十一話

 馬での移動のおかげで、情報のあった前線へは数日で到着できたヴァシルは、短い休息を挟んだだけで、すぐに戦いのまっただ中へ身を投じた。敵味方が入り乱れる戦場を、まずは先に来ているはずの傭兵と合流するため、剣を片手に捜し回る。


 味方の兵士によれば、ラスカーが目撃されたのは西側だと聞かされ、それを知っているはずの傭兵達もそちらへ行っているだろうと、ヴァシルは敵兵を蹴散らしながら一直線に西側の戦場へと駆け抜けた。


「……あれは」


 木も草も生えていない、土だけのだだっ広い荒野。その先に、悲鳴や怒号が飛び交う兵士の集団があった。姿を見る限り、自軍の兵士のようだった。


「うああああ――」


「こいつをやって、名をあげろ!」


「逃がさねえ。仲間の仇!」


 様々な声が聞こえたが、その中央にいる人物を確信したヴァシルは、邪魔な兵士を手でのけながら、見えない中心に割って入った。


「うっ――」


 そこにいたのは、傷だらけで劣勢に追い込まれている若い男と、それに襲いかかろうとしているラスカーの二人だった。若い男は膝を地面に付き、うめき声を漏らしている。周りの兵士とは違う格好で、彼が先に来ている傭兵に違いなかった。すでに戦意をそがれ、もう戦えるとは思えない。そんな相手に、ラスカーは容赦なく剣を振り上げた。


「くそっ――」


 ヴァシルの体は咄嗟に反応し、若い男の前に飛び出すと、ラスカーの強い一撃を剣で受け止めていた。ガンッと重い音が響き渡り、周りで見ている兵士達がどよめく。


「……お前! なぜここに……」


 至近距離のラスカーの目が驚きに見開く。どうやらヴァシルが生きていることを、女からは聞いていないらしい。そんな顔を睨み付けながら、ヴァシルは背後の若い男に声をかける。


「動けるなら、早く行け!」


「す、すまない……」


 ヴァシルとあまり歳が変わらない傭兵は、ふらつきながらもどうにか立ち上がり、歩き出す。その去り際にヴァシルは聞いた。


「他の二人はどこだ」


「あいつらは、もう……」


 それだけ言うと、傷だらけの傭兵は、兵士に脇を抱えられながら後ろへ下がっていった。


「ふん……死にぞこないが!」


 ラスカーは体ごと剣で押すと、ヴァシルの体勢を崩そうとする。させるかとヴァシルはこらえようとするが、次には思い切り弾き飛ばされた。そのせいで尻もちをつき、無防備になる。そこへラスカーは剣を向けた。


「今度こそ死ね――」


「うおお!」


 雄叫びと共に横から兵士が突っ込んできたのを見て、ラスカーはそちらへ意識が向く。


「立て。一人じゃ無理だ」


 ふと見ると、ヴァシルの周りには兵士達が集まっていた。手を借り、立ち上がったヴァシルに、一人の兵士が言う。


「俺達も一緒に戦う。やつは強すぎる。仲間がいなきゃやれない」


 見れば、ラスカーに立ち向かおうと、何人もの兵士が剣を構えて待っていた。切りかかっていった兵士も、必死に剣を振って戦っている。


「皆、行くぞ!」


 号令をかけると、兵士達は仲間を助けにラスカーへ向かっていく。


「とりゃあ!」


「でええい!」


 それぞれ気合いの声を上げながら、ためらうことなく切りかかる。それはヴァシルには頼もしい光景だった。これだけいれば、ラスカーを止められる――しかし、そう思ったのもつかの間だった。


「来い……もっと来い!」


 束になってかかっても、ラスカーは怯むどころか、逆に士気が上がっているようだった。追い込まれたことで興奮状態になり、その動きにはどんどん磨きがかかっていく。


「がはっ……」


 兵士の苦しい声が響いた。勇敢に切りかかっていった者は、ことごとくラスカーの剣に切り伏せられていく。


「怯むな! 俺達でやるんだ!」


「仇を取れ!」


 兵士達に逃げる気はないらしい。それほどラスカーに対して憎しみがあるのかもしれない。しかし、敵の動きは凄まじかった。多数を相手にしても勢いは衰えず、まるで一人で五人分の働きをしているようだった。連続する攻撃をかわしつつ、隙があれば的確に仕留めにかかる。冷静な目を持ちながら、縦横無尽に暴れまわる姿は、やはり獰猛な獣を思わせた。


