34 三騎



         *


 水泥はじょう州の只中ただなかを馬でけていた。既に蓬莱ほうらいより二日二晩を経ている。向かうは言わずもがなえいしゅうだ。

 蒸州内は水源が豊かだ。ここまでの道中では水の確保も容易たやすく、ずいぶんと荷を軽くしておけた。馬にいた負担が薄いのはこの駆けようからも推量できるだろう。

 しかしこの先はそうもいかない。革袋二つ分に水を詰める事になる。それでもこの先にあると聞いている三か所の水源がいずれかでも枯れていたら行程は頓挫とんざしかねない。決して気は抜けないのだ。


 馬上で、少しだけ豊来ほうらいの事を思った。


 紅江こうこう隴欣ろうきんきむ慈琳じりん。この三名を親に持つ彼は、姮娥こうがであるのに五邑ごゆうの速度で成長するという不可思議な運命を持って生まれた。つきの民は産んだ者を親の筆頭とするため、彼は羅の姓を継いでいる。故に豊来ほうらいと言うのがその正式な名だ。

 産の時からの付き合いであるし、養育も一部手伝ったため、水泥も彼を自身の子のように一部錯覚して育てていた側面はある。その影響が隴欣ろうきんに残ってしまった事は申し訳なく思っていた。何よりも、自分以上に良心の呵責かしゃくに耐えかねていた保食うけもちを見るに見かねていた。

 かねてより水泥は、隴欣の症状を緩和する術はないものかと、知己問わず声をかけていた。死屍しし散華さんげの害を和らげる方法など聞いた事もない、というのは承知の上で、それでも挨拶のように繰り返してきた。


 多少惰性だせいで続けていた事は認める。しかし、あきらめずかさねる甲斐かいというのはあるものだ。


 ついに、水泥の耳にある噂が届いた。いわく、まつろわぬ民を経由して、極秘に死屍しし散華さんげの毒を消すという不可思議な薬を手に入れられるというのである。

 噂の出所はどうあっても明かされなかったが、どうやらあるのは事実らしい。半信半疑だったが、なんとか小金こがねき集めて少量を手に入れる事ができた。結果、噂は本当だった。水泥は小躍りし、おいがねをはずんで三倍の量を麻硝ましょうの下へ届けてもらうべく手筈を整えた。破格の金策が成って喜ぶ水泥に、金貸しの親父は複雑そうな顔で「本当によかったのか?」と念を押す。


 水泥は、黙ってうなずき笑って見せた。愛用の鍛冶道具も全て売り払った後、彼が最後に手放したのは、母が父から下賜かしされたと誇らしげにしていた翡翠のたまかんざしだった。


 麻硝は今瓊高臼にこううすにいる。隴欣を彼の下へ運ばせ、そこで投薬療養させるのだ。そうすれば、いずれ隴欣も正気を取り戻し、彼等の親子仲も回復するに違いない。自分自身は、もう彼等の結末を直接見届ける事はできない段にあるが、今の麻硝ならばやり切ってくれるに違いない。それでいいと思っていた。

 しかし、露涯ろがいから出立する直前、自分の様子がおかしい事を豊来に悟られた。ずっとへばりついて離れない豊来に、水泥はこれが最期であるからと任について話してしまった。豊来は泣いて叫んで怒った。大きくなったら自分の三交になってくれと頼んだじゃないか、約束したじゃないかと水泥に向けて怒り、その胸に拳を叩きつけ続けた。まだ成長途上の彼には自身の雌性雄性も、水泥の雌性雄性も判別が付かない。故に、ずっと一緒にいられる方法として三交を申し出たのだろう。

 泣き疲れて眠った豊来を紅江に渡して、水泥は親子に背を向けた。

 大きく健やかに育って欲しいと心から思う。

 そして、彼等四人の安寧なる未来を祈った。



 間もなく蒸州の囲いを抜けようという時に、前方に二つの騎影が見えた。水泥はわずかにその相好を崩す。

 ああ、よかった、と。

 近くまで寄ると、馬から降りていた二人が拱手して待っている事が分かった。少しだけ急いで近寄り、水泥も馬から降りた。

蔡水麒さいすいき様ですね」

「はい」

「お待ちいたしておりました」

 二人は静かに頭を垂れた。


「我々、禁軍大将軍鸞成皃らんせいぼう閣下麾下、はいごう

「並びに――もうと申します。此度こたびは閣下よりの拝命により、貴殿を無事てい州まで送り届ける任に着かせていただきます。弟州に入られて以降は、現在弟州を管理致しておりますかん中将の麾下の者がこの任を引き継ぎます。仙山せんざんよりのご要望に従い、弟州の東端以降は蔡水麒様の単独行にとの事、承っております」


 水泥はゆっくり微笑む。


「はい。それで合っています。お手数おかけいたしますが、よろしくおねがいします」


 言いながら、水泥は丁寧にこうべを垂れた。途端、その背にっていた革袋が「ちゃぷん」と音をたてて胸の前へ回り落ちてきた。「お」と小声を上げつつ、水泥は慌ててそれを両手で抱きかかえる。ややあって、水泥はちらと上目遣いの視線を李毛と裵剛に送り、「へへ」とばかりに苦笑いを零した。

