六話

 早朝から辺りは戦いの喧騒と砂煙にまみれていた。晴れ渡る空の下、右も左も兵士達が武器を振り、血眼になって命の奪い合いをしている。倒れた者は踏み付けられ、殺した者は雄叫びを上げる。そうして血で染まった戦場を、無数の兵士達が蹂躙していく。


 前線での戦いの中を、ヴァシルは剣を片手に駆け抜けていた。横から手を出してくる敵兵をいなしながら、まだ現れないラスカーの姿を懸命に捜す。


 女との話の後、一晩考えたヴァシルは、忠告を聞かずラスカーを追うことにした。女は言うことを聞かなければ、エリエをやつに殺させると言っていた。それなら、そうさせる前に自分がやつをどうにかしてしまえばいいとヴァシルは考えたのだ。捕らえるなり仕留めるなり、ラスカーを引き止めれば、エリエを捜す時間が少しは稼げるはずだ。そもそも、やつらはエリエの存在を知ってしまっている。素直に忠告に従ったところで、やつらがエリエに危害を加えない保証はない。彼女を守るためには、結局ラスカーを追わなければならないのだ。


 そう決めたヴァシルだが、成功するかはラスカーを止められるかどうかにかかっている。たった一人で、あの狂気の男を止められるのか、それだけがヴァシルの気がかりだった。要塞と村でやつと対峙して、二度ともヴァシルはラスカーを逃がしている……と言うよりは、こちらが助かったと言ったほうがいいのかもしれない。ラスカーの動きは速く、腕力もある。不意打ちだったとは言え、イオン達四人を殺した腕もある。正面から立ち向かって、果たして勝てるのだろうか――ヴァシルの中に湧く不安は尽きない。しかし、力の差があろうとなかろうと、ヴァシルはラスカーを追わなければならない。エリエに近付けさせないために……。


「……邪魔だ!」


 駆けるヴァシルの前に、敵兵が立ちはだかった。ヴァシルは走る足を緩めず、そのまま敵兵へ突っ込む。相手の槍が脇腹を狙ったのを見て、素早くそれをかわすと、ヴァシルは剣で槍を叩き折り、敵兵に体当たりを仕掛ける。弾かれ倒れる敵兵には目もくれず、ヴァシルは真っすぐに駆け抜けた。


「必ずここに……」


 ラスカーはこの前線に絶対に現れるとヴァシルは確信していたが、いくら捜し回っても見つけられなかった。見回しても、両軍の兵士ばかりで、あの男の姿は見つからない。


「うおお!」


 突然、背後から敵兵が襲いかかり、ヴァシルは慌てて身をかわす。が、足をもつれさせ、地面に尻もちをついてしまった。上から振り下ろされる剣を、ヴァシルは自分の剣で弾くと、その隙に敵兵の腹に蹴りを入れた。かがんで怯んだ相手だったが、その状態のまま勢いよく剣を振ってきた。


「くっ――」


 立ち上がっていたところで足に痛みが走り、ヴァシルは思わず顔を歪めた。だが向かって来そうな敵兵の腕を切り付けると、ヴァシルは痛みを我慢しながら再び駆け抜けていく。兵士と戦っている暇はない。一刻も早くラスカーを見つけなければ――そう急くヴァシルの前には、次から次へと敵兵が現れ、容赦ない攻撃を仕掛けてくる。小さな傷を負わされながらも、かわし、逃げるヴァシルだったが、戦場の隅から隅まで駈け抜けて、さすがに体力が持たなかった。四方で両軍の戦いが続く中、ヴァシルは一人肩で呼吸を繰り返す。


「どこに、いるんだよ……」


 ラスカーと対峙する前に、こちらが満身創痍になりそうだと、視線をぐるりと巡らした時、背後から迫る一騎の騎兵に気付いた。褐色の馬の上に、銀色の甲冑を身に付けた兵士がまたがっている。周囲の兵士が掲げる旗から、敵軍の騎兵だとわかった。