 返り血で汚れた顔を歪ませ、ラスカーは自分を取り囲む兵士達に凄みを利かせる。


「……もう、おしまいか?」


 地面に倒れる仲間を前に、兵士達は二の足を踏み始める。さっきまでの気概は、瞬く間に恐怖に呑み込まれようとしていた。それを止めようと、ヴァシルは前に出る。


「ラスカー……あの女はどこだ!」


 剣を構え、大声で聞くヴァシルを、ラスカーは見据える。


「……言え!」


 迫るヴァシルにラスカーは何も答えず、ただ鼻を鳴らすと、急に走り出し、切り込んできた。


「くっ――」


 振った剣で弾くが、それだけでもヴァシルの体はよろめく。


「女の、居場所を、言え!」


 攻撃をしながら、ヴァシルは叫ぶように聞く。だがラスカーは口を開こうとはしない。お互いの剣がぶつかり、鍔迫り合いになると、二人の鋭い視線が合わさる。


「あの女は、危険だ。きっとお前も――」


「うるさいやつめ……切り裂いて黙らせてやろう!」


「うぐっ――」


 突然腹に衝撃を感じ、ヴァシルは後ずさる。ラスカーが膝蹴りを入れたのだ。


「危ない!」


 兵士の一人が叫んだ。その声に顔を上げたヴァシルの目の前には、振り下ろされようとしているラスカーの剣先があった。間に合わない――そう思いながらも、ヴァシルは咄嗟に首をそらせたが、硬い刃はヴァシルの左頬をなぞり、深い傷を刻んでいった。痛みが走り、思わずその傷を手で覆う。生温かいものに触れ、それが指の間を流れていくのがわかった。


 痛みに表情を歪ませるヴァシルに、ラスカーは攻撃を続ける。振り回される剣をどうにかかわすが、反撃の隙が見つからない。どんどん追い込まれていく自分に、ヴァシルの焦りは増す。


「……くっ、そお!」


 逃げる選択肢はない。もう強引に出るしかなかった。ラスカーの攻撃を中途半端に弾くと、ヴァシルは無理な体勢のまま、剣を振る。だが、それはラスカーにとっては、攻撃とは呼べないものだった。力の入っていないヴァシルの剣は、ラスカーにあっさり弾き返されると、ぐらりとその体勢を崩され、半身の状態になった。正面に現れた肩目がけ、ラスカーは迷いなくそこへ剣を振り下ろした。


「ぐっ……!」


 息が止まりそうなほどの痛みに、ヴァシルは目を剥く。左の肩から二の腕にかけ、強烈な痛みと熱さが襲った。幸い利き腕ではなく、まだ剣を握ることはできたが、体を動かすたびに全身に痛みが回るようで、思うように剣を振ることができない。見れば、ラスカーは獲物を追い詰めた獣のように、ぎらぎらとした目でヴァシルを見ていた。まだ自分は、戦えるのだろうか――ヴァシルがそう思った時だった。


 ラスカーの目がわずかに細められると、向かってくると思っていたその足は突然踵を返し、兵士達の間をすり抜けて遠ざかっていった。その場にいた者は、全員ただ呆然とその後ろ姿を見送る。ヴァシルも、自分を仕留める絶好の機会だったのに、なぜとどめを刺さなかったのか、疑問に感じるしかなかった。


「深追いはするな。早く怪我人を運べ!」


 その声に我に返った兵士達は、倒れる仲間に駆け寄っていく。


「あんたも、一度退いたほうがいい」


 一人の兵士がヴァシルに駆け寄り、傷の様子を見て言った。ラスカーを逃し、女の居場所も聞き出せなかったが、命拾いはしたのかもしれない。緊張の糸が切れたヴァシルは、強まる痛みに脂汗を滲ませながら、やってきた衛生兵に連れられ、他の怪我人と共に自陣へと引き返した。


 衛生兵が連れてきたのは、木造の小さな民家が並び立つ村のような場所だった。開け放たれた家の中では、包帯を巻かれた何人もの兵士が手当てを受けている。家の外にも簡易のベッドを並べ、傷付いた兵士を寝かせている。


