五話

 休憩もせず、歩き続けたおかげで、軍の野営地には半日ほどで着くことができた。いくつものテントが張られた周囲では、物資が運ばれたり、武器の手入れをしていたりと、戦いの準備がせわしなく行われていた。休む兵士は見当たらず、皆きびきびと動き回っている。


「君、特殊作戦部の傭兵か?」


 不意に聞かれ、ヴァシルは振り向く。そこには防具で身を固めた若い兵士が立っていた。


「はい。ヴァシル・アベレスクです」


「中佐からは聞いてるよ」


 手を差し出され、ヴァシルは握手を交わす。


「……中佐?」


「ミレスク中佐だよ。会ってるだろ?」


 ああ、と納得し、ヴァシルはうなずく。


「特殊作戦部の担当は僕がしてる。報告なんかは僕に言ってくれ」


 それならと、ヴァシルは早速、村がラスカーに襲われたことを伝える。


「――それで、やつはこの先の前線へ向かったと思われます。俺は引き続き、やつを追うと言っておいてください」


「わかった。……それにしても、また村がやられたか。住人を避難させることも考えるべきかな」


 顎に手を当て、兵士は困り切った表情を浮かべる。と、その視線がヴァシルの肩に留まった。


「……その傷、やつにやられたのか?」


 言われて、そう言えば切られていたんだったとヴァシルは思い出す。


「浅い傷ですよ。痛みもほとんど――」


「消毒くらいはしてもらったほうがいい。雑菌が入ると後で厄介だぞ」


 そう言うと兵士は、あるテントの前までヴァシルを連れてやってきた。


「ここの衛生兵に診てもらえ。それじゃ僕は行くから」


「あ、ありがとうございます……」


 ヴァシルが礼を言うと、兵士は小走りで去っていった。この程度の傷なら、治療など必要ないと思ったが、親切に案内までしてもらって入らないわけにはいかず、ヴァシルはおずおずとテントの入り口をくぐった。


「……ん、怪我人か?」


 入ると、目の前の机で道具箱の整理をしていた中年の男性が振り向いた。軍服に白衣を着ているから、彼が衛生兵なのだろう。


「消毒をしてもらえますか」


 言ってヴァシルは自分の肩を示す。


「……ふむ、そこに座って」


 言われた椅子にヴァシルが座ると、男性は整理していた道具箱の中から消毒薬とガーゼを取り出し、ヴァシルの横に座る。


「どれどれ……大した傷じゃないな」


「ですよね……」


「消毒だけでいいだろう。ちょっと染みるぞ」


 男性は消毒薬を傷に付けると、指先で塗り広げていく。ちくちくとした痛みが走る。


「……清潔にしてれば、すぐに治るだろう」


 傷の上にガーゼを貼ると、男性は立ち上がってヴァシルの背中をぽんっと叩いた。


「ありがとうございます」


 ヴァシルがテントから出ようとすると、後ろから男性が聞いた。


「君は兵士じゃないな。傭兵か?」


「……はい。特殊作戦部の仕事で来てます」


 男性は腕を組み、ヴァシルを見つめる。


「特殊作戦部ってことは、もしかして、あいつ絡みの仕事か?」


 あいつとは、誰のことを指しているのかすぐにわかり、ヴァシルはうなずく。すると男性は大げさな溜息を吐いて見せた。


「ということは、この辺りにいるってことか?」


「予想では、この先の前線に現れると――」


「またか! まったく……」


 苛立った様子で椅子に座ると、男性は机に頬杖をつく。


「この前の戦地でも、あいつに暴れられたんだ。ただでさえ休む暇がないっていうのに、あいつが現れると、ここまで戦場になる」


「やつは、後方の兵士も襲うんですか?」


「違う違う。そういう意味じゃなくて、負傷者と死体が山ほど送られてくるんだ。そりゃもう足の踏み場もないくらいに。私ら衛生兵はその間、食事も睡眠もできないから、前線とはまた違う意味で地獄になる」


