11
「大悟! さっさと起きな!」
姉の声にビンタされ、大悟はしっかりと目を見開く。いつの間にか大悟の体はカウンターを離れ、床に押し倒されていた。森ノ宮静華は馬乗りになり、その両手で彼の肩を床へと押し付けている。そこに口を開け、大悟の首筋へと噛みつこうとしていた。
その森ノ宮静華の体が大きく跳ね飛ばされる。
大悟は慌てて立ち上がり、彼女と距離を取った。
いつの間にか図書室の電気は復旧し、部屋を蛍光灯が照らしている。その明かりの下、やや顔を俯けて立ち上がった森ノ宮静華が解けた髪を振り上げた。彼女の美しい顔はそのままだが、口元は酷く歪んでいる。大きく開き、そこには獣のような牙が見えた。更に彼女の両の目は真っ赤になり、体は黒い靄によって覆われていた。
「クソ、気ヅイタカ」
その言葉はあの森ノ宮静華から発せられたものだが、既に彼女の声色ではなかった。低く、ざらざらとして、ボイスチェンジャーを使ったもののように聞こえる。
「姉さん、これ」
「大悟。くるよ」
「え?」
何が――そう考える間もなく、右側の頬が切れる。何をされたのか分からないが、森ノ宮静華ではない何者かが大悟に向かってきた。触れられていないはずなのに、鋭い痛みをそこかしこに感じる。
「ナヌ!?」
だがそれらは寸でのところで大悟に致命傷を与えずに透かされていた。
「クソ! オ前、ヤハリ式神ヲ」
大悟が何かした訳じゃないし、驚異的な動体視力で避けたりした訳でもない。姉だ。それ以外に考えられなかった。
「姉さん。こいつは?」
その質問は、けれど次なる森ノ宮の姿をした何者かの攻撃によって遮られた。自分の力が届かないと分かると今度は直接、大悟の体を傷つけにやってくる。迫った彼女の腕は元の森ノ宮静華の細い腕のままなのに、殴りつけた拳は巨大な鉄骨を受け止めた時のように重く痛い。
大悟はそれでも自分の前腕を盾に、幾つかは拳を手で弾いて、被弾を避ける。ただの喧嘩なら慣れたものだ。それでもすぐに背後が本棚になり、後ろに下がれなくなる。
「喰ラエ!」
彼女の右足が持ち上がる。スカートの裾がまくれ上がり、見えてはいけないものが見えそうになるが、今はそれを注視している訳にはいかない。大悟は彼女の回し蹴りに備え、両腕を自身の前で構える。キックボクシングのトレーナーが受け止めるが如くに衝撃に備えたが、抱きかかえるようにした両腕はそのまま折れてしまいそうなほどの痛みでそのまま大悟の身体は本棚へと弾き飛ばされた。背中も後頭部も強打し、大きな音を立てて収まっていた本が雪崩落ちた。
「我等トテ、貴様ラ陰陽師ヲ喰ラエバ、式ヲ操ルコト造作モナイ筈」
森ノ宮さんに似た何か苦痛で動けなくなっている大悟に近づき、その喉を掴む。そのまま持ち上げようとしたが、彼女の手が見えない何かによって弾かれた。大悟の体は床に転がり、掴まれた首も打ち付けた背中も痛みで感覚がよく分からなくなっていたが、とにかくその場から逃げなければいけないと手を突いて体を起こし、体勢を整える。
「姉さん。本物の森ノ宮さんは一体どこにいったんだ?」
「大悟、あれは肉体は本物の森ノ宮静華だよ。取り憑かれたんだ、悪霊に」
悪霊。嫌な響きだ。幽霊の中でも人間に害を加えるものをこう呼ぶ。姉によると霊というのは本来は無害なものだけれど、ごく稀にその中に悪い影響を与えるものが存在していて、更にその中でも自発的に人間に害を与える、傷つけたり、時には殺したりするものが悪霊と呼ばれていて、それらを制御するのも陰陽師の大切な仕事の一つだと、以前教わった。
その悪霊に森ノ宮静華が取り憑かれともなれば、大悟も穏やかではいられない。
「頼む。森ノ宮さんを助けたい。俺はどうすればいい?」
「あたしにはあんたを守ることくらいしか出来ない。幽霊だからね。残念だけど生きてた頃のような霊力はないのよ。ごめんね」
――それじゃあ森ノ宮静華は。
「あんたがやるしかないだろう?」
「無理だよ。だって俺には何も――」
強烈な風圧に襲われる。
うわぁ! ――という姉の声が耳に響いたが、その姿は見えない。ただその声が消えた刹那、大悟の胸元に森ノ宮静華の右腕が達していた。彼女の五本ある右の指が全て、彼の胸にめり込んでいる。それは徐々に体へと沈んでいき、大悟は堪えようのない痛みに声を上げた。
「小僧、貴様ノ体ヲ寄越セ!」
「何でお前なんかにくれてやらなきゃならないんだよ!」
「陰陽師ノ血ヲ喰ラエバ我ハモウ恐レナクテイイ」
――恐れる? 一体何を?