「……ここは?」


 ヴァシルは隣を歩く衛生兵に聞いた。


「普通の村だよ。村長が協力したいと申し出てくれて、それで一時的に負傷兵を収容してもらってるんだ」


 よく見れば、軍の制服を着ていない、普通の格好をした者も看護をしている。ここの住人だろう。


「じゃあ、ここで治療をしてもらって」


 言われて入った民家は、他の家よりもかなり大きく、部屋も広い。二階建てで、階段を慌ただしく駆け上がる衛生兵の姿が見えた。おそらく二階にも負傷兵がいるのだろう。


「さあ、傷を見せて」


 居間と思われる一階の部屋には、数人の軍医がいて、それぞれ兵士を治療していた。その中の軍医の一人が、ヴァシルに手招きをしながら呼ぶ。


「……君は傭兵か? なかなか深い傷を受けたな」


 椅子に座ったヴァシルの傷を見ながら、軍医は傍らの道具箱をあさる。


「染みるぞ」


 そう言うと軍医は、ヴァシルの頬と左肩の傷に、瓶に入った消毒液を無造作にかける。何かで刺されたような鋭い痛みが走るが、どうにか声を抑え、こらえる。


「どっちも深い傷だ。縫う他ないが――」


 軍医は流れた消毒液を拭きながら言う。


「今、麻酔薬が足りなくてね。もっと重傷の者にしか使えないんだ。悪いがこのまま縫わせてもらうよ」


 え、と目を丸くするヴァシルには構わず、軍医は縫合の用意をてきぱきと始めた。


「痛むが、辛抱してくれ……」


 ヴァシルの体をぐいと引き寄せると、まずは左肩の傷を縫い始めた。糸の付いた針が刺され、ちくりと痛む。その様子を見下ろしていたヴァシルだったが、自分の皮膚に糸が通される違和感に、思わず顔をそむけた。


 痛みに耐えること十分、左肩の傷が縫い終わると、次は頬の傷を同じ要領で縫っていく。うめきそうになりながらも、二つの傷の縫合は無事に終わった。


「腫れと痛みが引くまでは、あまり動き回らないように。傷が塞がらないからな。よくなってきたら、医師に抜糸してもらってくれ。……次、傷を見せて」


 治療を終えたヴァシルは急き立てられるように椅子から立つと、待っていた負傷兵と入れ替わりに民家を出た。


 とぼとぼと歩きながら、ヴァシルは頬の傷に触れてみる。腫れて熱を持ったそこは糸で縫われて、でこぼこした感触に変わっていた。その奥にはじんじんとする痛みが残っている。これからどうしようか――ヴァシルは考える。あの二人を捜して動き回れば、また傷が開いてしまうかもしれない。だからと言って悠長に休んでいる時間もない。でも、こんな状態ではラスカーと戦えるとは思えない……。


 悩ましい現状に、大きく溜息を吐いたヴァシルは、喉の渇きを感じて、とりあえず水を飲もうと村の中を歩き始める。のぞいた民家の中は、どこも負傷兵が横たわり、衛生兵が看護で忙しそうにしている。水が飲める場所を聞くのもはばかられ、ヴァシルは仕方なく一人で探し回る。


 ふらふらと歩き回っていると、水の入ったバケツを持って走る住人とすれ違った。それを見て、もしかしてと思ったヴァシルは、その住人の走ってきたほうへと向かった。


「……やっぱり」


 村の外れ、木々に囲まれた中に、丸い井戸はあった。ヴァシルは早速その井戸のつるべで水を汲み上げ、思う存分に水を飲む。汗をかいて乾いた体に、冷たい水が染み渡るのを感じた。ついでに手や顔も洗い、気分だけでもさっぱりとさせる。ふうと一息吐き、井戸の縁に腰をかける。見上げた空はどこまでも青く、太陽の光は頭上の枝葉を輝かせている。どこかから聞こえる鳥の声を聞いていると、今自分が戦争のただ中にいることを忘れてしまいそうなくらい、ここにはのどかな時間が流れていた。


 だが現実に振り返れば、時間は途端に速く動き出す。自分はどうするべきか。傷など気にせず、やはり捜しに向かうべきか――ヴァシルが思案している時だった。


「あの、水を汲んでもいいですか?」


 声をかけられ、ヴァシルは目を向ける。少し離れた真横に、バケツを提げた若い女性が立っていた。自分が井戸の縁に座り、邪魔になっているのだと気付き、慌てて井戸から離れる。