「自軍の兵士は、そんなにやつにやられるんですか」


「そうさ。まったく見境がなく、好き勝手に殺していく。一体どれだけの兵士がやられたか……。君は、あいつをやってくれるんだろ?」


「俺は……」


 仕事としては捕らえることが目的なのだが、気持ちの中では、やつを生かしてはおきたくない――どう答えようかヴァシルが迷っていると、男性は真剣な目を向けて言った。


「頼む。あいつをどうにかしてくれ。若いやつらが無駄に死んでいくのを見取るのは、もうご免なんだ。あんなむなしいことはない。あいつをこの世から消してくれ」


 力強い口調は、男性の気持ちを如実に表しているようだった。やっぱり、やつは殺されるべきなのだとヴァシルは思った。だが、冷静に現実を考えると、報酬のために生け捕りにしたい自分もいる。この仕事はボランティアではないのだ。ヴァシルは生きるために傭兵をしている。正義を気取ってラスカーを追っているわけではない。言われたことを淡々とこなせばいいと頭ではわかっていた。しかし、それに気持ちは反発していた。ひどい光景を目の当たりにして、やつを生かしておいていいのかと……。


 どちらが本当の気持ちなのか、ヴァシルにはわからなかった。どちらも自分の本当の気持ちなのかもしれない。だが一方にかたよることは、今のヴァシルにはできなかった。現実と感情の狭間で、ただ悩むことしかできずにいた。


 グウー、と、テントの中に間の抜けた音が響いた。それが自分の腹から聞こえたとわかって、ヴァシルは思わずその腹を見下ろす。


 その音と姿に、真剣な面持ちだった男性は、ふっと表情を緩めた。


「腹が減ったのか」


 そう言えば、昨晩から何も食べていなかったことに気付き、ヴァシルは改めて空腹を感じた。


「話の途中で、すみません……」


 ばつが悪そうに言うヴァシルを、男性は優しい目で笑う。


「いいって。早く食べに行け。ここ出たら右のほうのテントだ」


「でも、俺、兵士じゃないですけど……」


「ここのやつらは、そんなケチなことは言わないよ。味見で食べたいって言うんなら別だろうがね」


「はあ……それじゃあ、行ってみます」


「まずくても我慢しろよ。……頼むぞ」


 男性の最後の一言に、ヴァシルは小さくうなずいてテントを出た。期待のこもった言葉だったが、今すぐそれに応えることはできそうにない。もやもやした気持ちのまま、ヴァシルは食事を取りに向かう。


 外から来た傭兵だと知っても、炊事番の兵士は嫌がる顔もせず食事を出し、おかげでヴァシルは腹を満たすことができた。夕暮れ時になっても、野営地の中はせわしなく、近付く戦いに向けて皆余念がない。そんな様子を眺めながら、今日はここで休ませてもらうことにしたヴァシルは、かがり火がたかれ始めた野営地を離れ、用を足そうと森の木陰やってきた。それを終えて、再び戻ろうと踵を返した時、視界に飛び込んできた人物にヴァシルは足を止めた。


「……誰だ」


 木に体を預け、腰に両手を置きながら、妙に艶のある眼差しでヴァシルを見つめる女性がいた。長くうねる黒い髪に、丸く大きな黄色い瞳。真っ赤な口紅や、体の線を見せる黒いドレスは、どこかの夜会にでも行くような姿で、誰が見てもまるで場違いな格好だった。それにしてもいつからいたのだろうと思いながら、ヴァシルは相手の反応を待つ。


「誰だはないんじゃない? 助けてあげたのに」


 その声を聞いて、ヴァシルは瞬時に思い出す。


「やつの仲間の……女……」


 ラスカーに首を絞められていた時に聞こえた、あの女の声に間違いなかった。


 これに女は嬉しそうに言う。


「憶えていてくれたのね……」


 丸い目を細め、微笑を浮かべた女は、ドレスのスリットから白く長い足を見せながら、ゆっくりとヴァシルのほうへ歩み寄ろうとする。


「近付くな!」


 強い口調で言うも、女は意に介さず、近付いてくる。


「切られたいのか」


 ヴァシルは腰の剣に手をかける。それ以上近付くなと威嚇をしたつもりだったが、女はまるでその動作が見えていないかのように、微笑を浮かべたまま、しずしずと向かってくる。止まってくれない女に、ヴァシルは困惑し、柄を握る手をためらわせる。