 まずい、と感じたが、もう遅かった。騎兵はヴァシルに目を付けると、馬を走らせて向かってきた。これに背を向けて逃げるわけにもいかず、ヴァシルは剣を握り直し、待ち構えた。


「貴様、傭兵か?」


 騎兵は問うと同時に、馬上から剣で切り付けてきた。ものすごい勢いに、それを防いだヴァシルの剣が危うく飛ばされそうになる。


 一旦通り過ぎた馬を引き返し、騎兵はかぶっている兜の下から鋭い目をのぞかせる。


「そっちは傭兵の手を借りるほど、兵が足りないのか?」


 馬の腹を蹴ると、騎兵は一直線に向かってくる。狙い澄ました攻撃は、ヴァシルの頭目がけて振り下ろされた。が、その剣は、かわしたヴァシルの金髪をかすめただけで、ぎりぎり直撃は免れた。これに騎兵の目が笑う。


「……雇われただけあって、それなりに能力はあるか」


 手綱を握りながら、騎兵は右手の剣をくるりと回す。その直後、笑っていた目は、真剣なものへと変わった。険しく鋭い眼差し――一般兵士とはどこか違う、落ち着いた、けれど力強さを秘めた光をヴァシルは感じた。


「――テモだ。敵将のテモだ」


「あいつが? や、やばいぞ――」


 気付くと、ヴァシルの後ろには数人の自軍の兵士が遠巻きに立っており、騎兵を見ながら恐れるように呟いていた。


「敵将……」


 ヴァシルは甲冑の兵士を見上げる。聞いたことのない名前だが、兵士には知られた存在らしい。どうりで他の兵士とは違う目をしているはずだ。しかし、これはいよいよまずい状況だった。まさか敵将と鉢合わせてしまうなんて思いもしていなかった。自分の力量では勝てるとは思えず、ここは逃げたほうが早いと考えたヴァシルだが、目の前の相手は、もうすでにやる気を見せていた。


「この戦場に、傭兵の出る幕はないぞ!」


 馬を操り、騎兵は切り込んできた。


「ちっ――」


 逃げる隙がないヴァシルは舌打ちをし、相手を迎え撃つ。


「はあっ!」


 騎兵は声を張り上げ、力を込めた一撃を振る。びゅんと風を切る音が聞こえ、次に剣同士がぶつかる音が鳴る。やはり騎兵の攻撃は勢いが強く、受け止めきれないヴァシルはそれを受け流すしかなかった。馬上から剣を振り下ろされれば、どうしたってその強さは増してしまう。どうにかして兵士を馬から引きずり降ろさなければ――ヴァシルは騎兵に近付こうと試みるが、それを察した相手は、すかさず剣で牽制する。


「私を降ろさないと戦えないか? そんな腕でよく傭兵などやっているものだな」


 見下した言い方に、ヴァシルは騎兵を睨んだ。


「そんな余裕があるなら……私をやってみろ!」


 騎兵の攻撃が始まった。馬を巧みに動かしながら、ヴァシルへ向けて剣を振り下ろしてくる。途切れない攻撃は、その一撃一撃が重く、ヴァシルになかなか反撃の隙を与えない。高い馬上からくる攻撃を受け止めた衝撃だけで体はふらつき、それだけでも体力は奪われる。避けようにも、相手は馬で移動しながらヴァシルの動きを制限し、思うように動き回らせてくれない。この辺りは、さすが将を務めるだけのことはあり、戦い慣れた様子を見せ付けてくる。そんな相手にヴァシルは手も足も出ず、防戦一方の状態を強いられた。


 手を出さなければ、つぶされる――疲労を感じ始めたヴァシルは、相手の攻撃を警戒しながら、強引に距離を詰めようと近付いた。馬の向きが変わる、その瞬間を狙い、一気に駆け出す。


「……甘いぞ」


 上から低い声が聞こえた直後、騎兵は思い切り手綱を引くと、馬はいななきながら、前の両足を空高く持ち上げた。


「……!」


 突然目の前に馬の腹が立ちはだかり、ヴァシルは驚き足を止めた。が、次には頭上にあった馬の足が、ヴァシル目がけて下りてきた。踏みつぶされる――そう感じたヴァシルは咄嗟に横へ飛び退いた。砂埃舞う地面に倒れ込み、間一髪危機を免れる。


