12

 ねえ――。

 

 何か聞こえる。


「ねえねえ」


 ――ああ、またか。

 

 これは姉の声だ。つまり、ここは夢の世界という訳だ。

 大悟はぼんやりとした意識の中でそう確認すると、姉がどんな風に弟をたぶらかそうとしているのか、受けて立ってやろうと決め、出方を見た。


「ねえ、起きて」


 薄っすらと開けた目には森ノ宮静華の不安そうな顔が映っている。まさか姉さんのやつ、幻術を使う能力でも手に入れたのだろうか。その不安そうな森ノ宮静華が「起きて下さいませんか」と言っている。丁寧な言葉遣いもその優しく繊細な声もどこからどう聞いても森ノ宮静華のそれだ。今朝のようなただ甘ったるいだけの、ともすれば森ノ宮静華を侮辱しているとすら思えるあの声音ではない。ひょっとすると幻術は見た目だけでなくその声や性格までも似せてしまえるのだろうか。

 だがそれで騙される大悟ではない。これまで何度も姉に馬鹿にされ、悪戯によって悔しい思いをさせられてきた身だ。この程度では引っかかってやるものか。そんな意地すら湧いてくる。


「とても体が重くて起きられないなあ。それこそ起こしてもらわないと」

「え、それは困りました」

「どうして? いつもみたいに起こしてくれればいいじゃないか」

「いつも、と言われますと?」

「両手で頬を挟んで、それから優しく起きてと言いながら、キスをする。簡単だろう?」


 姉はどうやら戸惑っているようだ。そんな風に起こしてもらったことなどないが、あれで意外と初心なところのある姉には結構ハードルが高いはずだ。いつも辛酸を舐めているのだから、たまにはこれくらいの反撃しても許される。

 けれど目の前の姉は何も言ってこない。大きく目を開け、その表情を見てやると、顔を真っ赤にして口を噤んで考え込んでいる。


「できない? そうか。できないか。じゃあ起きられないなあ」


 更に煽ってやる。負けず嫌いの姉であれば絶対にこれで乗ってくるはずだ。


「できない……できます、と言いたいところですが、やはりキスは無理です。無理ですけど、これなら……」


 キスではなく、何をしてくれるのだろうか。

 森ノ宮静華の顔が近づく。その手が右側、そして左側へと当てられる。熱い。

 何とも綺麗な造形だ。それなのに二重の瞳は今にも泣き出しそうになっている。けれど、よく潤んだ瞳は大悟の心をぎゅっと掴んでくれた。

 幻でも夢でもいい。


「大悟、さん……」


 彼女の顔が、もうすぐで鼻の頭に触れそうな距離まで迫った。

 甘い。彼女特有の爽やかな香り。それが大きく開いた大悟の両方の鼻腔から肺へと吸収される。

 

 ――あれ? これは姉ではない?

 

 幻術にしても何だか妙だ。大悟の頬に当てられた手は緊張し、近づこうとしている彼女の顔の、特に目蓋とそこから伸びた睫毛が小刻みに震えていた。


「私、やっぱり無理です! もう、恥ずかしすぎて……ごめんなさい!」


 その言葉と共に手が離れると、パタパタという足音が遠ざかり、ドアの開閉音が響いた。姉は部屋から出ていってしまった。


「え?」


 大悟は慌てて上半身を起こす。まだ彼の周囲には彼女の残り香があり、姉の高笑いの一つも聞こえてこない。

 彼女が揺らしていった真っ白なカーテンは保健室のそれだ。隣にもベッドがあったがそこには誰の姿もない。ただシーツに乱れがあり、誰かが横になっていたことは分かった。一応そのシーツに鼻を近づけてみる。

 

 ――森ノ宮静華の香りだ。


「あ、あの、姉さん?」


 答えはない。

 状況を整理すると、あの図書室で悪霊とやり合った後、誰かによって保健室まで運ばれ、ベッドに寝かされていた。隣にはおそらくあの森ノ宮静華が寝ていたのだろう。しかし今隣に彼女はいない。今までに姉が大悟に対して何か姿を見せたりしたことはなく、当然幻術を体験したことはない。だが今し方、確かに大悟を起こそうとしている女性の姿があった。それも森ノ宮静華の見た目をしていた。悪霊ならあのまま大悟を食らっていただろうが、彼女は顔を真っ赤にして走って逃げてしまった。

 つまり、あの森ノ宮静華は本物の森ノ宮静華の可能性が非常に高い、ということになる。


「うわぁぁぁぁ、俺なんてことしちまったんだ!」


 呻き声を上げた大悟に、ようやく姉の笑い声が届いた。


「何がおかしいんだよ! 気づいてるなら言ってくれよ!」

「だってさあ、意外といい雰囲気だったじゃん? あのままいけば本当にキスくらいできたかもよ?」

「森ノ宮さんがそんなことする訳ないだろう? あぁ、もう明日から顔合わせられないよ」


 人生最悪の日だ。天を仰ぐと保健室の真っ白な天井が見えた。

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