「人間の女を、切れるの?」


 笑いを含んだ口調で、女はヴァシルの目の前までやってくると、剣を握るその手に優しく触れる。


「さ、触るな……」


 慌てて身を引こうとするヴァシルだったが、女は触れた手を握り締める。


「ふふっ……面白い人」


 口の端を上げて微笑む女の目と合い、ヴァシルは慌てて握ってくる手を振りほどいた。そしてすぐに女との距離を取る。


「……そんなに離れなくてもいいじゃない」


 女はすねたように言う。


「やつに言われて来たのか」


 ヴァシルの問いに、女はわざとらしく首をかしげて見せる。この態度に、ヴァシルは眉間にしわを寄せながら聞く。


「やつの仲間なんだろ。俺を誘惑して、騙し討ちにでもする気か」


 険しい表情で言うヴァシルを、女は薄笑いを浮かべて見つめた。


「仲間? あなたはそう思っているのね」


「違うって言うのか」


「さあ? どうなんでしょう……」


 はぐらかし、女は笑う。


「でも、騙し討ちなんてする気はないわ。あなた、面白そうな人だし……。誘惑してほしいなら、いくらでもしてあげるけど?」


 そう言うと女は、ドレスから太ももをちらと出し、ふくよかな胸元を強調するようにヴァシルへ見せた。


「男って、こういうのが好きなんでしょう?」


 色っぽい眼差しで、女は妖しく笑う。


「馬鹿にするな! 人殺しの女に惑わされるか」


「あなたとなら、一緒になってもいいと思うんだけど……どう?」


 甘い声で誘う女の態度に、ヴァシルの苛立ちが募る。


「うるさい! 一体何しに来たんだ」


 怒鳴るヴァシルを見ながら、女は楽しげに笑う。


「お話くらいしてもいいでしょう? そんなに焦らないで……。私があなたに会いに来たのは、忠告をしようと思ったからよ」


 すると女はヴァシルの目の前に立つと、笑顔を消し、真っすぐな目で言った。


「ラスカーを追っては駄目よ。追えば、殺されるわ」


 丸く黄色い瞳は、見つめていると吸い込まれそうな気がして、ヴァシルは視線をそらせてから聞いた。


「それは、やつのために言ってるのか? それとも俺のために言ってるのか?」


「もちろん、あなたのためよ。あなたの……」


 艶をにじませる目を無視しながら、ヴァシルは鼻で笑った。


「そんな忠告、聞くと思うか? こっちは仕事なんだ。俺はやつを追う」


「何で聞いてくれないの? これは、あなたのためなのよ」


 悲しげに言う女を、ヴァシルは睨み付ける。


「今ここでお前を捕まえたっていいんだ。やつの仲間だって言えば、軍も喜んで引き取るはずだ。そうされたくなければ、早く俺の前から消えろ。そしてやつとの縁を切ることだ」


 女性を捕らえることは、たとえどんな理由であろうと、ヴァシルにはあまり気持ちのいいことではなかった。弱い女性を虐げているような気がして、乗り気になれないのだ。態度は気に入らないが、この女はラスカーよりはまだまともそうで、立ち直ることができるのではと思え、ヴァシルは今回だけは見逃してやろうと思ったのだが、その気持ちは、この女にはまったく不必要なものだった。


「ふふ……ふふふ……」


 女は笑いをこらえるような仕草を見せた。これにヴァシルは怪訝な表情を浮かべる。


「……何笑ってるんだ」


「だって……あなたが面白いことを言うから……」


 女は笑いをこらえ続ける。


「……俺には、お前を捕らえることができないと言いたいのか」


 これに女は顔を上げ、にやりと笑みを作った。


「あなた、私の忠告の意味を間違えているみたいね」


「どういうことだ」


「追えば殺されるとは言ったけれど、私はあなたがとは、一言も言っていないわよ」


 ヴァシルは不審な目で睨む。


「俺が殺されなきゃ、誰が殺されるっていうんだ」


 ヴァシルの前で腕を組むと、女は宙を見つめながら言う。


「それにしても、とっても美しい人だったわね。エリエという女性――」


 その名を聞いて、ヴァシルの中には途端に動揺と焦りが湧いた。


「何で彼女のことを……!」


 エリエと付き合っていたことは、友達やお互いの家族にも話していないことだった。話す前にエリエは国を出て行ってしまい、このことはヴァシルの胸の中だけに納まっているはずだった。それが他人に知られることは、まずないことなのだが、もしあり得るのだとしたら、それはもう一人の当事者――エリエが話したと考えるしかなかった。


 ヴァシルは女に駆け寄ると、その両肩をわしづかみにして聞く。


「彼女に、エリエに会ったのか!」


「あなた次第で、これから会いに行ってもいいわよ。ふふっ……」


「何でエリエを知ってるんだ。俺は彼女の話は誰にも――」


「随分と慌てているのね。まあ、それも仕方ないわね。だって、夢にまで見る女性だものね……」


「夢……?」


 笑う女の黄色い目が、きらりと光る。夢と聞いて、ヴァシルはうっすらと思い出す。エリエの出てきた夢の記憶。その中で確か、聞き覚えのない女性の声が聞こえた――


「……まさか!」


 はっとして、ヴァシルは女から手を離し、数歩後ずさる。そんなはずはないと思いながらも、耳に残るかすかな夢の中の声は、目の前の女から発せられる声と似すぎていた。そう知ると、ヴァシルはまるでわけがわからなくなった。夢に女の声が聞こえたこと、その女がエリエを知っていること。この二つのつながりが、ヴァシルにはどうにも見えなかった。


