七話
特殊作戦部の部屋に入ったヴァシルは、すぐにミレスクの姿を捜す。いつも部屋には人がいなかったのだが、今日は数人の兵士が長机に向かって何かの書類にペンを走らせていた。だがその中にミレスクはいない。
「……ああ、君は例の傭兵か」
机の手前に座っていた兵士がヴァシルに気付いて声をかける。
「中佐に用事かい?」
「はい。どこにいますか」
すると兵士は部屋の奥の扉に目を向ける。
「執務室だ。今なら多分平気だろう」
言われてヴァシルは扉の前に行くと、軽く叩いて声をかけた。
「ヴァシル・アベレスクです。報告に戻りました」
「……入ってくれ」
ミレスクの声が聞こえ、ヴァシルはゆっくり扉を開ける。
「そこに座ってくれ。ご苦労だった」
本棚に囲まれた狭い部屋の奥にミレスクはいた。書類が山積みにされた机の向こう側から、ヴァシルではなく手に持つ紙を見ながら言葉をかける。一応小さな窓はあるが、換気がされていないのか、少々埃っぽい。そんな部屋に入り、ヴァシルは机の前に置かれた椅子に腰かけた。
「……忙しいなら、改めて――」
「いや、大丈夫だ。今溜まっている報告書に目を通しているところでね。大した仕事ではない」
そう言うとミレスクは手にしていた紙を机に置いて、初めて視線をヴァシルに移す。その姿を見て、ミレスクの眉間にしわが寄る。
「随分と汚れて……傷だらけだな。医務室へ行ったほうがいい」
ヴァシルは自分の体を見下ろす。確かに土や血で薄汚れている。が、大きな傷は一つもない。
「どれもかすり傷ですから、心配いりません」
「念のためだ。帰りにでも診てもらうといい」
書類を端に寄せると、ミレスクは組んだ手を机に乗せる。
「……では、報告を聞こう。彼を追えたのか?」
ヴァシルはうつむき加減に話す。
「前線でやつを見つけて、森の中へ逃げ込んだのを追ったんですけど、もう日暮れが近くて、そこで断念しました……」
ミレスクは小さく息を吐く。
「そうか……」
「俺の見方では、やつはその森の辺りを根城にしていそうです。やけに慣れた足取りだったから」
「ふむ、なるほど……確かに彼は、あの地域での目撃情報が多い。可能性はありそうだ」
「あの辺りを捜しますか?」
聞くとミレスクは、口をへの字に曲げ、考え込む。
「そうしたいところだが、何せ人が足らない」
「傭兵は?」
「未だ集まっていない。困ったものだよ」
溜息を吐くミレスクにつられ、ヴァシルも心の中で息を吐く。まだ一人でやつを追わなければいけないらしい。
「おそらく、また彼はどこかの戦場に現れるはずだ。その報告があるまでは、日に一、二度、ここに顔を出してくれれば、君は休んでいても構わない。もしかしたら、こちらから君を呼びに行くこともあるかもしれないが、彼の情報が来るまでは、とにかく待機していてくれ」
「わかりました……」
あそこまで追って、目の前にいながら逃がしてしまったことが、今さらながらヴァシルの中に悔しさを湧かせた。あの辺りにいるはずだとわかっているのに、それを追えないことが、どうにももどかしい。でも、むやみに森の中を捜すよりは、情報を待ったほうが確実なわけで、ヴァシルはミレスクの指示に素直にうなずくしかなかった。
「……他に報告はあるか?」
ない、と言いかけて、ヴァシルはラスカーの言った言葉を思い出し、聞いた。
「ミレスク中佐は、やつがなぜ人殺しをするのか、知ってますか?」
真面目に聞いてくるヴァシルを、ミレスクは怪訝な顔で見る。
「……急に何だ」
「森へ追って入った時、やつと少し話したんです」
これにミレスクの目がわずかに見開かれる。
「まだ話が通じたか……それで、何を話した」
「俺は、なぜ人を殺すのか、その理由を聞いたんですけど、やつは答えませんでした。でも、去り際にこんなことを言ったんです。もう少しなんだ。今さらやめられない、と」
ミレスクは難しい表情でヴァシルの言葉に耳を傾けていた。
「一体、どういう意味なのか……俺は、やつは狂人だと思っていました。でも、この言葉を聞いて、やつには何か目的のようなものがあるんじゃないかと思ったんです。ちゃんと頭で考えて、理由を持って動いていると。ミレスク中佐、何かやつの行動の根源になるようなことに、思い当たるものはありませんか?」
しばらく黙っていたミレスクだが、腕を組み、椅子の背もたれに体を預けると、おもむろに口を開いた。
「……根源と言えるものかはわからない。だが、彼がああなってしまった理由と思えることなら、一つある」
「え……知ってるんですか?」
驚くヴァシルに、ミレスクは険しい顔を向ける。
「確かなことではない。ただ私がそうではなかろうかと思っているだけだ。本当のところは、彼自身に聞かなければわからないが……」
「それは、何なんですか?」
深い息を吐き、ミレスクは机の一点を見つめながら話した。
「彼が――ラスカーが元軍人だというのは話したな」
「はい」
「短い期間だったが、昔ラスカーは私が率いる隊に所属していたことがあった」
「やつが……部下だった?」
ミレスクはうなずく。
「当時から剣術に長けた男だった。身体能力も高く、私も頼りにする部下の一人だった。優秀な兵士だったから、各隊から引く手あまたの存在で、私の隊から離れ、所属が変わっても、その活躍はしっかりとこちらまで伝わってくるほどの男だった」
懐かしむように目を細めるミレスクだったが、すぐにその表情は暗くなる。