「すみません……どうぞ」


 場所を譲ったヴァシルだが、女性はなぜか井戸ではなく、ヴァシルを見つめていた。その視線に気付いて、ヴァシルも女性のほうを見る。細い体に白い肌、一つに結われた金色の長い髪、そして大きく丸い橙色の瞳――この姿にヴァシルは息を呑んだ。知っている。自分はこの女性を知っている。間違いなどではないと確信できた。四年前に別れたきりの、捜し求めていた女性――


「……エリエ?」


「ヴァシル?」


 二人の声は、ほぼ同時に聞こえた。そしてお互いが驚きに目を見開いていた。


「本当なのか? まさか、こんなところで……」


「嘘みたい……信じられない……」


 感極まったのか、エリエの目には光るものが見えた。たった四年しか経っていないが、声も姿も、その表情も、幼い少女から女性のものへと変わっていた。そこには見ることのできなかった、彼女の時間が刻まれている。ヴァシルの知らない、大人になったエリエの姿――


 ヴァシルは無意識に手を伸ばすと、エリエの細い体を思い切り抱き締めていた。


「ヴァシル……!」


 驚いたエリエは、その拍子に持っていたバケツを落とし、苦しげにヴァシルの胸を押すが、それが無理だとわかると、ゆっくりその背中に両手を回した。


「俺が、どんなに会いたかったか、わかるか?」


「……うん。私も、同じだったから」


 この答えに、ヴァシルはエリエの顔をのぞき込む。


「俺のこと、忘れてなかったのか?」


 エリエは微笑む。


「忘れたい理由がなかったから。……背、伸びたんだね。昔は同じくらいだったのに」


 言ってエリエはヴァシルの頭を撫でる。


「エリエも……髪、長くなったな」


「長い髪が好きだって言ってくれたから、ずっとこうして、ね」


 照れたように言うエリエを、ヴァシルはじっと見つめた。その目と合って、顔を赤くしたエリエは、強引にヴァシルの腕の中から抜け出す。


「いろいろ、話したい……これまでの、話したいことがいっぱいあるの」


「……ああ、俺もだ。エリエに話さないといけないことがある」


 二人はすぐ側の木陰に入ると、寄り添うように並んで腰を下ろした。頭上から日が当たり、お互いの表情を明るく照らす。


「水汲みはいいのか? 誰かに頼まれたんじゃ――」


「ううん。洗濯しようと思って、自分で汲みに来ただけだから。また明日でもいい」


 膝を抱え、にこにこと笑うエリエは、やはり大人になっても美しかった。その顔に見惚れているヴァシルに、エリエは聞く。


「ヴァシルは今、何をしてるの? 剣を持ってるから、軍の兵士?」


「兵士じゃなくて、傭兵だよ。今はこっちの軍に雇われてて……」


 これにエリエの表情が心配そうに歪む。


「その痛そうな頬の傷は……何か、危険な仕事をやらされてるの?」


「危険、なんだろうな、多分……」


 ラスカーと女の姿を思い出し、ヴァシルは真剣な顔でエリエと向き合う。


「聞きたいことがある。ここに、黒いドレスを着た女が来たことはあるか?」


 エリエは首をかしげる。


「黒いドレス? 貴族の人がこんな小さな村に来ることは――」


「違うんだ。貴族じゃなくて……黒髪に、赤い口紅を付けた女で……」


 エリエは宙を見つめて記憶を探る。


「……村人以外の人が来れば、絶対にわかると思うけど、そういう女性は見てないと思う。でもいつだったか、知らない男性なら見たけど――」


「男? どんなやつだった?」


「背の高い、黒髪で、整った顔の人だった。周りの女の子達は色めき立ってたけど、ただの通りすがりだったみたいで、すぐに村を出ていった」


 黒髪では、ラスカーではないだろう。彼は茶色の髪だ。まだ女はエリエの元にたどり着いていない。そうわかってヴァシルは安堵する。


「その女性が、どうかしたの?」


 小首をかしげて聞くエリエの肩をつかみ、ヴァシルは言う。


「よくわからないだろうけど、黙って聞いてほしい。エリエは今、その女に狙われてるんだ。あいつはエリエを傷付けようとしてる」


