第14話 1ー紅時12 鼻血

 伊勢の旦那さんは若紫に毎日通い詰めた。


 暦が半分を超えた頃、おかあさんは「他の御客はんもおるさかい、若紫に暇をくだされ」と告げた。

 半ば、強引に引き離したので、伊勢の旦那さんは不服そうだった。


 太夫の太客は伊勢の旦那さんだけではない。其れに、若紫の花代は高いので少し頻度を下げて、長く通って貰う為でもあった。


 彼の所為で花代が高騰したのもあるが、他の客も若紫を太夫として育てた誉れがあった。太客が数名にも及ぶのは京吉原に轟く程の影響力である。


 他の客も取るようになって若紫が段々日常生活に戻ってきた。苛立ちも少なくなり、寝覚めも良くなってきた。


「ねえさん。顔色が良くなって来て良かったです。あさげも召し上がるようになって、私は嬉しいです」


「紅時だけや。わっちの体調を心配してくれるのんは……」


「おかあさんも心配していますって……。夕顔ねえさんも花魁道中で名が知られて、今では引っ張りだこです」


 太夫が目を細めた。


「夕顔には悪い事をしたわいね……」


「夕顔ねえさんに御客さんが付くのが悪い事ですか……」


 紅時はふと思い出した。

 女郎に客が付くのは、体を売ると云う事だ。新造の夕顔には客を選別する技量はないだろう。其れを太夫は分かっていたのだ。禿である紅時と、令和の記憶のある前世の男の子であったこうには気が付かなかった。


「夕顔を呼んどくれやす。御前さんが食べ終わってからで宜しいどすえ」


 紅時の茶碗が畳の上に置かれていた。

 先に太夫の飯を持って来てから、階段で食べるのだ。花魁道中後、紅時にも飯がきちんと用意されるようになった。

 名も無い新造ですら食えずが多いのに、紅時は太夫の禿としてイケズをされなくなったのだ。

 おかあさんが紅時を後見人にすると噂になったのもある。新しいおかはん候補には誰も逆らう気は起きないだろう。


 あさげを食べ終えた太夫が微笑んだ。


「はい。頂きます」


 紅時が冷や飯と和尚をかっこむ。

 ほほと太夫が微笑む。


「ご馳走さんどす」


 紅時が立ち上がると、太夫の盆を持った。

 太夫の部屋の襖を開けると、話し声が聞こえる。聞き覚えのある声だ。紅時は廊下を小走りに進むと、階段を降りた。

 あさげを出している板場の前で、夕顔と空蝉が揉めている。

 紅時は盆を流しに出すと、直に戻って来た。


「どうしたの……。夕顔ねえさん」


 紅時が二人を見上げた。

 口を噛み締めて怒りを露わにしている夕顔とは対象的に、空蝉は冷めた表情をしている。


「紅時。其の下男を押さえておいて。」


 後ろを振り返ると、嫌そうな下男が居た。紅時は彼女の云うとうりに下男の足にしがみ付いた。

 禿だから小さいのだ。


「どうしたんだい。夕顔……」


 末摘花が下男を羽交い締めにする。


「おいらは関係ない。空蝉に聞け。おいらは銭をもらっただけだ」


「茶屋に着いて行くだけで、女郎から銭が貰える何て可笑しいね。何かあるだろ。吐いちまいな。」


 末摘花がすごむ。

 夕顔が金切り声を発する。


「空蝉から伊勢の旦那さんの臭いがするよ。下男は騙せても、私は騙せないよ。あんた、姉さんの贔屓を奪っただろ。伊勢の旦那さんは、姉さんの馴染みや。」


 腕を掴んだ侭、夕顔が揺さぶる。

 空蝉は呆れた声を出す。


「何を証拠に……。私は下男を連れて引合茶屋に行っていただけどす。」


 女郎は店の外には自由に出られない。誰か店の者が一緒なら話は別だ。だが、下男は忙しくて女郎の暇つぶし等しない。


 見物人の女郎が2つに避けるように道を作った。


「空蝉。ほんまを御云い……」


 太夫がしゃなりと立っていた。

 背後の気配は冷たい風を纏っている。


「花魁……。」


 空蝉が呟いて黙った。


「沈黙は肯定や……、空蝉……」


 太夫が飛び上がって、空蝉の頭を掴んだ。振り上げた反動で空蝉の軸が振れる。

 太夫の全体重を乗せた掌が空蝉の頭を捉えて離さない。夕顔が持っていた左腕だけ残し、頭が地べたにめり込んだ。

 倒れた空蝉の鼻から鼻血が噴出る。呆然とし夕顔が滑り落ちた空蝉の左手を持っている。

 太夫が空蝉に馬乗りになると顔に拳を叩き込む。

 ガッガッガッと骨の当たる音がする。


「辞めーて。姉……さん。」


 空蝉の叫び声にも太夫は怯まない。

 顔を殴り付け続ける太夫が、奥歯を噛み締めて力一杯拳を振るう。太夫の息が上がると、空蝉の上から離れ、腹を踏み付ける。

 ドスドスと鈍い音が響く。

 夕顔が呆然とし見詰めている。


「御前のねえはんや、おまへん。おかあはんの所へ行くえ」


 太夫が動けなくなった空蝉の体から離れ、又、頭を持ち髪を鷲掴みにした。髪の毛を引っ張って引き擦る。

 ブチブチと髪が抜ける音がする。


「姉さ……ん。堪忍しとくれ……やす……」


 空蝉の言葉は太夫に届かない。

 ずるずると空蝉は這いつくばって動く。


 下男が逃げようとするが、末摘花も力では負けていない。紅時も足にしがみ付いた侭、腕に力を込めた。


 わーっと拍手が上がった。女郎が面白がっているのである。

 口々に「流石、太夫。わてらの看板や」と騒ぎ出した。あの様に一方的にやられる喧嘩は余り観ないからである。掴み合いはあっても、下男が止めに入るからだ。


 パンパンと手を叩く音がする。


「あい。分かった。紫の怒りは当たり前どす。あんたら空蝉を南京部屋へ連れていけ。私以外は入れはるな」


 おかあさんが板場に立っていた。








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