四話
翌日、ミレスクが許可を取ってくれた隊と同行し、ヴァシルは北の野営地を目指して出発した。平原を歩き、森を抜け、休憩を挟みながら三日間歩き続ける。ヴァシルは体力に自信のあるほうだったが、これほど長く歩き続ければ、どうしたって息が上がってしまう。肩を上下させながら、どうにか前の兵士に付いていくが、さすが鍛えられた兵士は、誰一人として遅れる者はいなかった。
「おい、平気か?」
最後尾の兵士が気にして声をかけた。その背中には大きな革の袋を背負い、腰には長く重そうな剣を下げている。そんな兵士は頭から足の先まで、鉄の防具をまとっていた。一体どれだけの重さだと聞きたくなるほどの姿だが、兵士は平然とした様子で、呼吸も一切乱れていなかった。
「傭兵ってのは、皆この程度なのか?」
あざける言い方に、ヴァシルは思わず顔を上げ、睨み付けた。
「何だ。まだそんな余裕があるんじゃないか。遅れてはぐれるなよ」
笑いながら言うと、兵士は足を速め、先へ行く。ヴァシルも離されてたまるかと、体力を振り絞ってその後を追った。
「――じゃあ、俺達はこっちだから。気を付けて行けよ。それと、くたばんなよ」
林の中の分かれ道を隊は左へ曲がり、そのまま遠ざかっていってしまった。残されたヴァシルは、行き先が書かれた立て札に手をかけながら、未だに荒い呼吸を繰り返していた。意地になって追いかけたが、鍛え抜かれた兵士に体力勝負を挑むなど、我ながら馬鹿なことをしたと、ヴァシルは今さらながら後悔していた。
のどかな鳥のさえずりを聞きながら、乱れた呼吸を整えると、ヴァシルは立て札に書かれた村のほうへと進む。この村を抜けた先に、目指す野営地はあったが、今日はもう時間がない。枝葉に囲まれた空を見上げれば、青かった色は紫色に変わりつつあった。どうせ歩き続ける体力もない。ヴァシルは村で一晩休むことにして、先へ続く道なりに進んでいった。
村に到着した時には、もう日は完全に暮れてしまっていた。暗い中で家から漏れる明かりを眺めながら、泊まれる宿を探す。こんな小さな村に宿などあるか心配したヴァシルだったが、その看板を見つけて一安心する。前払いだという宿代を支払い、ヴァシルは部屋に案内された。安い料金に見合った狭い部屋だったが、ベッドで寝られれば十分だと、疲れた体を早々に横たえた。空腹感は若干あったが、それよりも疲労感が上回って、外へ食べに行く気力は、湧いてきた眠気にあっさりと退けられてしまった。最後に残った意識で壁にかけられたランプの火を消すと、ヴァシルは一分も経たないうちに夢の中へと引き込まれていった――
ぼんやりとした白い空間。そこをヴァシルはさまよっていた。霧なのか煙なのか、よくわからないものが宙を漂っている。でも苦しさや不安はない。何かがあると確信して、ヴァシルはひたすら直進していく。
そして、その何かが見えた。白いベールの向こうに、明るい色をした人影が薄く浮かび上がっている。走って近付けば、人影はより鮮明に見えてくる。スカートとブラウスを着た華奢な体。七分袖から伸びる細い腕。ヴァシルと同じ金色の髪は、後ろで長い三つ編みに結われている。なんて美しいのだろうと、その傍らに立てば、桃色に染まった横顔は不意にヴァシルに振り向いた。
「……エリエ」
名前を呼ぶと、彼女――エリエは橙色の瞳を細めて笑顔を浮かべた。まるで太陽のような輝く笑顔は、ヴァシルの心をこれ以上ない幸せな心地にしてくれる。それと同時に、もう一人のヴァシルは、エリエの姿に懐かしさと切なさを感じていた。
四年前、ヴァシルが十七の頃。同じ町に住む十六歳のエリエは恋人だった。真面目で気立ても優しく、当時のヴァシルとは正反対の性格だったが、なぜか不思議なほど気が合い、それが付き合うきっかけとなった。
しかし、恋人でいられたのは、ほんの短い間だけだった。他国に住む祖母の体調を気遣い、エリエは家族で国を出ることになったのだ。おそらく戻ることはないという言葉に、十七だったヴァシルに成す術はなかった。ただ戦争中という状況下で移住することに、一言、気を付けてと言ってあげるのがヴァシルの精一杯だった。
