九話

 踏み込んだ森の中は、以前と何も変わっていない。大小の緑が覆い、足場は悪い。頭上から差し込んでくる日の光は幻想的にも見えるが、今のヴァシルにそんなことを感じる余裕はなかった。


「……これか」


 入り口から進んだすぐ足下に、豆粒ほどの小さな赤い実がこんもりと積まれていた。そこから森の奥へ向かって、点々と赤い実が落ちているのが見えた。女が言っていた目印はこれに違いない。ヴァシルはその赤い実の列を追って、奥へと歩いていった。


 目印は木や石の上など、わかりやすい場所に置いてあったが、大半は足下の雑草が邪魔をして、見つけるのにも一苦労だった。それに加え、段差も多いせいで、三十分しか歩いていないのに、ヴァシルはすでに肩で息をしている状態だった。


「確かに、隠れ家には、打って付けの、場所だ……」


 こんな険しい森に、奥まで入ってみようと思う人間は少ないだろう。ヴァシルも、あとどれくらい歩かなければいけないのかと、もう嫌気が差しているくらいだ。頭上から聞こえてくる鳥達のさえずりが、少し羨ましくも思える。時折足を休めながら、それでもヴァシルは自分を奮い立たせ、少しずつ前に進んでいった。


 それから一時間ほど歩き続け、かなり奥まで進んでいた。ここまで来ると森の空気はひんやりと冷たかった。周囲の緑が濃くなり、日が差し込まないせいで、ここは入り口付近よりも温度が低いらしい。ヴァシルにとっては、体の無駄な熱を冷ませて、丁度いい温度ではあった。だが足場の悪さは変わらず、体力は削られる一方だった。


「……ん、あれは……」


 ヴァシルは足を止めた。太い木々の間の先に、開けたように明るい空間が見えた。そこには石で造られた壁のようなものが見える。すぐにヴァシルは木陰に隠れ、その壁が見える位置から様子をうかがう。


「……誰も、いないのか?」


 しばらく見ていても人影は現れず、耳を澄ましても物音は聞こえてこない。仕方なくヴァシルは慎重に近付いてみる。


 ここにだけ筋のように日が差し込むその下には、石を敷き詰めた床が広がっていた。端には模様の彫られた柱や、石を積んだ壁があったが、ほとんどが崩れてしまったのか、わずかな瓦礫を残しているだけで、どれも雑草や苔、つたに覆われ、長い時間が経っていることがうかがえる。見れば、石の床や壁はここだけではなく、さらに奥にも連なっていて、同じように崩れてはいるが、一応建物の形をとどめているものもあり、ヴァシルは足音を立てず、静かに進んでいった。


 民家と言うよりは、遺跡と言ったほうが似合いそうな建物群は思った以上に多くあり、ラスカーの姿を求めて、ヴァシルは一つ一つ捜していく。気付けば、目印の赤い実はすでに途切れており、目的地の隠れ家がここだと示している。どこかにラスカーはいる――ヴァシルは腰の剣に手を置きながら、慎重に歩を進める。


 ふと足を止め、ヴァシルは息を殺した。人の気配を感じて、苔だらけの石壁に身を寄せる。少しずつ足を動かしながら、その建物の中をのぞいてみる。


「!」


 見えたのは、狭い部屋の隅に座って眠るラスカーの姿だった。片膝を立て、うつむいた顔に長い髪がかかったまま眠っている。傍らにはむき出しの剣が置いてあった。手を伸ばせばすぐにも取れる距離だ。眠っているうちに奪えば……いや、今なら仕留めることもできてしまう。だがしかしとヴァシルはためらう。本当に、このまま殺してしまっていいのだろうか。殺せば、この男の狂気の理由を知ることはできなくなる。そもそもここへは、ラスカーを殺しに来たのでも、捕まえに来たのでもない。ヴァシルは一か八かの一計のために来たのだった。それを成功させ、エリエの身の安全をひとまず得ようと考えていたのだが、あまりに無防備な敵の姿を前に、ヴァシルの動きはわずかに迷いを見せた。


 時間にすれば、ほんの五、六秒の迷いだった。まだ眠っているものと思っていたラスカーの両目が、不意に薄く開けられたのを見て、焦ったヴァシルは反射的に剣を抜いていた。その音と動きは、完全にラスカーの頭を覚醒させてしまった。


「……お前か」


 低い声で言った直後、ラスカーの目付きが変わったと同時に、その手は傍らの剣を素早くつかんだ。切りかかってくると思い、ヴァシルは身構えたが、向かって来たのは剣だけだった。