 案の定、エリエは怪訝な表情を浮かべた。


「私が狙われてるって……どうして……?」


 ヴァシルは唇を噛む。


「俺の……せいなんだ。俺がエリエを危険にさらした。だから、俺が絶対に守る」


 力強く言うヴァシルだったが、エリエに浮かんだ不安は消えない。


「どういうこと? 私、殺されるの……?」


 訳がわからないという顔で見つめてくるエリエを、ヴァシルは抱き寄せた。


「最後まで俺が守るから、エリエは心配いらない」


「ヴァシルのこと……信じていいの?」


 耳元でエリエの弱々しい声が聞く。


「信じてほしい。俺を……」


 ヴァシルは細い腰に回した両手を、さらに強く引き寄せる。と、そこに冷たい感触を感じて、ヴァシルは視線を移す。見ると、エリエのスカートの腰の部分に、小ぶりのナイフが差し込まれていた。灰色にくすんだ、少し古めかしいナイフ。男が持っているならまだわかるが、女のエリエがこうして持っているのは、ヴァシルには珍しく思えた。


 顔を上げたエリエは、照れた様子で笑顔を浮かべた。


「ヴァシルに守られるなんて、何だか嬉しい。ふふっ……」


 エリエの何気ない笑い声だった。しかし、ヴァシルはそれに身を固まらせ、彼女の顔を凝視した。脳裏に、あの妖しく笑う姿が浮かんだのだ。


「……ヴァシル?」


 エリエは不思議そうに見上げてくる。


 嫌な予感がヴァシルの中にはあった。今の笑い声、いや、笑い方は、すでに聞き覚えのあるものだった。幾度も自分に向けられた軽い笑い方。あの女の表情と共によぎった記憶は、今のエリエの笑い方とよく似ている――あり得ないとヴァシルは思いたかった。触れた感触は確かにあって、エリエは大人になって目の前にいる。だが、それも女の作り出したものだったら……? すでに騙されている自分を、ヴァシルは信用し切れなかった。


 よく考えて見れば、この偶然の出会いも出来過ぎている。ヴァシルがこの戦場に来て、さらにそこで負傷しなければ、この村に来ることもなかったわけで、エリエとの再会もなかったはずなのだ。そんな偶然が都合よく起こるだろうか――ヴァシルはそうは思えなかった。このエリエは偽物……だが、以前のような幻ではないのかもしれない……。


 ヴァシルは抱き締めるエリエをゆっくり押し離すと、立ち上がった。


「……どうしたの?」


 不安な目でエリエは聞く。その目をヴァシルは見据えた。


「俺をまた騙して、今度は何をしたい」


「え? ヴァシル、何を――」


「エリエのふりはもうやめろ。正体はわかってる」


 困惑した表情でエリエは立ち上がると、ヴァシルに近付こうとする。


「来るな!」


 怒鳴られ、びくりと驚いたエリエは、その場で固まった。


「エリエになって、偶然を装ったつもりだろうけど、お前の笑い方はそのままだった。それでまた俺を騙せると思ったのか?」


「私は、騙してなんか……」


 戸惑い、声を震わせてエリエは言う。しかしヴァシルは冷たい目で見つめる。


「エリエの姿を消せ。お前はエリエじゃない」


「私は、エリエだよ? 何で急にそんなことを……?」


 いつまでもエリエになり切る様子に、ヴァシルは苛立った。


「騙し通すつもりか……それなら――」


 言うとヴァシルは、剣の柄に手を置いた。これにエリエは瞠目する。


「じょ、冗談はやめて……」


「お前こそやめたらどうだ。くだらない幻で、小細工をするのは」


 エリエは苦しげに表情を歪める。


「どうしちゃったの? ヴァシル……何を言ってるの? せっかく会えたのに、いっぱい話したいのに……一度落ち着いて、ね?」


 様子をうかがいながら、エリエは少しずつ歩み寄ってくる。その姿を見ながら、ヴァシルの思いは揺れていた。エリエは、本当にエリエなのかもしれない。これだけ言って、威嚇しても、姿を変えないのなら、自分は勘違いしていたのかも――剣の柄から手を離そうとした時、ヴァシルの目がエリエの腰のナイフに留まった。エリエには不似合いなナイフ。なぜそんなものを持っているのだろうか。そう考えてヴァシルは、はっとした。