嫌って別れるのではなく、やむにやまれず別れたことは、ヴァシルの気持ちを中途半端なまま置き去りにされていた。エリエを思い出せば、いつだってあの頃の気持ちの感触に触れられた。でもそれでは何も進まないと、ヴァシルは最近になって、やっとエリエへの気持ちを消したつもりだった。だがそうではなかったらしい。
目の前には、十六歳のままのエリエが微笑んでいた。これが夢だとヴァシルはわかっている。それでも、その綺麗な顔に触れたい衝動は抑えられない。自分にはまだ、未練があるんだ――ヴァシルはそう気付いた。時間が経っても、エリエを愛する気持ちは色あせていない。それどころか、会いたがっている自分がいる。
「エリエ、また、会えるか……?」
聞いたヴァシルに、暗く沈んだ眼差しをエリエは送る。
「家族で、オルアデア王国へ移り住むの」
それは四年前に聞いたエリエの言葉だった。オルアデア王国――そう言えばとヴァシルは思い出す。いろいろな国に出入りしていたせいで、国名など意識していなかったが、自分が今いるここは確か――
「ふーん……美人な恋人だこと……」
突然、聞いたことのない女性の声が言った。艶があり、どこか魅惑的な声色は、エリエとは明らかに違う。
ヴァシルは誰だと周囲を見回す。しかし声の主はどこにもいない。これは夢だ。どんなことが起きてもおかしくはなかったが、この声にはどうも異質なものを感じた。
見ればエリエが不安な表情を浮かべている。そろりと向けられたその視線とヴァシルは合った。
「大丈夫だ。俺がいる……」
安心させるため、細い手を握ろうと腕を伸ばした時だった。
「きゃああああっ」
どこからか断末魔のような甲高い悲鳴がして、ヴァシルとエリエは弾かれたように同じ方向へ振り返った。その先には渦を巻く暗闇だけが見える。それは徐々に二人のほうへ迫ってくる。なぜか動けない二人は、その暗闇を凝視したまま、体ごと飲み込まれるのを黙って見ているしかなかった――
「…………はあ」
夢から覚めたヴァシルは、額に腕を乗せ、後味の悪い終わり方に溜息を吐いた。あの悲鳴は何だったのだろうと思いながら、それにしても迫力のある声だったと自分の夢に感心する。
「エリエ……」
体を起こし、ベッドに座ったヴァシルは、久しぶりに思い出したかつての恋人を思い返す。ヴァシルの記憶の中では、いつまでも十六歳の姿のままだが、二十歳になったエリエは、一体どれほど変わり、どれほど美しさを増しただろうか。
小さな四角い窓の外は、うっすらと明るくなっていた。そろそろ夜明けのようだ。その遥か彼方を見つめながら、ヴァシルはエリエに思いを馳せる。勘違いでなければ、ここはオルアデア王国だ。そして、エリエはオルアデア王国へ移り住むと言った。もしかしたら、彼女はここにいるかもしれない。この国のどこかに……。
そうわかれば、今すぐにでも捜したい気持ちは強かったが、ヴァシルはそれを忘れるように頭を振った。今は仕事を引き受けてしまっている。それをほったらかして恋人捜しをするわけにはさすがにいかなかった。これを終えて、報酬を貰った後なら、好きなだけ自由に捜し回れるのだから、まずは仕事にだけ集中しようと、ヴァシルは自分に言い聞かせた。
立ち上がり、背伸びをすると、手櫛で軽く髪を整えてから部屋を出る。狭い廊下を進み、入り口が見えたところで、ヴァシルは足を止めた。
「……花瓶?」
前日宿代を支払ったカウンターの前に、陶器の花瓶が粉々になって落ちていた。黄色い一輪の花は、陶器の破片と水に浸り、力なく床に伏せている。主人が気付かず落としたのか、それとも自分以外の客が割ってしまったのか、とりあえず教えておこうと思い、ヴァシルはカウンターの奥に声をかけてみた。
「あの、いますか?」
物が乱雑に置かれた小さな空間の奥に、ここの主人の部屋と思われる扉が見えるのだが、何度呼んでもその扉が開くことはなかった。
「……まあ、いいか」
入り口の前なら、主人もすぐに気付くだろうと、ヴァシルはそのまま外へ出ようとした。
「うあ――あ――あああ――」
