第12話 1ー紅時10 枕

 帰りも花魁道中をし、廓に着いた。


 只、只管、に緊張をした面持ちの皆とは打って変わり、紅時だけは群衆の中の音を聞いていた。

 又、誰かが自分の名前を呼ぶかもしれないと考えるだけで喜びで体が震えた。過去の名前を呼ばれるかもしれない……と。其れは必ず『先生』に繋がると信じていた。

 だが、先生は現れず、名前も呼ばれなかった。

 群像の中を「若紫太夫」と掛け声が響いた。


 紅時は落胆の色を滲ませながら、若紫の部屋に夕顔、空蝉と戻った。

 部屋には、御台に乗った御馳走が並んでいた。二人分では余る程なので、紅時達にも振る舞われる。

 格子窓から「祝い酒。祝い酒」と聞こえてくる。

 太夫が屏風のある奥の上座に座り、夕顔、空蝉、紅時が襖の出入り口の畳に座った。


「ほんまに旦那はんは、花魁道中を見てるんどすな」


 格子窓の方を見て太夫が呟いた。


「祝いどすから……。浮かれとるんでっしゃろ……。ゆるりと待ちまひょ」


 夕顔が微笑んでいる。自分の太夫が格が上がったのを誇りに思ってるようだ。

 空蝉は黙って、食べ物を見ていた。この前迄使えていた若紫の次の五番手に人気のある女郎から引き抜かれたのだ。品揃えが違うのである。


「こないに御馳走を食べてよろしいんどすか」


 女郎に一人分があるのが珍しいのだ。普通は太夫分が多いだけだったからだ。


「新造に迄、優しい御方どすな」


 空蝉が喜んでいる。


「わっちはあの雰囲気は苦手でありんす」


 太夫は色々な旦那さんの批判はしたことはない。だが、紅時には伊勢の旦那さんを狸呼ばわりしていたので、良く分かった。腹の底が見えないからだ。


「私も苦手どす」


 紅時が続いた。


「伊勢の旦那はんに枕を申し込まれても断ったらええのに。紅時。ええか……」


「へえ。わかり申した」


 若紫は、はっきり紅時に身売りをしなくて良いと云ったのだ。禿に手を出す客もいる。普通は許されないが、太夫の旦那さんの立場なら金にものを云わせる客もいる。伊勢の旦那さんの毛色なら考えられた。

 夕顔と空蝉は顔を見合わせた。話題の勘定に二人が入っていないからだ。其処は自分で判断しろと云う意味を込めた若紫の視線が向けられた。

 夕顔は太夫の名前上での恋敵にはならないだろう。だか、空蝉は旦那さんを横取りする気があるのかさえ分からない。

 空蝉は余り目立たない振分新造だったからだ。

 紅時は、まだ女の醜さをしらなかった。



「旦那はんが御着きになったえ」


 おかあさんの声が聞こえる。

 三人の表情が作り笑いに変わった。

 ドスドスと階段を上がる音がする。勢い良く襖を開ける。

 旦那さんは、酒が入っていて、既に顔が赤かった。








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