第10話 1ー紅時8 花魁道中2
夕刻に近づいている。
紅時は若紫の後に続いて廓の中にいる。
「おかあはんが云う事を気にせいでおき。御前はんが、『先生』を慕っておるのは分かる。廓に居る間は……。『先生』を忘れよし」
若紫が言葉を詰まらせたのは、女郎の想い人がいる事の無残さを知っているからである。
「へえ」
紅時は下を向いて頷く。
不安そうに隣にいる禿が二人の会話を聞いていた。
「紅時はん。もう想い人がおるの……。難儀なこっちゃ……」
禿の幼い瞳には興味が伺えた。
「堪忍な……」
紅時が禿を見る。隣の禿は親しくない。仲の良い人にしか、先生の話はしたくないのだ。
先生に会えるのは難しいかもしれない。もう誰に生まれ変わってるか、わからないのだから……と紅時は思った。
「其の様な湿気た顔をするなよし。花魁道中が終わったら又、話をするえ。紅時の夢を諦めさせてたまるかだわ」
若紫が笑った。ほほと笑う。
末摘花が渋い顔をした。女郎の末路を知っているからだ。夕顔も下を向いている。空蝉は意味が分からず、困惑した。
「紅時はどう云うこっちゃ……」
空蝉が首を傾げた。
「紅時は前世の『先生』を探してるの。年季が明けたら、大門を出るつもりよ」
夕顔は、空蝉に耳打ちした。
「おなごが大門の外で生きいけるのかえ……。」
「前例はあるよ。でも、昔の話しさ。紅時も良く分かってるはずたよ」
夕顔は空蝉を見て答えた。
「紅時の想いは無駄にするなよし。私は応援するどす」
若紫が紅時を見た。
「ねえさん……。」
紅時が堪らず、若紫に抱きつく。
「でも、わっちは『先生』を信じてないどす。現世など一回で十分どす」
紅時も前前世の記憶がなければ、黙っているのだろうが、先生は必ず居ると信じてる。
「其れでも、有難う。ねえさん。私を信じてくれて……」
「お末に礼は云っとくれ。わっちはお末にほだされただけよし」
楼主が錫杖を持って、廓の戸が閉まっている踊り場へ出た。
「並べ」
楼主の後ろに提灯持ちの下男が立ち。禿が二人並び。下男と高下駄を履いた若紫。後方に夕顔と空蝉が並んだ。
江戸吉原では、振袖新造がもっと並ぶが、若紫が嫌がったので、人数は少なめである。
其の後ろに、三味線、太鼓、縦笛等の鳴り物。歌い方が並ぶ。
おかあさんは、少し考えてから口を開いた。
「まあ、堂々としているから、問題はなかろう。ささ、荷物をきちんと御持ちしい」
紅時は袋に入った刀を胸に当てた。禿も煙管箱を胸まで上げた。
楼主が戸を開いた。
既に物見客が道に列をなしている。彼らは危機として、太夫を見ている。
紅時は口角を上げた。
花魁道中の始まりである。廓の外に出ると、待合茶屋の方まで人が居る。もう言葉を発する事は、許されない。
「輪上屋 若紫太夫」
楼主が声を張り上げる。
シャンと錫杖を鳴らす。後ろから太鼓の音と三味線が鳴り出した。歌い方が歌い始めた。
夕日が沈む中に行列がしゃなりしゃなりと動き出す。
楼主が同じ言葉を繰り返す。遊郭街の行灯には火が入っていない。
紅時は前を見据えて、下駄を進める。隣の禿が震えているのが分かる。
始まってしまったら止められない。誰かが転び縁起が悪くなり、また廓に戻るか、茶屋に着くまでは耐えるしかない。
おねいりは続く。
若紫の方から溜息が出ている。外の客の声であろう。だが、若紫は笑わない。ゆっくりと外八文字と内八文字を描いて下駄を鳴らしている。
錫杖のシャンと云う音で一歩ずつ進む。
「輪上屋 若紫太夫」
楼主が声を張り上げる。
両側の観客がざわざわと揺れている。
「紅……」
紅時の耳に声が聞こえた。
右側を見たが、首を直に前に戻した。
聞こえない。其の声は先生ではない。
「紅隆……。紅隆様」
声が前からする。男性が先回りし紅時の顔を見ている。紅時は前前世の記憶の名前を呼ばれているのである。あれは、先生ではない。顔も見覚えがない。
誰と問いたいが、男は必死で紅時を見た。
「紅」
隣の禿がチラチラと紅時を見ている。
駄目だ。抜ける訳にはいかないと紅時が、下唇を噛んだ。
其の表情を見た男は、周りの人間に何かを聞いている。
ゆっくりと横を通り過ぎると、茶屋は目の前にまで来ていた。楼主と禿は太夫が敷居を跨ぐまで待った。鳴り物が音を止めると、楼主が道前まで出て、「輪上屋 若紫太夫。御到着〜。」と声を張り上げた。
花魁道中の終了の合図である。
禿と新造が茶屋の中に入った。鳴り方と楼主は一階で茶を飲む為に、席を探した。既に予約と書いてある札があった。
「二階の一番奥だ。するすると終わったら、又、花魁道中だぞ。気を引き締めろ。」
楼主に頭を下げると、禿と新造は若紫の側に寄った。板場で下駄を外して立っている。
「頑張るえ。まだ固めの盃どす。」
若紫は自分に言い聞かせる様に云った。
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