その思考ごと、森ノ宮の右手に握りつぶされそうだった。
薄れる意識の中、何とか目を開けて見れば、森ノ宮静華の顔が半分、泣いていた。その唇は「タスケテ」と繰り返している。取り憑かれてはいてもその中に彼女はいるのだ。
「小僧。コノ娘ヲ助タケタイカ? ナラバ喰ワセロ!」
腕の一本くらいならくれてやってもいい。だがそんなもので満足しないだろう。現に今奴が手を伸ばしているのは大悟の心臓だった。
もし本当に自分の体に流れている陰陽師、土筆屋の血に力があるというのなら、こんな化け物にそれを与えてしまったら大悟一人じゃ犠牲が済まない。だから皮膚の一片、爪のひと欠だって奴に食わせる訳にはいかなかった。
「大悟。あんた九字は知ってるね?」
姉の声だ。くぐもっていて苦しそうにしている。しかしまだ声を届けられるだけの力はあるのだ。一瞬、胸に突き刺した手の力が緩んだのが分かった。
「あ、ああ。一応、小さい頃に無理やり覚えさせられたからな」
「じゃあ、あたしが合図したら、やりな」
「けど、あんなことをしたって何も」
「いい? あんたは力がない訳じゃない。ただ抑圧しているのよ。あたしの死を目の当たりにしたあんたは本来あった自分の力を全て封じ込めてしまった。でもね、今目の前で苦しんでいるあんたの最愛の彼女のことを思えば、そんな封印なんざ消し飛ぶよ。力とはね、思いの強さだから」
――俺に、力がある?
確かに亡くなったはずの姉の声を聞くことは出来る。しかしそれだけだ。今だって森ノ宮静華に取り憑いた悪霊によって殺されそうになっている。胸に沈み込んだ指は心臓に到達し、それを引き抜いてしまうだろう。
そう思ってみると、ほとんど指の位置が変わっていない。
「姉さんか?」
「あたしじゃない。あんた自身だよ。だから、信じな。やるよ」
信じる。そんな不確かなことで力が出るというなら、いくらでも信じてやろうじゃないか。
大悟は覚悟を決め、その目を半分笑い、半分泣いている森ノ宮静華の顔に向けた。
「いいかい。あたしが奴を一瞬だけ剥がす。そしたら、あんたが九字を切る。いいね?」
「ああ」
出来る。そう信じるだけだ。
本当にそんなことが可能か? ――という疑問を今するのはただの愚か者でしかない。
「いくよ!」
その姉の声で一瞬、森ノ宮静華の手が離れる。
「今よ!」
九字というのは力を持つとされる九つの漢字のことだ。それを発声しながら印を結ぶ。印とは指で作るしるしのことで、呪文と印により、陰陽師というのは力を制御してきた。
大悟は記憶の底を掘り返し、幼い頃、姉に何度も叱られながら覚えた九字を思い出す。
(
心の中に文字を刻む。それから腹に力を入れ、声ではない声を発した。
「臨! 兵! 闘! 者! 皆! 陣! 列! 在! 前!」
破。
「悪しきモノよ、霧散しろ!」
大悟の声と姉の声が重なり、強烈な光を帯びる。
――!
それは怪異の断末魔だったのだろう。耳を劈く高周波が部屋に響き渡り、紫の光は白く爆発して霧散した。
支えを失った森ノ宮静華の体が傾いたのを目にし、意識が遠のきそうになる中、大悟は力を振り絞って彼女の体を抱き締めた。
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