「はっ――」


 槍のように飛んできた剣を、ヴァシルはぎりぎりで避ける。その拍子に膝を付き、体勢が崩れる。ラスカーの投げた剣は近くの柱に当たり、カランと音を立てて石床に落ちた。急いで立ち上がったヴァシルは、その剣を取りに行くこともできたが、そうせずに剣を構え直してラスカーが出てくるのを待った。


 革のブーツが見え、ラスカーはすぐに出てきた。ヴァシルをいちべつすると、落ち着いた様子で落ちた剣を拾い上げる。


「お前を、殺していいそうだ」


 ラスカーの口の端がわずかに上がる。ヴァシルはこわばった表情で返した。


「ああ……俺を、殺してみろ」


 言ったヴァシルを、ラスカーは無表情で見つめる。


「言葉とは逆に、不安そうな顔だ。……せいぜい抵抗するんだな!」


 ラスカーが切りかかる。ヴァシルは攻撃を受け止めながら口を開く。


「俺を殺すのは、あの女の命令か」


「そうだ」


「じゃあお前は……あの女に命令されて、人を殺してきたのか」


 ガキンッと硬い音を響かせ、お互いの剣がぶつかる。弾かれたヴァシルは、ラスカーとの間合いを取り、その顔を睨んだ。


「命令……少し違うな。俺は、俺の意志で殺している」


 真剣な表情でラスカーは言う。


「意志があるなら、何で女の言うことを聞く? まさか、お前も俺みたいに脅されて――」


「脅す? おかしなことを言う。俺は、彼女のおかげで意志を持てたんだ」


 どういうことなのか、ヴァシルがわからない顔を見せると、ラスカーは続けた。


「彼女は、俺の望みを叶えてくれる……神だ」


 恍惚とした表情を浮かべるラスカーを見て、ヴァシルはそこに再び狂気を感じると共に、ある推測をした。


「あの女に、惚れてるのか……?」


 これにラスカーは眉をひそめた。


「彼女は、そんな次元の存在ではない」


「それなら、あの女は何者だ。本当に人間なのか?」


「どうでもいいことだ。俺は、彼女が与えてくれた意志に従うだけ……話は終わりだ。もう覚悟はいいか?」


「待て。あの女は――」


「黙れ!」


 ラスカーが襲いかかってくる。女についてまだ聞きたかったヴァシルは、小さく舌打ちをして迎え撃つしかなかった。相変わらずラスカーの力は強く、剣での押し合いでは押されてしまう。だが今回に限っては、これは好都合ではあった。広い建物の間を逃げ回りながら攻撃を繰り返し、その時を見せる間合いを探る。あまり不自然に見えないよう、逃げ腰になりすぎず、適度に剣を振る。そして、いい攻撃が来るのをひたすら待ち続ける――傍から見れば、二人はいい勝負をしているように見えたが、当のラスカーは、以前闘ったヴァシルとは何かが違うと勘付いていた。


「やけに動きが鈍い……おじけたか?」


 内心焦ったヴァシルだったが、顔には出さず、ラスカーを睨み付けた。


「お前の攻撃を見てただけだ。大したものじゃなくて安心した」


「余裕だな……いい度胸だ!」


 ラスカーは剣を思い切り振り下ろす。大振りの攻撃をヴァシルはすぐに避けると、剣は石床を叩き、砕き割った。すかさずヴァシルは剣を横薙ぎに振る。気付いたラスカーは後ろへ飛び退き、かわす。返す刀でヴァシルはなおも切りかかる。だがその勢いは弱い。それをラスカーは見逃さなかった。


「ふんっ!」


 自分に向かってくる剣を簡単に弾くと、ヴァシルの腕も上へ弾かれる。正面ががら空きになったのを見て、ラスカーはそこへ目がけて剣を振り下ろす。ここだ――ヴァシルは胸の中で叫んだ。間合いも、剣の入ってくる角度も、望み通りのものだった。あとは後ろへ体を引いていけばいい……。


 逃げようとしたヴァシルの腹に、重い衝撃が走る。その直後、ラスカーの剣で切り裂かれた服の下からは、赤黒い鮮血が吹き出した。飛沫が舞う中で、ヴァシルは目を見開きながら切られた腹を手で押さえる。その向かいで、ラスカーはにやりと笑みをこぼした。


「……ううっ……」


 うめき声を漏らしながら、ヴァシルは握っていた剣を落とし、次には地面に倒れ込んだ。うつ伏せになりながら、懸命に血まみれの腹を押さえる。やがて全身から力を抜くと、ヴァシルはゆっくりと目を閉じた。