妙な声が聞こえた気がして、ヴァシルは足を止めた。男性の声のようだったが、途切れて聞こえたそれは離れたところから響いてくるように感じた。不審に思いながらも、ヴァシルは宿から出る。
一歩出ると、朝の冷たい空気が全身を包み込んできた。山とは違い、ここでの吐く息はさすがに白くはならないが、冬の寒さにヴァシルは肩をわずかに震わせた。夜明け前ということもあって、薄暗い村の中は、まだしんと静まり返っている。風や鳥の声も聞こえない。異様なほどの静寂だった。何かおかしい――ヴァシルは直感的に思った。あまりに静かすぎるのだ。時間が早すぎるとは言え、多少は何かしらの音や気配がするものだが、まるで住人が消えてしまったかのように、辺りからは物音一つしてこない。その分ヴァシルが立てる足音がやけに大きく聞こえた。
食事をしようと村を歩いていたつもりだったのだが、ヴァシルはそんな場合ではないのではないかと感じ始めていた。通り過ぎるいくつかの民家の扉が、なぜか半分開いているのが見えたからだ。一軒なら閉め忘れだろうとも思えるが、こう何軒もあると、そんな単純な理由とは思えなくなる。ヴァシルの中には嫌な想像ばかりが浮かんだ。
「クゥーン……」
寂しげな鳴き声がして、ヴァシルは振り向く。見ると草むらの奥から、一匹の痩せた茶色い犬が出てきた。その首には革紐で作った首輪が付いている。どうやら飼い犬らしい。
「……どうした。ご主人様に捨てられたか?」
足下に来た犬に話しかけながら、ヴァシルは周囲を見る。この犬の飼い主らしき人影は見当たらない。放し飼いなのだろうかと思った時だった。
犬はヴァシルから離れると、すぐ近くの民家の中へ入っていった。その家も玄関の扉が開いていた。飼い主の家なのか、無関係の家なのかはわからなかったが、とりあえずヴァシルは犬を追ってその家の中をのぞいてみた。
「すみません、誰か……」
玄関から呼びかけるが、何も返ってはこない。部屋を見回すが、ランプもかまどにも火はなく、家の中は薄暗い。犬の姿を捜すが、棚の陰や机の下にはおらず、おそらく左にある部屋へ行ってしまったのだろうとヴァシルは思った。だが勝手に入っていいものかと迷ったヴァシルだったが、呼んでも返事はなく、少し見るくらいならいいかと思い、家の中へ足を踏み入れた。
板張りの床をきしませながら、ヴァシルは左の部屋に入る。そして、すぐに体を硬直させた。
「これ、は……」
部屋にあったのは、二人用のベッドと、そこにもたれて床に座る血まみれの男性だった。その傍らでは、犬が所在なさげに歩き回り、血だまりを踏んだ足で赤い足跡を無数に付けていた。
顔をしかめたヴァシルは、恐る恐る男性に近付く。四、五十代くらいの男性は、寝巻姿で絶命している。致命傷は首にある大きな傷だろう。首から下は乾いた血で染まってしまっていた。視線を巡らすと、ベッドの反対側にも人の頭が見えた。回り込んで見てみると、女性が息絶えていた。おそらく男性の妻だ。同じ姿勢、同じ寝巻姿で、ほぼ同じ傷を付けられていた。きっと同じ犯人に殺されたのだろう。
「むごいな……」
長くは見ていられない光景から目をそらし、ヴァシルは血の臭いが充満した部屋から外へと出た。
「一体誰がこんなこと――」
徐々に明るくなってきた村を見渡しながらそう呟いた時、ヴァシルの背筋は途端に寒くなった。
「――まさか」
見開かれたヴァシルの目には、半分開いた民家の扉が映っていた。信じたくはなかったが、予感はそうだとはっきり言っていた。違っていてくれと願いながら、ヴァシルの足は確認のために動いていく。
開いた扉から、ゆっくりと中をのぞいてみる。薄暗い部屋の奥、木箱の置かれた壁際に、女性が不自然な体勢で横たわっていた。床には赤黒いものが広がっている。
