第19話

 彼の深層心理にあるのは――今のまま自分は好きなように書き、好きを詰め込み、同時に多くの読者に読まれ、高く評価してもらいたい――という願望に準拠する。


 強烈な自己愛と承認欲求だよ。

 

 そして、それが成り立つのは、先に挙げた幾多の連載をこなす例のように、ごく少数の人間だけだ。

 己が好きなように楽しんでいるものが、そのまま自然と多くの他人を楽しませるものに仕上がってしまう稀有な存在――いわゆる天才だ。


 あのフランツ・カフカは生前「変身」をはじめとした数編の短編しか作品は発表されていなかった。驚く事にカフカは自分の死後、原稿はすべて燃やしてくれと友人に頼んでいた。幸い友人の賢明な判断で、後世の我々はカフカの作品を読むことができるわけだがね。シモーヌ・ヴェイユに至っては、生前は一作も発表されていない。彼女もまた賢明な友人の判断によって、その作品が後世に残された。


 カフカやヴェイユが、自分の作品をどのように捉えていたのか、その真相は永遠に闇の中だ。だが、二人の作品は無数の他者を楽しませ、啓発するものに達していた。それは動かしようのない事実だ。


 そもそも趣味とはなんだ? アマチュアとはなんだ? ひと括りにできるものではなかろう。

 プロに限りなく近いアマチュアもいれば、素人同然のアマチュアもいる。

 そんな事は正常な人間なら、誰にでもわかる。

 だが六地蔵リクオは、自分の観点からでしか物事を考えられない。

 「自分はアマチュアで、このように書いている。だからアマチュアの書き方はこれでいい、アマチュアや趣味で書くならこれが正しい」という論理構成だ。


 そこに根差しているのは、絶対的な自己肯定だ。

 

 彼は自分の観点から出ることができない。それは客観性の欠如を表す。

 残念ながら、小説に客観性が欠如していれば、人は読んではくれない。

 

 そして通常、人間は失敗から学ぶものだ。だが、彼は学ばない。ひたすら同じ失敗を犯し続ける。それも当然だ、反省がないからね。彼は自分が正しいと信じている。正しいと信じていれば、反省は発生し得ない。だから彼はハムスターのように同じところをぐるぐると回る。


 君がやがてインターンを終え、精神科を選択するなら、この先多くの精神を病んだ患者に出会うだろう。参考に覚えておけばいい。小説や絵画、音楽などの芸術分野には、なんら特筆すべき才能を持たぬ者が、己を歴史に残る芸術家に匹敵する天才だと心から信じているケースが多々ある。


 概してそういう人間は、現実を受け入れられずに狂っていく――。


 

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