十話
汚れた服を着替えてから、ヴァシルは特殊作戦部へとやってきた。前回の忙しそうな様子はなく、部屋はまた無人に戻っている。昼時なので、もしかしたら皆昼食に出ているのかもしれない。そんなことを思いながら、ヴァシルは奥の執務室へ向かおうとした。すると、近付く前に扉は静かに開き、中からミレスクが姿を現した。
「……君か! 今まで一体どこにいたんだ」
険しい表情で言われ、ヴァシルは謝るしかなかった。
「すみません……」
「一日に一度はここに来いと言ったはずだ。君の泊まる宿にも部下を行かせたんだぞ。まったく……どこで何をしていた」
「やつの、隠れ家へ行ってました」
「隠れ家? ラスカーを見つけたのか?」
ミレスクは驚いた声で聞く。
「見つけましたが……」
ヴァシルは言い淀んだ。エリエのことは、この仕事には関係なく、どこまで話そうかと迷ったのだ。この様子を見兼ねて、ミレスクは穏やかに言った。
「……座って話そう。待機命令は無視したが、とりあえず遊び呆けていたわけではないようだな」
二人は長机の席に、向かい合わせで座った。
「……それで、彼の隠れ家は、どうやって見つけたんだ」
組んだ両手の上に顎を乗せ、ミレスクは真剣な目で聞いた。
「以前行った、前線近くの森の奥に隠れ家はあって、場所は、仲間の女から聞きました」
これにミレスクは首をかしげる。
「仲間の、女? 君の仲間か?」
「いえ、やつのです」
ミレスクはさらに首をひねる。
「待て。……彼には、仲間がいるのか?」
「はい。前回ここに来た時に報告し忘れていたんですけど……そちらでは把握してないんですか?」
少し驚きながら聞くヴァシルに、ミレスクはゆるゆると首を横に振る。
「いや、初耳だ。仲間の存在は報告されていない」
今度はヴァシルが首をひねる。
「長い黒髪に、黒いドレス、真っ赤な口紅を付けて、あんなに場違いで目立つ姿なのに、誰も見てないんですか?」
「戦場でドレスだと? 何とも妙な格好だが……本当に彼の仲間なのか?」
「間違いじゃありません。やつはその女のことを、神と呼んで慕っていました。ただ――」
ヴァシルは眉間にしわを寄せる。
「やつは、あの女に、いいように使われているだけかもしれません」
「どういうことだ」
ミレスクを見つめながら、ヴァシルは話す。
「女は、幻を操る術を使うんです。それを使ったかはわかりませんけど、自信ありげに女は、やつの心は自分のものだと言ってました。俺が思うに、やつが人を殺すのは、慕う女の言うことを聞いているからじゃないかと思うんです」
聞いたミレスクは、しばらく宙を睨んで考える。
「仲間がいたというのも驚いたが、その女が幻を操るというのも、私には……少し信じられない」
少しどころか、到底信じられないという表情でミレスクは眉をひそめていた。
「俺もエリ――幻を見た時は、本物だと間違えるほどでした。でも女の作った幻だと知って……本当なんです。あの女は意のままに幻を操るんです」
ふうと息を吐き、ミレスクは背もたれに寄りかかる。
「祈祷師や占星術師は現在もいるが、幻術を操る者など、この時代にいるとは思えないが」
「じゃあ、昔はいたんですか?」
「古い歴史の中にはな。魔術、妖術をもって、敵兵を打ち負かしたという記述はあるが、眉唾物だと私は思っている。人にそんな力はない。我々が使えないことが何よりの証拠だ」
ミレスクは腕を組み、ヴァシルを見つめる。
「だが、君は嘘など言っていないのだろう。嘘をつくなら、もっと信じられやすい話にするはずだからな」
どうにか信じてもらうことができたようで、ヴァシルは安堵する。
「その幻術を使う女が、彼に指示を出して人々を手にかけていると……君はそう見ているわけか」
「はい。やつは女に心酔してます。望みを叶えてくれるとか言ってましたけど……」
「望み……ということは、やはり何か目的があっての凶行なのか……。彼の望みと引き替えに、その女は殺人をさせている――そういう見方もできるが……」
うーんと唸りながら、ミレスクは考え込んだ。もしこの考え通りだったら、やつが指示されて人殺しをしているのなら、すべての元凶はあの女から始まったことになる。やつの目的は自分の望みを叶えることだろう。では、女の目的は? やつの望みを叶えてやることだろうか。でも、そのために人殺しをさせる理由がわからない。そうすることで叶うような望みを、やつは持っているのか? 命を奪って、一体何をしたいというのか――ヴァシルも、まだ見えてこない答えに考え込んだ。