「思い出してくれたようね」


 女は不敵な笑みを浮かべる。


「本当に、夢の中の声は……」


 信じられない表情のヴァシルを、女は見つめる。


「実は私、最初はあなたが邪魔だったの。でも、あの夢を見て、すっごく面白そうな気がして――」


 言いながら女は、ゆっくりと近付いてくる。


「お前、何者だ」


 警戒して睨むヴァシルの視線に、女の足は止められる。


「……何者だと思う?」


「こっちが聞いてる。答えろ!」


 いきり立つヴァシルに、女は楽しそうに笑い声を上げる。


「夢を見られたことが、そんなに怖いのかしら?」


 得体のしれない目の前の女に、ヴァシルは不安を抱きながら奥歯を噛み締めた。


「そんなに硬くならないで……。ただあなたは、私の忠告を聞いてくれたら、それでいいのよ。簡単でしょう?」


 押し黙り、反抗的に睨むヴァシルを見て、女は口だけで笑う。


「言うこと、聞いてくれないのね……それなら、こっちにも考えがあるわ。あなたがどうしてもラスカーを追うつもりなら、あなたの彼女のことをラスカーに教えて殺してもらうわ」


「何を――」


「これは言うことを聞いてくれなかった場合よ。あなたが追うのを諦めると言うなら、私はもちろん、彼女のことは話さないわ。……さあ、どっちを選ぶ? 簡単に選べるわよね」


 ほぼ脅しと言っていい話に考える余地などなかった。ラスカーを追えば彼女を殺す――選択とは名ばかりで、そう言われているも同然だった。女がエリエについて、どれだけのことを知っているのかはわからない。名前だけなのか、その住まいも知っているのか……。それが判断できない今は、悔しいがこの脅しに屈するしかないとヴァシル思った。エリエに万が一のことがあっては、悔やんでも悔やみ切れない。そんな事態にはしたくなかった。


 唇を噛み、ヴァシルは微笑む女を見やる。


「……わかった。やつのことは、追わない」


 聞いた女は、満面の笑みを浮かべる。


「嬉しいわ。私の言うことを聞いてくれるのね」


 そう言うと、女はヴァシルに近付き、その頬に手を添える。


「俺に触るな――」


「約束よ。いいわね……」


 女の顔が迫ったかと思うと、頬を引き寄せられたヴァシルは、そこに口づけをされた。咄嗟に押しのけたヴァシルだが、女は艶めかしい眼差しでにやりと笑うと、黒髪をなびかせながら、森の奥の暗がりへ溶けるように消えていった。


 触れられた感触の残る頬を袖で拭いながら、ヴァシルは見えなくなった女の不気味さを感じていた。一体、あの女は何者なのだろうか。ラスカーに加担しているのは間違いなさそうだが、ヴァシルの見た夢のことを知っていたのはなぜなのか。ただの偶然にしては言い当て過ぎているし、前もってヴァシルについて調べていたとしても、その日見た夢の内容を当てることなど、不可能に近い。しかも、その夢の中で自身の声を聞かせるなんて、常識では考えにくいことだ。


 魔術の類でも操れるのだろうか――ヴァシルはそんなことをふと思ったが、あまりに馬鹿げているとすぐに頭から消した。きっと自分にはわからない手の込んだ方法で、ラスカーを追わせないよう怯えさせただけなのだ。種を明かせば、おそらく大したことはないはず――そう思うが、女はエリエを知っていた。それだけがヴァシルの不安をあおっていた。エリエという名前は、決して珍しいものではない。各地へ行けば各地である名前だ。女が適当に言った可能性も否定はできない。だが、もしあのエリエと特定していたら? どこにいるかまで把握していたら? そう思うと、ヴァシルは女の言葉を無視することはできなかった。もしかしたら、ヴァシルを悩ませ動けないようにすることがやつらの目的なのかもしれない。エリエという名を出し、いもしない人質を匂わせる。しかし、ヴァシルには真偽を判断する術がない……。


「……くそっ」


 思わず悔しさが口からこぼれた。あの女は、もしかするとラスカーよりも危険なのでは――ヴァシルはそんな気がした。

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