 見下ろしていたラスカーは、広がった血だまりも気にせず近付くと、うつ伏せのヴァシルの肩を足で蹴り、仰向けに転がせる。しかし、そのすぐ横には、ちょうど階段があって、ヴァシルは仰向けにされた途端、その階段をごろごろと転がり落ちていった。十段ほどの階段に血の跡を付けながら、落ちたヴァシルは再び仰向けで止まる。その顔は苦痛に歪んだままで、自分の血で染まった体は、もうぴくりとも動かなかった。


「……ふん」


 階段の上から、倒れて動かないヴァシルを見下ろして、ラスカーはつまらなそうに鼻を鳴らすと、静かにその場を立ち去っていった。石床を歩く靴音が、次第に遠ざかっていく。それが完全に聞こえなくなると、周囲は元の静けさを取り戻した。


 仰向けに倒れたままのヴァシルは、ごく浅い呼吸をしながら、恐る恐る薄目を開ける。自分に覆いかぶさるように茂った樹木の葉が見え、そこから視線をゆっくりと横へ向けた。転がり落ちてきた階段があり、その上を見上げる――人影はない。それを確認して、ヴァシルはやっと安堵の息を吐いた。


「上手く、いったか……」


 上半身を起こすと、自分の腹を見下ろす。切られた部分を中心に、どす黒い血がべったりと付いていて、それはズボンにまで流れている。染み込んだ血が足の付け根にまとわり付き、どうにも気持ち悪い。


「……それにしても、生臭いな」


 眉間にしわを寄せながら立ち上がったヴァシルは、両手に付いた血も見る。てらてらと光る表面に鼻を近付けると、すでに漂っている臭いよりも、さらに強い獣臭がした。


「動物の血って、こんなに臭うのか……」


 顔をしかめると、ヴァシルは両手を服の裾でごしごしと拭う。そして腹の部分の裾をめくり上げると、紐で胴にくくり付けていた革袋と鉄板を取り外し、地面に落とした。山羊の血が入っていた革袋は見事に切り裂かれている。鉄板も、よく見れば線状の傷が薄く付いていた。それを見てヴァシルは、今になってひやりとするものを感じた。


「やつの剣が、なまくらで助かった……」


 鉄板は手の厚さほどもなく、力を加えれば曲がってしまう薄さだ。動きやすさを重視した選択だったが、もしラスカーの剣が鋭い刃を持っていたら、こんな鉄板は何の意味も持たなかったかもしれない。そこに起きた小さな幸運を思いながら、ヴァシルは自分を守ってくれた鉄板に手を伸ばし、その働きをねぎらうように軽く叩いた。


 一か八かのヴァシルの一計――死んだふりは、思い通りに成功した。ラスカーがヴァシルを仕留めたと思い込めば、女の言う約束を守ったことになり、ひとまずエリエを守ることができる。だが、あくまでひとまずだ。女がエリエに絶対に手を出さない保証はないのだ。できるだけ早くエリエの居場所を見つけ出し、彼女を安全な場所に移すことが次の目的となる。こうなると、もう仕事は二の次になってしまう。死んだと思い込ませるには、ヴァシルはラスカーの前に姿を現すわけにはいかない。報酬は惜しいが、それよりもエリエの命のほうが断然に重要だった。ミレスクの渋い顔が目に浮かぶが、エリエへの気持ちが残るヴァシルには、彼女を放っておくことは、とてもできないことだった。


 正念場はここから――ヴァシルは安堵した気を引き締め直すと、階段を上がり、落とした剣を鞘に収めて、来た道を戻ろうと歩き始めた。


 すると背後で、どさっという音が聞こえて、ヴァシルは振り返った。見ると石床の上に、見覚えのある布袋が一つ、ぽつんと置かれていた。ヴァシルは思わず息を呑む。


「着替えが必要でしょ? 持ってきてあげたわ」


 視線を巡らすと、ヴァシルの横の石壁の上に、いつの間にか女が腰をかけてこちらを見下ろしていた。


「……いつからそこに……」


 驚くヴァシルに、女は微笑みながら壁を飛び降りる。


「持ってきてあげたのに、お礼は言ってくれないの?」


 流し目を送りながら、女は布袋を手に取ると、ヴァシルに投げてよこす。それを受け止めたヴァシルは、呆然とその布袋を見つめた。これは間違いなくヴァシルが用意したものだった。血で汚れることを見越して、森の入り口に隠して置いてきた着替えだ。すぐに服を着替えて、エリエを捜しに行けるように用意したものだったが――