 その様子に、李毛は思わず目をしばたたいた。そして、裵剛と顔を見合わせ、思わず微苦笑する。

 己等おのれら二人そろいも揃って、瞬時にこのあざ持ちの大男にほだされたと理解したからである。

 場合によっては油断のそしりをもまぬかれぬ、軍人としてあるまじき事態だが、どうにもこの水泥という男には、人から毒気や気負いといったたぐいのものを抜く何かがある。軍人である二人よりも頭一つ大きく、遥かに恵まれた体躯たいくの主なのに、威圧感というものがまるでないのだ。

 人柄、と言う事だろう。

 この時、李毛の脳裏に去来したのは、やはり大将軍の事である。の武人もまた、そういった気質の主だった。そしてその人柄に魅かれたが故に彼に忠誠を誓った。

 軍という機構は本来、兵になど多くの思考を求めない。序列の上位を維持し守る盾となる為にその身命しんめいする事こそが求められる。しかし大将軍はそれを嫌った。



 ――お前にも心と、自力で歩いてきた過去があるだろう。だったら自分の頭で考えろ。進むべき道とは、お前自身の足がみちびくものだ。生命の尊厳に対する主義ならば、尚更なおさらお前自身の価値観に従うべきだ。俺に命令されたからと、諾々だくだくと流されていいものじゃない。



 まっすぐに掛けられたあの言葉が、李毛の心臓に常にある。取りも直さず、それは常にの大将軍が李毛の命と共にあると言う事だ。

 光を失った両の眼で、誰よりも遠い国家の未来を見据えている。その大将軍から直々にこの護衛の任務を拝命した。李毛が受けぬはずもなかったのだ。



 時は弥生の末。

 この時李毛は――熊掌ゆうひ皐月さつきの半ばに帝壼宮へ帰還する事を知らずにいた。



 明けない闇夜の中、三騎はしゅうで馬をった。

 本来であれば瀛洲まで無事に送り届ける旨大将軍側より、仙山せんざんへ申し出てあったのだが、仙山側から、弟州東端から危坐州までは不要と返答した。これはかつて、寝棲ねすみ達が瀛洲へ潜入を試みた時に踏破とうはした道である。つまり危坐きざ州側の手が入っている。

 

 仙山と危坐の繋がりを知る者は多くない。

 

 てい州とほう州の境は当然囲いの届かぬ地であり、危坐の州長の娘が密かにその統括を行っている。本来であればこちらを通過する事が最善であったが、計画上こちらには沙璋璞さしょうはく達を通すため、む無く弟州内の通行の護衛を禁軍側に依頼したのである。はいごうもうが水泥を送り届けるのは、蒸州の東端から弟州の最西端のごうまでというごく短いものに限られた。

 今回彼等が共有するいくさは、正しく軌を一にする為の戦いであった。

 戦という物は、圧倒的に物量が多い陣営が勝つように出来ている。

 姮娥の総人口は凡そ五千万。

 内、禁軍で五百万、黄師で百万。

 臨赤の総数は二千万。その内訳は、まつろわぬ民で五百万。姮娥で一千五百万。内、兵として機能するものが五百万だ。

 仙山は七年前には二万あったものが一万五千に減じている。

 五邑全体は人口が三千弱。



 そして――妣國は二億だ。



 かつて夜見がこの圧倒的に兵力の異なる妣國に対して持ちこたえる事ができたのは、ひとえに彼等の大多数が国境を超える事が難しかったというその一点にしぼられる。

 国主たる伊弉冉いざなみとその息子素戔嗚すさのおは、伊弉諾いざなぎとの誓約うけいにて、彼岸と此岸を隔てる大岩――黄泉よみとの大神おおかみ、つまり「つき」のうち姮娥こうがが国土とする半球側――これが存在する限り、黄泉よもつ比良坂ひらさかを渡る事が出来ない。これこそがかつての国の国号の由来であった。

 禁軍中、大将軍の掌握下にあるのは現在四百五十万。黄師で九十万。この黄師の内六十万は瓊高臼の預かりである。つまり三十万が大将軍の下に入っている。


 畢竟ひっきょう、現状、げつじょえん沙璋璞さしょうはくの側についている兵は禁軍黄師合算して六十万しかないのだ。


 これに対する物が仙山に限られるのであれば、数の上では月朝の側に軍配が上がろう。しかし大将軍及び瓊高臼と、仙山の合算であればこれは容易に逆転する。かつ仙山とまつろわぬ民によって、臨赤、延いては危坐州が辛くも結ばれているという事実がある以上、危坐きざてい州以外の州に駐屯する兵を掻き集めた所で既に月朝の側に勝ち目はないのだ。

 無論、懸念事項は山積している。

 仙山と瓊高臼の黄師がくみしているのは事実だが、確かに一枚岩とは断言し難い。また大将軍は月桃げっとう大師長の推挙で禁軍に至った人物であるが、この両者間にも軋轢あつれきはあるという。

 かつ、死屍しし散華さんげという物が介在する事を忘れてはならない。

 散華さんげとうを有するのは、主として禁軍。黄師は一部に限られた。

 この内、最も散華刀の扱いにけるのが沙璋璞とその麾下きかである。禁軍最強の少数精鋭。つ、おのあるじに忠誠を誓う事比類なし。加えて彼等は蓬莱ほうらいの『かんばせ』に多く関りを持った。



 『かんばせ』の特性は『繁茂はんも』。

 これは死屍散華の量を文字通り際限なく増大させるのだ。







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軌を一にする――《「北史」崔鴻伝から。両輪の幅を同一にする意》国家が統一される。



参照https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%BB%8C%E3%82%92%E4%B8%80%E3%81%AB%E3%81%99%E3%82%8B/

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