」
「つまらないだなんて、そんな」
そこから先の言葉が、出てこなかった。ここまで聞いていた中で何度も何度も思うことがあって、そしてそれを彼に伝えようとしていたというのに。
まるで不意に意識を持って行かれたような、そんな錯覚がした。彼は言葉につまる私を見て、口角を上げ、笑いを浮かべながら続けた。
「なに、いいんだよ。こういう話っていうのはさ、リアクションがしにくいんだから」
変わらずの笑顔で続ける彼だが、私にはなにか異なったものがそこに含まれるような気がしてならなくて、じっとアンニュイな色を含んだ笑顔の彼を見つめた。
その時、私はようやっとこの店で彼と再会た時に感じた心ばかりの変化に気が付いた。
切れ長で美しさを湛えたその目、瞳の奥に、中学の頃のきらきらと見えた光が、今はまるで影になったようにすっぽりなくなっていたのだった。
脆弱 智野めいき @rightkyu618
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