「こんなものだったか……」


 振り向くと、馬上から険しい目が見下ろしながら、ヴァシルに剣先を向けていた。


「私が相手になるまでもなかった。……さっさと寝ろ」


 発せられた声は、ひどく冷めていた。地面に倒れるヴァシルを仕留めようと、騎兵の剣が動く――


「テモ様!」


 倒れるヴァシルの視界の端から、一人の敵兵が駆け込んできた。やけに慌てた様子で、騎兵の背後から話しかける。


「あ、現れました。例の男です!」


 これに騎兵の目付きが変わった。


「来たか……!」


 構えていた剣を引くと、騎兵はヴァシルをいちべつしただけで、仕留めることなく馬を走らせ去っていってしまった。数人の敵兵も、その後を追っていく。


「……大丈夫か」


 呆然とするヴァシルを見兼ねた自軍の兵士が声をかけてきた。


「ああ……平気だ……」


 兵士に手を借りながら、ヴァシルは立ち上がる。


「テモを相手に、よく生き残れたもんだな」


 兵士は感心したように言う。これにヴァシルは首を横に振った。


「向こうの意識が俺からそれたんだ。だから生き残れた。……それにしても、あいつはどこへ向かったんだ?」


 すると、別の兵士がヴァシルに近付いてきて言った。


「またあいつが出たって、ついさっき報告があった。きっとそこだろう」


「あいつって、まさか――」


 兵士はうなずく。


「ああ。狂った元軍人だよ」


 目を見開いたヴァシルは兵士に詰め寄る。


「どこに現れた、やつはどこにいる!」


「報告じゃあ、敵軍の背後からこっちに移動してきてるって――」


 話が終わる前にヴァシルは走り出していた。引き止める兵士の声も聞かず、敵兵が集まる方向へと駆ける。とうとう姿を現した――ヴァシルの鼓動は、焦りと不安で大きく鳴り響いていた。どんな手段でもいい。とにかく、やつを止められればいいのだ。やつを止めて、エリエを捜しに行く。それさえできればいい――浮足立ちそうな自分に、そう言い聞かせながら、ヴァシルは敵陣に向かってひた走った。


「……あっ」


 遠くに見えた光景に、ヴァシルは思わず足を止めた。敵陣内に入る一歩手前のところだった。


 何十人もの敵兵が、人垣を作るように一か所に集まっている。その中央には、頭一つ飛び出るように銀色の兜が揺れていた。先ほどの騎兵に違いない。周りの敵兵で、その中央は見えないが、騎兵は剣を振って誰かと闘っているようだった。


「やつと、闘ってるのか……?」


 遠くから眺めていても、その相手の姿は見えない。ヴァシルがもう少し近付こうとした時、異変は起きた。


 周りに立つ兵士達がわずかにどよめく。その直後、兜だけが見えていた騎兵は、下から何かに引っ張られるように馬から落ちたようだった。ヴァシルが必死になってもできなかったことを、闘う相手はあっさりやってのけたのだ。


「おおおお――」


 周囲の敵兵達が驚く声を上げた。すると、人垣となっていた兵士の列が崩れ、その中から甲冑の兵士が飛び出してきた。その足取りは乱れ、かなり慌てているのがわかる。


「……ラスカー!」


 ヴァシルはその姿を見つけ、呟く。敵兵の中からゆっくりと歩いて現れたのは、長い髪を揺らし、血で汚れた服をまとう、紛れもなくラスカー本人だった。ラスカーは周りの兵士を威嚇するように見回すと、目の前にいる銀色の甲冑に猛然と襲いかかった。


「くうっ……やはり、強い……」


 攻撃を受け止めながら、甲冑の敵将は表情を歪める。怯む相手に構わず、ラスカーは力任せの攻撃を繰り返す。どんどん後ずさる上官を助けようと、周囲の兵士が声を上げてラスカーに切りかかった。しかし、その攻撃が届く前に、兵士は次々と切り伏せられていく。近付く者すべてが、狂気の男の餌食となっていく光景に、敵将も恐怖を感じ始めたのか、闘う意欲をそがれ、徐々に逃げ腰になっていく。