踵を返したヴァシルは、通り過ぎた民家へ引き返し、一軒ずつ中を確認していった。誰もいない家もあったが、そこの住人は運よく逃げられたのだろう。だが、ほとんどの家には、すでに殺された住人の亡骸が残されていた。ここの村人は、昨晩の内に惨殺されていた――この事実に、ヴァシルは呆然として、じわじわとせり上がってくる恐怖を感じていた。そして、夢で聞こえたあの悲鳴は、もしかすると村人の悲鳴だったのではという気もしてくる。眠りながらも、自分は村の異変を聞いていたのかもしれない。もっと早く起きていれば――そんな後悔がよぎったが、それよりもこの惨状を作った犯人を見つけることのほうが先だった。
ヴァシルに思い当たる人物は、ただ一人しかいない。傭兵四人を殺した、ラスカー・カルプ。村人を皆殺しにするなど、やつの他には考えられなかった。
「……こっちの読みが外れたな」
ミレスクもヴァシルも、ラスカーはここより先の野営地に現れると予想していたが、どうやらやつは、こちらの想像よりも冷静だったようだ。兵士が大勢集まる危険なところよりも、少し遠いが安全な村を目指す選択をした。当然と言えば当然の選択だが、ラスカーのこれまでの印象が強すぎて、強硬な行動しかしないものと考えていたが、やつも人間だ。ちょっとは考えることもあるのかと、ヴァシルはラスカーという人物をわずかに修正した。
そう言えばとヴァシルは思い出す。宿を出る前、男性のかすかな声が聞こえた。遠くからの声だったが、少なくともあの時点では、まだ誰かは生きていたはずだ。逃げた村人のことも考えれば、どこかに隠れて難を逃れ、生き残っている人もいるかもしれない。もしいれば、ラスカーの行方を知っているかも……。
そう思ったヴァシルは、村の生き残りを捜そうと方向を変え、振り向いた。
「!」
至近距離で、その茶色の瞳と目が合い、ヴァシルは咄嗟にかがんで横に飛びのいた。その直後、ヴァシルの真横には血の付いた剣が勢いよく振り下ろされていた。あまりに唐突な出現に、ヴァシルの鼓動は早鐘を打つ。
「……ラスカー!」
呼ばれた男は、振り下ろした剣を持ち上げると、乱れた長い髪の間からヴァシルのほうを見る。その服装は以前のものとは変わり、新しいシャツとズボンの上に革のコートを羽織っていた。濡れた服は脱ぎ、ここで服を調達したのだろう。だが着替えた服も、すでに大量の返り血で汚れていた。こけた頬にも、点々と赤いものが付いている。
「そっちから現れてくれるとはな……」
呟き、ヴァシルは口の端を上げる。捜す手間が省け、これは好都合だった。上手くすれば、捕らえることもできるかもしれない。だが油断は禁物と、はやる気持ちをヴァシルは抑える。要塞でラスカーの動きを目の当たりにして、一筋縄ではいかない相手だとわかっている。まずは慎重に様子を探ることにした。
「お前が、村人を殺したんだな」
ラスカーを見据えながら、ヴァシルは腰の剣をゆっくりと引き抜く。そのラスカーは、無表情でじっとヴァシルを見つめ返していた。向こうも出方を探っているのだろうか。
「その剣を置け」
言ってもラスカーは動かない。聞くわけはないかと、ヴァシルは小さく息を吐き、険しい視線を送る。
「抵抗する気なら、俺も容赦――」
言葉の途中にも構わず、ラスカーはいきなり切りかかってきた。
「なっ――」
虚をつかれ、慌てて剣で防ぐが、反撃をする機会を見失い、ヴァシルは攻め込まれていく。連続する攻撃は間合いを取ることを許さず、お互いの剣がぶつかって鍔迫り合いとなった。
「……くっ」
歯を噛み締め、ヴァシルは懸命に押し返そうとするが、ラスカーの力は強く、逆に押し込まれていく。目の前の顔は、無表情から鬼気迫るものへと変わって、見開かれた両目は常軌を逸した光を宿していた。
その様子にぞっとしながら、もう耐えきれないところまで押し込まれると、ヴァシルは一か八かで蹴りを放った。足はラスカーの腹に当たるはずだったが、その直前で足首をつかまれ、止められてしまうと、そのまま上まで持ち上げられて、ヴァシルの体は後ろへ転がるように引っくり返った。背中を強く打ち、仰向けで倒れるヴァシルの上に、ラスカーが剣を構えて見下ろす――絶体絶命だった。
村人の血にまみれた剣が、静かに振り上げられる。それを見上げながら、ヴァシルの頭は真っ白になっていた。こんな時ばかり恐怖は思考の邪魔をする。どうすればいい? という自問だけが繰り返されるだけで、その答えは出てこない。下から見えるラスカーの目が笑ったように見えた。俺は死ぬ――ヴァシルが諦めた時だった。