「……まあ、それはさておいて、目下の仕事は彼の捕縛だ。確証のない推測をする前に、それを果たせばすべて明らかになるはずだ。それと、仲間の女についても、他の者らに知らせておこう。情報が入れば、すぐに伝えさせる」
ミレスクは机の上で手を組む。
「次に、昨日入った情報によると、ここから北西の前線で、彼の姿が目撃された」
「北西、ですか」
ここから北西だと、隠れ家のある森からは大分離れている。その間に戦場はいくつかあるはずだが、それを越えてわざわざ遠い前線に現れたことに、ヴァシルはわずかに不審なものを感じた。それはミレスクも同じだったようで、考える素振りを見せながら言った。
「西方面に現れることはあっても、これほど離れた場所は今までにないことだ。ただ活動範囲を広げただけかもしれないが、何か考えての動きとも限らない。用心してくれ」
「でもそんなに遠いと、着くまでに日数がかかりすぎます。やつが移動する可能性も――」
「大丈夫だ。ちょうど明日、騎馬隊が前線へ出発する。……君は馬に乗れるか?」
「少しですけど、経験はあります」
農業用の馬だったが、一応乗ったことにはなるだろうと、ヴァシルは答えた。
「そうか。それならこちらで一頭馬を貸そう。騎馬隊に付いていけば前線の場所もわかるだろう。そこへは、すでに傭兵達が向かっている。早めに合流するんだ」
これにヴァシルは、まばたきをして聞いた。
「傭兵達って、まだ集まってなかったんじゃ……?」
「君が姿を消していた間に、三人の傭兵を雇った。君を待って向かわせるつもりだったが、結局現れず、仕方なく三人だけで向かわせた。皆君と同じくらいの若い傭兵だ。彼との戦い方を助言してやってくれ」
「わかりました……」
「伝えることは以上だ。何もなければ、明日の出発に備えてくれ」
椅子から立ち上がったミレスクは、奥の執務室へ戻ろうとする。
「あの!」
ヴァシルは慌てて呼び止めた。
「……何だ?」
「聞きたいことがあるんですけど……」
おずおずと聞くヴァシルに、ミレスクは体を向け直す。
「何を聞きたい?」
「ここでは、各地の住民の名前や住所を知ることはできますか?」
妙な質問に、ミレスクは怪訝な顔をする。
「国民の情報を持っているのは、また別の部署で、ここには一切ない。……誰かを捜しているのか?」
「はい……ある女性を捜しています。四年前に、この国に来た女性なんです。居場所を教えてもらうことはできますか?」
すがるような目で聞くヴァシルに、ミレスクは難しい表情で答える。
「個人的な要望で、そういうものを教えることは禁じられている。あくまで国のための情報なのだ。頼んだところで、おそらく追い返されるだけだろう」
「そう、なんですか……」
ヴァシルはがっくりと肩を落とした。
「……深刻なことでもあるのか?」
聞かれたヴァシルは一瞬迷ったが、ゆっくりと口を開いた。
「彼女の命が、危ないかもしれないんです」
穏やかでない言葉に、ミレスクの目が険しくなる。
「病か? それとも誰かに命を?」
「それは……」
ヴァシルは言い淀む。まさか仕事で追っている相手から脅されているなどと、簡単に言えることではなかった。その様子を察して、ミレスクは続けた。
「かなり深刻なようだな……。話のできる者が、内政部にいる。確実とは言えないし、時間もかかるだろうが、それでもいいのなら、私が頼んでみよう。どうだ?」
思わぬ申し出に、ヴァシルは目を見張る。
「そんなことしたら、あなたが……」
「ああ。知られれば罰を受けるだろう。だが、人の命がかかっているのなら、それも仕方ない」
ミレスクは真剣に、だが微笑んで言った。
「俺のために……ありがとうございます」
「その代わり、仕事のほうは頼むぞ」
ヴァシルはエリエに関することをすべて伝えると、ミレスクに見送られ、特殊作戦部を後にした。
エリエの居場所を教えてくれるかもしれないことは、ヴァシルにとっては当然嬉しいことではあったが、確実ではなく、時間もかかるということが、まだ不安を残していた。女が本気でエリエを傷付けるつもりなら、もう行動を起こしていてもおかしくないのだ。すでに手遅れになっているのでは――ヴァシルの中の焦りが、そんな思いをよぎらせる。だが、ラスカーの居場所がわかっていれば、女はその近くに必ずいるはず。手遅れでないことを祈りながら、今はラスカーと女を追うことに、ヴァシルは集中するしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます