第11話 1ー紅時9 固めの盃
既に伊勢の旦那さんは下座に座っていた。
太夫が先に入る。座った若紫の裾を見栄え良く禿が直す。
上座に太夫が向かい合って旦那さん。旦那さんから見て左に禿で、右に振袖新造だった。
禿が煙管遊びの準備をする。
刀の紅時は座った侭、動かない。
目の前の夕顔は口に笑みは称えているが、息を整えているのが解る。
若紫が煙管に火を付けるとふかした。
禿が其れを持って旦那さんに渡すと、旦那さんは煙管を吸い、若紫に返す。
数回吸うと火種がなくなり、若紫が灰入れに、カンと落とした。
廓遊びの初めの儀式をしているのである。
若紫に馴染みの旦那さんは少ない。彼女は裏を余り返そうとはしなかったからだ。自分の為に体を余り売らなかった。しかし、上客は離れたがらない。伊勢の旦那さんも其の一人で固めの盃をする為に、財を投げ売って花魁道中をしているのである。
旦那さんは、初老だろうか。確かに、若紫には情を通じるとは思えない。
若紫が顔を強張らせた。
禿が道具を片付け、紅時の奥に座る。
いよいよ盃だ。
此れで吉原公認の二人になる。
旦那さんに先に三々九度をさせてから、若紫に盃を返した。夕顔は若紫の盃に清酒を注ぐ。
彼女は三口で飲み上げると、底の輪上屋の家紋を旦那さんに見せた。ゆっくりと立ち上がり、後ろを振り返る様に又、盃の家紋を見せる。
決めの型を取ると、旦那さんは拍手した。
「よっ、若紫太夫」
掛け声がかかり、若紫が数秒してから、元の体勢になった。
夕顔は盃を御台の上に置くと、しずしず下がった。
若紫が煙管に目をやった。禿が彼女の方へ寄った。
煙管に火を付けると、若紫が微笑んだ。
「輪上屋で小さいながらも料理があるどす。伊勢の旦那さんは道中前に御行っとぉくれやす」
話には聞いていたが、息が付けないと紅時は思った。廓の帰りも花魁道中だからだ。習い事とは云え、道は険しい。
「あい、分かった。しかし、道中を少し見学させて貰うよ。折角だ。私も見たいのだよ」
若紫がホホと笑う。
ふと紅時と目があった彼女の眼差しが変わる。
「旦那はん。道中最中に紅時を呼んだ者は知り合いどすか……。誰か御知り合いがいらっしゃりましたか……」
紅時は直に声を思い出した。先生の顔が頭を過る。しかし、立場上声を発せない紅時は、悔しくて下を向いた。
「若紫を見たい奴らは幾万といるだろう。だが、私の知り合いはいないよ。吹聴するのも野暮だしね」
「旦那はんがおっしゃるなら違いおはん」
「太夫が興味示すのが、珍しいね。どんな男か気になるね。話しかけようか……」
紅時はたまらず、声が出た。
「違うどす。他人どす」
旦那さんの目が鋭くなった。
「ほほう。紅時の関係者か……。彼が噂の『先生』かい……。太夫には良く、待ち惚けを食らったからね。其の時に、紅時の話は女郎に聞いたのさ。大丈夫だよ。若紫が一番美しいからね」
若紫の目が鋭くなる。紅時を女と見たのが許せなかったのだ。
「紅時は禿どす。旦那はんでも許しまへん」
旦那さんを睨んでいる若紫には、明確な殺意があった。
「はは。若紫でも嫉妬するのか……」
「紅時はわっちの妹も同じ。色目を使わんとき。旦那はんでも許しはしないどす」
若紫はホホと笑った。目の色だけは変わっていない。
「しないさ……。雅な風格は若紫しかいない。」
舐め回すような視線が若紫に纏わりつく。
「なら宜しおす。紅時。堪忍え」
若紫が視線を下ろした。
紅時は首を横に振った。ハラハラしていた夕顔は息を吐いた。
「では、旦那はん。輪上屋で、又……」
若紫が立ち上がると、太夫を追って皆、部屋から出て行く。
階段を降りる時に、若紫が視線をずらさず、「堪忍え。」と呟いた。
紅時は音もなく頷いた。
「先生ではありません」
「もしかしたら、『先生』の知り合いかも知れないえ。旦那はんは好奇心一杯の御人や。話かけるやもしらぬ。」
「確かに……。もしかしたら……。先生に繋がる情報かもしれないです。」
紅時の瞳が喜びに溢れたのを、冷めた目で見ている太夫。
「さあ、帰るえ。」
若紫が又、始まる花魁道中に気合を入れた。
楼主達が太夫に寄って来る。
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