「何で、お前が……」


「早く着替えたいんじゃないかと思って」


 女は顎に手を当て、くすくすと笑う。


「俺を、ずっとつけてたのか?」


「あなたは面白い人だもの。ずっと見ていたいと思うのは普通でしょ? ふふっ」


 目を細めた女は、不敵な笑みを見せる。呆然とするヴァシルの目は泳いでいた。すべてを、見られていた。成功したと思ったことは、これで一気に崩れてしまった――焦りに呑み込まれたヴァシルの思考は、完全に止まっていた。


「でも、死んだふりなんて、考えたものね」


 女は楽しげに言う。


「血まで仕込んで……彼女のことになると、本当に必死ね」


「エリエには――」


「何を言っているの? あなたは約束を無視したどころか、私をあざむこうとしたのよ? それって自業自得だと思わない?」


 笑っていた女の目が冷たいものに変わる。


「彼女には、約束を破った罰を受けてもらうわ」


 これにヴァシルは怒鳴った。


「エリエに何かしたら、俺がお前を殺してやる!」


「どうぞ、殺しに来て。本当にできるのならね……」


 ぞくりとするような眼差しがヴァシルを射る。これに怯んではいけないと、ヴァシルは続けた。


「お前こそ、本当にエリエを知ってるのか? 口だけで俺を脅して――」


「ヴァシル」


 穏やかな声に呼ばれ、ヴァシルは顔を振り向かせる。


「痛いの……私、体中が痛い……」


 そこには、以前に見た傷だらけのエリエが立っていた。血を流し、苦しむ表情でヴァシルに助けを求めてくる。その姿に、ヴァシルは唇を噛んだ。


「……いい加減に……」


「こんな彼女を、あなたは見たいのかしら?」


 得意げに言う女を、ヴァシルは睨み付ける。


「こんなふうに……やつも、脅してるのか?」


 女は首をかしげる。


「人聞きの悪い言い方ね……」


「脅して、人殺しをさせてるんだろ!」


 口角を上げ、女は微笑む。


「私は脅していないし、彼も脅されたとは思っていないはずよ。だって、彼の心は、もう私のものだもの。ふふっ……」


 彼女は、神だ――ラスカーが発した言葉は、この女のたくらみ通りなのだろう。妙な術を操り、それでラスカーの心を引き留め、意のままに動かしている……。この女が望みを叶える神なわけがない。人の姿をした狡猾な悪魔、ヴァシルにはそうとしか思えなかった。


「やつを使って、何をするつもりだ」


「何も……」


 ヴァシルを見つめながら、女はにやりと笑う。


「随分と私に興味を持ってくれたのね。そんなに私のことが知りたい?」


 女が色めかしい目付きで近付いてくるのを見て、ヴァシルは素早く剣を抜くと、真っすぐ女へ向けて威嚇した。


「俺に近付くな!」


 大声で言うが、女はまったく意に介さない。


「こんなもの、私には無意味よ。ふふっ……」


 自分に向けられた剣の先を、女は人差し指で軽く撫でると、上目遣いにヴァシルを見据えた。


「次にあなたと会う時、彼女はきっとひどい目に遭うわよ。今から楽しみに待っていてね」


「お前は……!」


 憤ったヴァシルは、向けた剣をそのまま女の腕目がけ突いた。が、女は見た目からは想像できない、素早い身のこなしで飛びすさると、ヴァシルとの距離を大きく開けた。


「私も、楽しみにしているわ。それじゃ、またね……」


 言うと女は、建物の間へと姿を消す。


「待て!」


 ヴァシルはすぐに追い、女の消えた道に入るが、その先に人影はない。辺りを捜し回っても、すでに女の姿は消え去っていた。


「……くそっ」


 悔しがるヴァシルは、石壁に寄りかかって天を仰ぐ。ぎりぎりと奥歯を噛みながら、女の残した言葉を反芻する。


「……落ち着け。落ち着いて考えろ……」


 女が本当にエリエを傷付けるつもりなら、もうヴァシルには彼女を捜し出す時間は残されていないだろう。だがもし、女の言ったことが、口だけの脅しだったら? これでもてあそばれているのだとしたら――二つの可能性に、ヴァシルは頭を悩ませた。自分はどうすべきか。いち早くエリエを見つけるべきか、それとも女の行方を追うべきか……。どちらにせよ、むやみに捜し回っても、簡単には見つけられるとは思えない。やはり何かしらの情報が必要に思えた。


 ヴァシルは剣を腰に戻すと、焦る気持ちを抑えながら森の中を引き返した。じたばたしたって何も得られない。ここは冷静に、一度ミレスクの元へ戻り、新しい情報を得ようとヴァシルは考えたのだった。しかしその胸には、抱えきれないほどの不安が募っていた。

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