こつ、と軽い音が聞こえた。それは一度だけではなく、間を置いて二度、三度と続く。ラスカーも気付いたのか、振り上げた剣を下ろすと、苛立ったように周囲を見回し始めた。
ヴァシルはふと横の地面を見る。こつ、と音がすると、地面には手のひらに収まる小振りな石が転がってくる。
「逃げて!」
その言葉に、ヴァシルははっとして、素早く立ち上がる。瞬間、振り向いたラスカーの剣が足をかすめたが、間一髪逃れることができ、ヴァシルは距離を取って体勢を整える。
悔しさを滲ませるラスカーは、声のしたほうへ顔を向ける。民家と木の隙間、そこに一人の少年が立っていた。十二、三歳くらいのその少年は、足下の石を拾いながら、ラスカー目がけて思い切り石を投げていた。
「出てけ! 人殺しはどっか行け!」
目に涙を溜めながら、少年は石を投げ続ける。投げた石は時折ラスカーの足や胸に当たったが、怪我を負わせるほどの勢いはない。それでも少年はやめなかった。
これにラスカーは鼻で笑う。そして、歩き始めた。何をしようとしているのか、ヴァシルはわかり、咄嗟に近付いて剣を振った。
「行かせるか……!」
背を向けるラスカーにヴァシルは襲いかかる。だが振り向きざまに剣を振ってきたラスカーにヴァシルの剣は弾かれ、肩口を浅く切られてしまう。よろめき、怯んだヴァシルを横目に、ラスカーは少年に向かって走り出した。
「……逃げろ、早く!」
ラスカーを追いながら、ヴァシルは大声で叫んだ。これに戸惑う少年の顔があったが、近付くラスカーの姿に、足がすくんで動けないようだった。
「逃げるんだ!」
再度叫んだ時、ようやく少年は動き始めた。踵を返し、民家の裏へ逃げる。しかし、もう遅かった。民家の裏へ消えた時には、ラスカーは少年に追い付き、その腕をしっかり捕まえていた。
「くそっ――ラスカー!」
奥歯を噛み、急いで駆け付けたヴァシルは、少年を捕らえるラスカーに剣を振る。それをひらりと避けたラスカーは少年から離れると、不気味な笑みを浮かべて剣を構えた。
ヴァシルは対峙しながら、地面に倒れる少年に目をやる。仰向けになった少年は、胸から大量の血を流したまま動かない。胸を貫かれ、すでに絶命していた。
「お前は……!」
悔しさと怒りの眼差しでヴァシルは睨み付ける。女も子供も関係ない。こいつは見た人間すべてを殺す獣なのだ。そこに人の心など微塵も入り込まない。こいつはもはや人ではないのだ。人から獣へと変わってしまっている――以前ミレスクが言っていたことは、まさにその通りだとヴァシルは痛感していた。こんな残酷なことをして笑顔を見せられるなど、正気とは思えなかった。生け捕るよりも、こんなやつはすぐに殺してしまったほうがいいのではないかと思えてくる。
「覚悟しろっ!」
傭兵の四人、そして、たった今殺された少年――その無惨な姿がヴァシルの怒りを増長させる。もう仕事だということを気にしていなかった。生かしておけないという感情が頭を支配していた。
ヴァシルは怒りに任せて剣を振り回す。これに圧倒されたのか、ラスカーは避けながら後ずさりを始める。お互いの剣がぶつかって、静まり返る村に金属音だけが響き渡る。
「ふんっ」
振りかぶった剣を叩き付けるように、ヴァシルは振り下ろす。それを受け止めようとしたラスカーだったが、思いのほか勢いが強く、構えた剣は弾かれ、体がよろめく。その隙をヴァシルはすかさず狙う。
間を置かず、横薙ぎに振られた剣はラスカーの腹へ向かう。が、体勢を崩しているにもかかわらず、ラスカーは迫った攻撃を剣で弾き返した。今度は逆にヴァシルの体勢が崩される。それを見たラスカーは、一気に距離を詰めてきた。
「……させるか!」
ヴァシルは踏ん張りながら剣を突き出す。しかしラスカーはそれをかわし、ヴァシルの顔目がけて剣を振り下ろそうとする。逃げ場のないヴァシルは、苦し紛れに剣を振り回した。すると、ガチッという鈍い音がしたのと同時に、ラスカーの握っていた剣が宙に舞うのが見えた。瞬間何が起こったのかわからないヴァシルだったが、自分がラスカーの剣を知らぬ間に弾いたのだと気付き、咄嗟に反撃に転じようとした。