「そんな中で聞いたのが、彼の婚約者の死だった。話では、買ったばかりの新居に一人でいた婚約者が、強盗に殺されたということだった。その犯人は未だに捕まっていないらしくてな……。ラスカーの活躍も、その直後にぴたりとやんでしまった。相当な衝撃だったのだろう」
「そんな、ひどいことが……」
「それから数年して、ラスカーは軍をやめてしまった。救いを求めた宗教にのめり込んでやめたという噂もあるが、定かではない。優秀な兵士だっただけに、彼がやめたことは軍にとって痛手だった。そんな彼が、まさかかつての仲間を襲うなど、誰も予想していなかったことだろう……」
ミレスクはヴァシルに視線を移す。
「彼は真面目な兵士だった。当時の彼を知る者なら、今のあの凶暴な姿は信じられないものだろう。彼をあんな人間にしてしまった引き金は、私が思うに、この婚約者を失った事件だと思っている。失ったことで、彼の中で何かが変わってしまったのかもしれない。凶行に向かわせる何かが生まれてしまったのかもしれない。しかしそれは我々では知る術がないのだ。だから、できることなら、彼を殺さずに連れてきてもらいたい。会って、凶行をするに至ったものを聞き出したい。私もそれを知りたいのだ」
言葉を句切ると、ミレスクは表情を暗くして言った。
「だが、抵抗が激しく、それが無理だと思うのなら、殺すことも仕方がないだろう。犠牲者は増やせないからな……」
そう言うミレスクの顔は、いかにも残念そうに見えた。もしラスカーがそうなれば、やつが人を殺す理由を永遠に知ることはできなくなる――そんな想像をしての顔なのだろう。
「やつも、元は愛する人がいる、普通の人間だった……」
「当たり前だ。生まれ付き殺人を好む人間など、この世にはいない」
ラスカーの、どこか常軌を逸した、獰猛な獣のような鋭い目付き。人を人とも思わない冷酷さ。周りに恐怖を振りまく残忍な仕打ち――こんな人間は生きるべきではないとヴァシルは思っていた。生かしておいてはいけないはずだと。しかし、ミレスクの話した姿が、やつの本当の姿なら、それは考え直すべきだろうか。殺戮の獣と化したラスカーは、婚約者を失って何かが変わった。ただ自暴自棄になっているだけかもしれない。でもそこには消えない悲しみが確かにちらついている。だからと言ってヴァシルはラスカーに同情するつもりはなかった。どんな理由であろうと、自分勝手に命を奪っていいわけはない。それは裁かれるべき絶対の罪だ。だが、やつが狂人だという印象は、ヴァシルの中では薄れていた。言葉を交わしたせいもあるが、ラスカーには人間としての感情があるように思えた。それがどういうものかはわからない。あるとしても、ほんの小さなものかもしれない。それでも、感情があるのなら、それは人間らしさと言えるのではないか……。
「……無理をする必要はない。彼への対処は君に任せる。今日はとりあえず休んでくれ。疲れているだろう。一晩休んで、また明日来てくれ。何もなければそのまま待機だ。……他に何かあるか?」
「いえ……じゃあ明日に」
ヴァシルは椅子から立ち、部屋を出ていこうとする。
「その傷、医務室で診てもらえ。いいな」
ミレスクはそう言うと、読みかけの書類に目を落とす。それをいちべつしてから、ヴァシルは部屋を後にした。
言われた通り、一階にある医務室に寄ったヴァシルは、全身にある小さな傷を消毒してもらい、それから外へと出た。今は午前十時くらいだろうか。通りには馬車や兵士の姿は見えるが、それ以外にはあまり人の姿が見当たらない。空を見上げれば灰色の雲が徐々にこちらへ近付いてきていた。この雲を警戒して人が少ないのかもしれない。しばらく晴天が続いていたから、畑を持つ人間には、いい恵みの雨になるだろう。
宿へ向かいながら、ヴァシルは考える。やはりラスカーは生け捕りたい。報酬はもちろんだが、やつが殺戮を繰り返す理由を、ヴァシルも知りたかった。どういう気持ちを持てば、あれほど残酷なことができるのか。それはヴァシルには想像できないことだった。だからこそ理由を知りたいと思った。一体やつは何に突き動かされているのか……。もしかして、あの女が理由に絡んでいたりすることは――
あっ、と声を漏らし、ヴァシルはすぐに踵を返そうとしたが、思い直し、再び宿へ歩き始める。あの女をミレスクに報告しなかったことを失念していたヴァシルだったが、今日は忙しそうだったし、また明日話せばいいかと、そのまま通りを歩き進んだ。
「う、うう――」
妙な声が聞こえた気がして、ヴァシルは足を止めた。そろそろ宿に着くという地点だった。周囲を見回してみる。通りには見知らぬ通行人が数人歩いているだけだった。気のせいと思い、ヴァシルはまた歩き始める。
「う、う、ああ――」
また同じ声が聞こえて、これは気のせいではないと思い、ヴァシルは足を止める。やけに苦しそうな、女性の声のようだった。辺りを見回しても、やはりそんな声を出す人はおらず、ヴァシルはその場で耳を澄ましてみる。
「あ、ああ――」
聞こえてきた声の出所を探る。
「……あの、林か?」
ヴァシルは視線を向ける。通りから外れた先には、針葉樹の並び立つ林があった。その一番手前には木製のベンチが置かれ、ちょっとした休憩場所にもなっているようだ。だが林は広く、その奥へ行けばこの街から出てしまうだろう。
木々の間をヴァシルは凝視する。が、声の主らしき姿は見えない。それほど遠くから聞こえてきたようには思えなかったのだが、もっと奥にいるのだろうかと、ヴァシルはいぶかしみながらも、林へゆっくりと入っていった。
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