 そんな敵将を、ラスカーはぎろりと見ると、顎に付いた返り血を手で拭いながら、一直線に走り出した。周りの敵兵は恐怖で足をすくませ、誰も止められない。男の目はただ一人を見据え、口の端を歪ませる。


「く、来るな――」


 敵将はぶんぶんと剣を振るが、半ば混乱しているのか、まるで攻撃になっていない。そんな威嚇にもならない攻撃をラスカーはすんなりかわすと、両手で持った剣を思い切り横薙ぎに振った。それは防御する敵将の剣を軽く弾き飛ばし、それに引きずられるように動いた敵将の二の腕を、銀色の甲冑ごと切り裂いていった。赤い飛沫が飛び散るのを見て、兜の下の目は驚きと恐怖に満ちる。


「こ、後退しろ! 引け!」


 敵将は声を裏返しながら、たまらず兵に指示を出した。目の前のラスカーから一時も早く離れたかったのか、周囲の兵士達がまだ呆然と立っている中を、敵将は馬にも乗らず、一目散に駆けてその場から逃げていった。その姿を見て、周りの兵士達もようやく指示を理解し、戦いをやめて自陣内へと引いていく。


 だが、ラスカーは自分に背を向けて逃げる敵兵を追うと、手当たり次第に切りかかっていく。相手は誰一人として抵抗する者はなく、闘う意思を見せていない。それにも構わず、ラスカーは逃げる兵士を後ろから捕まえ、剣で躊躇なく命を奪っていく。その光景はもう闘いではなく、ただの殺戮にしか見えなかった。その場にいたヴァシルを始め、自軍の兵士達は、むごたらしく死んでいく敵兵を、こわばった表情のまま黙って見つめることしかできなかった。


 やがて、辺り一帯の敵軍は引き、周りから敵兵は消えた。自陣に踏み込ませることなく、ここを守り切ることができたのだ。そうわかると、疲弊しきった兵士達だったが、一斉に勝利の声を上げ始めた。至る所から歓声が沸き、戦いの勝利と生き残れたことを喜びあう。


「おしっ、今日は勝ちだ!」


「あのテモを引かせたんだ。俺達の勝利だ!」


「見たかよ、テモのやつ、すごい逃げっぷりだったなあ!」


 傷の痛みも疲れも忘れ、皆が勝利の喜びに笑顔を見せる。しかし、それを切り裂くように、すぐ側から悲鳴が響き渡った。


「がああああ……」


 喉をつぶされたような苦しい悲鳴――ヴァシルはすぐに振り向く。そこに見えたのは、口から血を流して倒れる自軍の兵士と、それを見下ろすラスカーの後ろ姿。周囲の兵士達が、はっと息を呑むのがわかった。


「今度は、味方をやる気か……!」


 ヴァシルが一歩前に出ると、ラスカーがこちらに振り向く。乱れた長い髪の間から、不敵な眼差しがのぞく。そして次の瞬間、ラスカーは味方へ向けて走ってきた。


「止めてやる――」


 ヴァシルはラスカーの前に立つと、剣を構えて待ち受ける。が、どういうわけかラスカーはヴァシルの剣を弾いて目の前からどかすと、そのまま味方の兵の中へ突っ込んでいってしまう。


「何……?」


 てっきり襲いかかってくるものと思っていたヴァシルは、拍子抜けしてラスカーを目で追う。兵士達に囲まれる中を、ラスカーは勢いを衰えさせずに動き回る。すでに疲れのある兵士は、ラスカーの剣から逃げ始めるが、そんな兵士を目ざとく見つけ、ラスカーは再び殺戮を繰り広げようとしている。