「そうか……お前の狙いは、エリエじゃなく、俺か」


 睨まれたエリエは、怯えた目を見せる。


「お前は、エリエを傷付けると言いながら、実は俺を仕留めるつもりだった。だから俺がこうしてエリエと会えて安心したところを、エリエに化けたお前が、そのナイフで一突きするつもりだった……これがお前の計画だな」


「ヴァシル、聞いて。私は何も計画なんてしてないし、あなたを傷付けようとか――」


「じゃあ、その腰のナイフは何だ。何で持ち歩く必要がある」


「これは……こういう状況だから、護身用に持っていなさいって、お父さんが――」


「嘘を言うな」


「嘘じゃない!」


 大声を上げたエリエは、涙目になっていた。


「私は、ヴァシルを信じる。だから、ヴァシルも私のこと、信じて」


 一歩ずつ、エリエは近付いてくる。


「お願い……ヴァシル」


「………」


 息を詰めながら、ヴァシルにはもうわからなくなっていた。果たして自分は合っているのか、間違っているのか……。


「……私のこと、守ってくれる?」


 潤んだ瞳で、エリエは息を吐き出しながら口角を上げる。ふふっと笑う、あの女の姿が、目の前で重なった気がした――


「!」


 閃く刀身をかわす間もなく、エリエは向かってきた剣をまともに受けると、鮮血を散らしながら力なく地面にくずおれた。


 ヴァシルは倒れたエリエに剣を向けながら、強く言う。


「やらせない。俺は、エリエを守るためにも、死ねないんだ」


 見下ろすヴァシルは、幻で作られたエリエの姿が、あの女に変わるのを待ったが、一向にその気配がない。


「往生際の悪い……」


 横向きに倒れる体を、ヴァシルは肩を引いて仰向けにさせる。そこには、青ざめた顔のエリエが、目を細めて浅い呼吸を繰り返す姿があった。首から胸にかけて切り付けた傷からは、赤黒い血が流れ落ちていく。


「……っ」


 唇が何かを言おうとわずかに開くが、声を発するまでには至らない。かろうじて動く右手は、すがるような仕草でヴァシルに伸ばされるが、すぐに力尽き、地面にぱたりと落ちた。


「……姿を現せ」


 睨みながら、低い声でヴァシルは言う。その顔を見上げるエリエの目尻からは、細い筋となって涙がこぼれていた。白い肌に赤い血が流れる姿は、たとえ幻とわかっていても、ヴァシルは見ていられなかった。


「早く、あの女の姿に変わったらどうだ!」


 怒鳴っても、倒れたエリエに変化はなかった。そのうち、ヴァシルを見上げていた両目からは光が消え、うつろな視線を向けたまま、エリエは呼吸を止めてしまった。さすがにおかしいと感じたヴァシルは、その顔をのぞき込んだ。


「……おい」


 声をかけても反応せず、体は微塵も動かない。これも演技なのか? と思う反面、ヴァシルの中には疑いが生まれ、自然と鼓動は速まっていた。


「死んだふりは、やめろ……」


 発した言葉に力が入らない。そんなはずはないと叫ぶ声が頭の中を駆け巡っていた。瞳孔の開いたエリエの目を見下ろしながら、ヴァシルはひどく震え始めていた。自分は何をしたのか。女の化けたエリエを切ったはずなのだ。だから何も怖がることはない。ないはずなのに、鼓動は早鐘を打ち、全身は自分のしたことに震え続けている。


「違う……違う。俺は、偽物のエリエを……」


 彼女の虚空を見つめる焦点の合わない目は、光を失った今も言葉を伝えているように見えた。「私を信じて」と、ささやき、訴えている。それは紛れもなく、ヴァシルの知るエリエの声――


 後ずさった両足は、がくがくと震えて上手く動かせない。ふと見ると、右手に握られたままの、エリエの血が付いた剣に気付いて、ヴァシルは慌ててそれを放り投げた。目の前の景色が歪んでいくような錯覚に、ヴァシルの呼吸は乱されていく。俺は、この手で、エリエを殺したのか? ――混乱する頭は、この現実を自分自身に問うことしかできずにいた。


「くっくっくっ……」


 背後からの気配と声に、ヴァシルは視線を巡らす。見えたのは、木の陰にたたずむ、黒いドレスの女だった。口元に手を当て、背中を丸めて笑い声を抑えている。その姿にヴァシルは愕然とした。では、今そこに倒れているエリエは、やはり――