「……!」
だが、動き始めようとした一瞬に、剣を握る右手はラスカーにつかまれていた。慌てたヴァシルは必死に振りほどこうとするが、左手を使って引きはがそうとしても、力の込められた手は離れない。
「この――」
歯を食いしばり、ラスカーを睨み付けると、冷酷な眼差しがヴァシルを見ていた。人ではなくなった、血を欲する目……。するとおもむろにラスカーは、空いていたもう一方の手をヴァシルに伸ばす。
「――ぐ、うっ」
大きな手のひらは、ヴァシルの喉に絡み付くと、そのまま強く絞め始めた。圧迫される呼吸に、ヴァシルは思わずうめき声を漏らす。左手で首を絞める手を引っかくが、こんな小さな痛みでは手から力が抜けることはなかった。
「あ……が……」
うっ血したヴァシルの顔が、どんどん赤く変色していく。目の前の視界も徐々に妙な色合いに変化していく。剣を握る右手から力が抜けて、今にも剣を落としそうだった。それだけは避けたいと、頭の隅で考えていたが、そんな意識も薄れようとしていた。苦しい。気が遠くなっていく――そんな悲鳴ばかりが、ぐるぐると回っていた。
「ラスカー――」
薄れる意識の中で、ヴァシルは女性の声を聞いた気がした。
「戦いが始まりそうよ――」
いや、と思い直す。気がしたのではなく、聞こえている。
「それは放っておいて、早く行きましょう――」
近いところから聞こえてくる。しかし、ぼやけた視界にはその姿は見えなかった。
「あっちなら、もっとたくさんの人間がいるわ。さあ――」
誘惑するような、甘い声が話しかけている。すると、ヴァシルの首を絞めていた手から、あっさりと力が抜けて、思いがけずヴァシルは空気を吸うことができた。地面にへたり込み、むさぼるように呼吸を繰り返す。圧迫された首をさすりながら、薄れた意識が戻ってくるのを感じる。ぼやけた視界も、少しずつ元の色を取り戻していく。周りの景色がくっきりと見えた時には、目の前にいたはずのラスカーの姿はなく、ヴァシル一人だけが残されていた。
呼吸も落ち着き、ゆっくりと立ち上がる。握り続けていた剣を鞘に収めながら、ヴァシルは周囲を見渡す。ラスカーと、もう一人話していた女性の姿はどこにもない。気付けば夜は明けていて、薄暗かった村は昇った太陽の光で眩しく照らされていた。その中に村人達の亡骸があることなど、想像できないくらい、すがすがしい陽光がヴァシルに降り注いでいた。
気が遠くなりながらも聞いていた女性の声。その耳に残った声を思い出しながらヴァシルは考える。あれは一体誰だったのだろうか。口調からして、ラスカーとは親しげな雰囲気に感じられた。ということは仲間、なのだろうか。しかし、ミレスクは仲間の存在など一言も言っていなかった。最近現れた存在ということも考えられるが……とにかく、話していた内容からして、ラスカーの仲間であることは濃厚のように思えた。そしてそこから、二人が次に向かった場所は、ヴァシルが目指していた野営地の先の前線だということも予想できた。この辺りで戦いが起こるのは、そこしか思い当たらない。二人は前線で、今度は両軍の兵士を殺すつもりなのだ。
後を追えばすぐに見つけられるかもしれないと、ヴァシルは足早に村を出た。この村の惨状については、野営地で報告することにし、まずはラスカーを追うことが先決だった。あんな男を、これ以上野放しにはしておけなかった。見失った隙に、一体どれだけの犠牲が出てしまうか……。自分が止めなければと意気込みながら、ヴァシルは一直線に野営地を目指して進む。
その一方で、一つ気になることがあった。未だに耳に残る女の声を、ヴァシルは別のどこかで聞いた覚えがあるような気がしてならなかった。だがそれがどこだったのか、野営地に到着しても、はっきりと思い出せないでいた。
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