「やめろ! ラスカー!」


 ヴァシルは逃げ惑う味方の兵を縫いながら、ラスカーの後を追う。勝利に喜んでいた兵士があっけなく倒れていくのを見ながら、ヴァシルは暴れる男に接近する。


「やめろって言ってんだ!」


 動き続ける右手目がけ、ヴァシルは剣を振り下ろす。しかし、ラスカーは素早く避けると、体を正面に向け、ヴァシルをじっと見つめてきた。息が切れかかっているのか、その呼吸は速い。今度こそ止める――そうヴァシルが身構えた時、見つめていたラスカーの目が、ふっとそらされた。そして次には身をひるがえして、ヴァシルに背を向けて遠ざかっていく。


「……何のつもりだ、あいつ!」


 ラスカーの意図がわからず、ヴァシルは苛立ちながらその後を追う。


 自陣内を動き回りながら、ラスカーはなおも兵士を襲っていく。だが後方へ行くほど兵士の数も増え、さすがのラスカーも体力に余裕がなくなってきたのが見て取れた。このまま兵士達がやつを包囲してしまえば、捕らえることも可能かもしれない――ヴァシルがそう思ったのもつかの間だった。


 急に方向を変えたラスカーは、集まり始めていた兵士の間を抜けると、散々振っていた剣を鞘に収めながら、戦場と隣り合う森の中へ入っていった。


「森だ、森へ行ったぞ!」


 誰かが叫び、兵士達はラスカーの消えた森へと踏み込んでいく。ヴァシルもそれに付いていくように入っていった。


 そんなに距離は開いていなかったはずなのに、ラスカーの姿はすでに見えなくなっていた。並び立つ樹木や背の高い雑草が邪魔で、ヴァシルも兵士達も思うように進めない。頭上を見上げれば、枝葉の隙間から差し込んでくる日は、もう傾いていた。戦いの直後で疲労困憊だった兵士達は、早々と追うことに見切りを付け、引き返していこうとする。だがヴァシルはそう簡単には諦めきれなかった。


「……あんた、特殊作戦部のやつなんだって? 追うのか」


 引き返してきた兵士が、ヴァシルを見て聞いてきた。


「一応、仕事なんで……」


「あんまり深追いするなよ。すぐ暗くなるぞ」


 そう言って兵士は戻っていく。日が暮れてしまえば、森の中は暗闇に包まれ、下手をすれば帰り道すらわからなくなる恐れもある。そうなる前にやつを見つける必要があった。ヴァシルは視線を先に向け、雑草をかき分けながらできるだけ早く進んでいく。


 先ほどまでいた戦場とは違い、森の中はでこぼことした地面で、高低差が激しい。急な坂や、えぐれた段差など、人の手が入っていない森は、ヴァシルに自然の姿を押し付ける。それでも肩で息をしながら、ヴァシルはどうにか進むことはできていた。しかし、辺りにはすでに薄闇が広がっていた。日暮れは近い。今引き返さなければ、戻る道を見失ってしまうかもしれない。ここまでだろうか――そう諦めかけた時、ヴァシルの視界に動く何かが見えた。咄嗟にヴァシルは近くの木の陰に身を隠す。


 さらさらと、かすかに聞こえてくる水の音。見れば離れた先に長く細い小川が流れている。その水際に、膝を付く男の姿があった。ラスカーだ。何をしているのか、息をひそめながらしばらく観察していると、小川に両手を浸し、ばしゃばしゃと洗っているようだった。そして手のひらにすくった水で顔も洗う。どうやら浴びた返り血を流しているらしい。


 今のラスカーは無防備で、やるなら絶好の機会だ。多少距離はあるが、気配を殺しながら近付けば、確実に捕らえることも仕留めることもできそうだった。ヴァシルは深呼吸で気持ちを落ち着けると、腰の剣に手を置きながら、ラスカーの背後へ回り込もうと一歩を踏み出す。


「いるんだろ」


 ヴァシルの心臓が跳ねた。咄嗟に木の陰に戻り、相手の様子をうかがう。それは初めて聞くラスカーの声だった。疲れているせいか、少しかすれた低い声だった。


「……出て来い」


 ラスカーは完全にこちらの存在に気付いていた。いつ気付かれたのかわからないヴァシルは、悔しく思いながらも、隠れ続けることもできず、意を決して木の陰から出た。そしてすぐに剣を構える。そんなヴァシルを、ラスカーはいちべつする。