「あーはっはっはっ――」


 女は腹を抱え、大声で笑い出した。うねる黒髪を揺らしながら、下品なほどに口を開けて、感情のままに笑い転げる。未だ呆然とするヴァシルを横目に、女は何がそんなに面白いのか、一人笑い続けた。


「最高だわ! やっぱりあなたって、最高な人間ね!」


 ひとしきり笑った女は、目に滲んだ涙を拭いながら言った。


「こんなに思い通りにいくなんて、思いもしなかったわ」


 笑顔の女を、ヴァシルはゆらりと見据えた。


「……どういう、ことだ」


 女は鼻を鳴らす。


「言った通りよ。あなたは、私の思い通りに動いてくれたの。大事な彼女を、ちゃんと殺してくれた。自分の手で……」


 にやりと笑う女を、ヴァシルは引きつった表情で睨む。


「お前が、仕向けたっていうのか」


「いろいろ準備が大変だったのよ? まずは彼女の居場所を探して、それからここで戦いが起きるのを待ってからラスカーを向かわせて、あなたが来たら殺さない程度に痛め付けて、そしてこの村で彼女と再会させる。偽物と思わせるために、前もって幻を見せたり、私が彼女の笑い方を真似たり、結構努力をしたんだから」


「お前……そんな前から――」


「苦労した分、上手くいった瞬間は、もう疲れが吹き飛ぶほどの快感で、たまらないくらいよ。あなたを選んだ甲斐があったわ」


 満足した表情で女はヴァシルに笑いかける。


「何がしたいんだよ……俺にこんなことさせて……!」


 ふつふつと湧く怒りを見せるヴァシルを、女は涼しい目で見やる。


「これは、あなたが私との約束を破った罰よ。次に会う時に、彼女がひどい目に遭うと、確か前に言ったはずだけど?」


 ぐっと歯を噛み締めるヴァシルを、女は笑う。


「でも、そんな約束がなくても、私は同じことをするつもりだったけれど。くっくっ……」


 ほくそ笑む女を、ヴァシルは拳を握って睨み付けた。


「絶対に、お前は許さない!」


「素敵な目……もっと私を見て。もっと私を楽しませて……」


 女はまるで誘うような艶のある眼差しでヴァシルを見つめる。怒り、屈辱、自虐、悲嘆――一つにはなり得ない感情が、ヴァシルの心をきしませていた。だが、確信しているのは、この女を生かしておくことはできないということだった。自身の手で息の根を止めなければ、絶対に後悔する。ヴァシルはそう断言できた。


 意を決したヴァシルが、不敵に笑う女に駆け寄ろうとした瞬間だった。


「どうかしたんですか?」


 井戸の向こうから、衛生兵らしき人が声をかけてきた。木陰にいるヴァシルを不審に思ったのか、小走りで近付いてくる。


「また会いましょう」


 女のささやき声が突然耳元で聞こえ、ヴァシルは反射的に腕を振った。だが、振った先に女はいない。それどころか見渡す範囲に立ち去る姿さえなかった。それはまるで幻のごとく消えてしまったように感じた。


「あれ? 君はさっき治療を受けてた……」


 どうやらヴァシルを見かけていたらしい衛生兵は、笑みを見せながら歩み寄ってきた。が、その足下に倒れるエリエを見つけて、瞬時に足を止める。


「はっ……」


 息を呑み、驚く視線は、血だらけの傷口を見下ろし、そしてゆっくりと、血の付いた剣に移る。


「君が……やったのか……?」


 こわばる表情で問う衛生兵に、ヴァシルはしどろもどろに答える。


「こ、れは……俺の意思じゃなくて、俺は、騙されて……」


「君、なんだな?」


 鋭い視線がヴァシルを射る。


「……話を聞かせてもらおうか」


 有無を言わさない態度で、衛生兵はヴァシルの腕をつかみ、連れていこうとする。


「駄目なんだ……俺は、あの女を仕留めないと――」


 そう呟くと、ヴァシルは衛生兵の手を振り払い、一目散に逃げ出した。


「あっ、おい!」


 後ろから追いかけてくる足音が聞こえる。それでもヴァシルは木々の間を縫いながら駆け続けた。だが深い森の中に入ると、その足音も聞こえなくなり、うっそうとした緑の中でヴァシルは足を休める。そして、自分が迷い込んでしまった状況に、天を仰ぎながら絶望した。

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