「落ち着け。やる気はない」


 立ち上がったラスカーは、濡れた両手を服の裾で拭いながら言った。だがヴァシルはその言葉を信じられず、まだ剣を下ろさない。それを見てラスカーは続けた。


「お前に手を出すなと言われている」


「……?」


 一瞬首をかしげそうになったヴァシルだが、ラスカーにそんなことが言えそうな人間はただ一人しか思い当たらない。あの黒いドレスの女だ。しかし、なぜそんなことを言ったのか、ヴァシルは疑問だった。二人にとって自分は邪魔な存在のはずだ。さっさと殺してしまいたいと思わないのだろうか……。だが二人の都合などどうでもいい。手を出さないというのなら、こちらが好きに動けばいいだけのことだ。


「それなら、こっちから行くぞ」


 ヴァシルは剣を握る手に力を入れる。これにラスカーは顔を向けると、鋭い眼差しで見つめながら言った。


「どうしてもと言うのなら、俺は容赦しない。その時は覚悟をするんだな」


 ラスカーの瞳に暗い光が浮かぶ。それを見たヴァシルはぞっとする感覚を覚え、思わず握る手から力を抜いていた。やはり、この男は獣だ――ヴァシルは無意識にそう思った。


「……お前は、なぜ人を殺す? 殺す目的は何だ」


 嫌悪の表情でヴァシルは問うが、ラスカーはこれに何も答えない。


「誰かへの恨みか、復讐か?」


 聞いたヴァシルを、ラスカーは鼻で笑う。


「どうとでも思えばいい」


 言うとラスカーは踵を返す。その背中に向けてヴァシルは続けた。


「こんなこと、長くは続けさせない。お前は、じきに捕まるんだ!」


 ぴたりと足を止めたラスカーは、背中越しに言う。


「もう少しなんだ。今さらやめられない……」


「何?」


 聞き返すヴァシルを、ラスカーは睨み付けた。


「俺に構うな。構えば、命がないと思え」


 そう言うとラスカーは走り出し、小川を跳び越え、森の奥へ消えていく。その足取りには迷いがなく、この森の地形をよく見知ったような軽い足の運びだった。もしかするとラスカーは、この辺りを根城にしているのかもしれない。そうなると初めてこの森に入ったヴァシルでは、追いかけたところでまかれる可能性が大きい。すぐに追おうとしたヴァシルだったが、そう思い直し、足を止めた。周囲を包む薄闇も、徐々に濃くなってきている。奥へ行くには、もう時間切れだった。すぐ目の前にいるラスカーを追えないのは無念としか言いようがなかったが、暗い森の中をさまようわけにもいかず、ヴァシルは泣く泣く来た道を引き返し始めた。


 とぼとぼと戻りながら、ヴァシルの頭にはラスカーの言った言葉が残っていた。もう少し、今さらやめられない――この言葉の意味は一体何なのか。もう少し人の命を奪うと、何かがあるというのだろうか? それとも、もっと別な比ゆ的表現で言っただけなのか。今さらやめられないというのも、深く読めばいろいろな意味に取れる。始めてしまったことを、もう止められないという意味、していることが楽しくて、そこから抜け出せないという意味……。


 ともあれ、これだけではラスカーが殺人鬼になった理由はわからない。だが、何かしら目的があってのことだというのはうかがえる。やつは、ただ狂って人を殺しているわけではないのかもしれない。やつなりの考えで、人を殺す理由があるのだ。このことは、ひとまず戻ってミレスクに報告しようと、ヴァシルは暗くなり始めた森の中を足早に引き返していった。


「……諦めるって、約束したのに。ふふっ……」


 木に隠れる高い段差に、女は長い足を組んで座っていた。遠ざかっていくヴァシルの後ろ姿を眺めながら、赤い口紅を付けた唇は、その口角を上げて笑みを浮かべ続けていた。

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