三話

 ラスカーが落ちた壁の穴から離れると、ヴァシルは四人が横たわるほうへ向かった。その足取りは重い。白と灰色だけの空間だったのが、今はその中央に鮮やか過ぎる赤色が広がっている。ためらいそうになる足を無理矢理動かして、ヴァシルは倒れた仲間の傍らにしゃがんだ。


 皆、血に汚れたまま動かない。音を立てて吹き込む風だけが、服や髪を揺らしていた。うつ伏せで息絶えた者もいれば、天井を見つめて事切れた者もいた。一番近くに倒れるイオンがそうだった。喉を貫かれ、大量の血が顎と胸に付いている。さぞ苦しかっただろうと、ヴァシルはその瞬間を想像して、無意識に自分の首をさすった。そして、半分開かれたままのイオンの瞼を、指先でそっと閉じてやる。わずかだが残っていたイオンの体温が、ヴァシルの指に感じられた。数分前まで歩き、話していた時に、まさかこんな姿に変わり果てることなど、誰一人想像していなかったはずだ。すぐに男を捕まえ、帰って報酬を貰う。五人なら簡単にこなせる仕事だと当然のように思っていたのに、それは大きな間違いだったと、こんな形で思い知らされるはめになろうとは……。


 ヴァシルは四人に短い祈りをささげると、足早に要塞を後にした。仲間を置いていくのは気が引けたが、雪の山道を大人一人担いで帰ることは困難だった。かわいそうだが、後日軍の兵士に回収してもらうことにし、ヴァシルは一人で二日の行程を引き返し、街へと帰り着いた。


 冷え切った体を温めることもなく、ヴァシルはその足で特殊作戦部の部屋を訪れた。最初に来た時と同じように、長机と椅子が置かれた部屋には誰の姿もなかった。外の兵士にでも聞いてみようかと思ったヴァシルだったが、部屋の奥の扉に気付き、叩いてみる。


「――誰だ」


 中からミレスクの声が聞こえた。ヴァシルはすぐに返す。


「傭兵の、ヴァシル・アベレスクです」


 すると、かすかな物音がした直後に、扉は静かに開いた。


「……君か。首尾はどうだった」


 ミレスクは無表情で淡々と聞く。期待がこもっていない様子に、ヴァシルも無駄な緊張をせずに済んだ。


「結果から言えば、駄目でした……」


「そうか」


 まるで予想通りと言うように、ミレスクに落ち込む素振りはなかった。


「とりあえず報告を聞こう。座ってくれ」


 ミレスクに促され、ヴァシルは椅子に座った。ミレスクもその正面に座り、机の上で手を組む。


「ところで、他の者達はどうした」


 当然聞かれるとわかっていた質問に、ヴァシルはうつむき加減に言う。


「皆は……やつに殺されました」


 数回まばたきをしただけで、やはりミレスクの表情は変わらなかった。


「……残念なことだ」


「四人はまだ要塞の中にいます。回収をお願いできますか?」


「もちろんだ。言っておこう」


 この返事に、ヴァシルは胸を撫で下ろす。


「彼は、どんな様子だった」


 ミレスクはヴァシルを見据え、聞く。


「痩せているようでしたけど、動きは機敏でした――」


 ヴァシルの脳裏に、あの時のラスカーの顔がよぎる。


「……どうした?」


「俺の印象ですけど、やつは常軌を逸してるような、そんなふうに感じたんですけど……」


 ミレスクは窓に視線をやりながら言った。


「彼はもはや殺人鬼だ。そんな面があってもおかしくはない。まだまともな心が残っていればいいのだがな……」


 遠い目をしたかと思うと、ミレスクはすぐにヴァシルを見る。


「それで、彼は今もユーリア要塞にいるのか?」


「いえ、やつは湖に落ちて、そのまま消えました」


 これにミレスクは初めて表情を変えた。


「湖に? 自分で飛び込んだのか?」


「俺が体当たりした拍子に、穴から落ちたんです」


 ミレスクは、ふむと言って顎に手を当てる。


「彼にしては珍しい失敗だな。しかし結果的には成功とも言えるか」


 再びミレスクはヴァシルを見据える。


「君はまだ、この仕事を続ける気はあるか?」


 聞かれてヴァシルは考えた。油断していたとはいえ、ラスカーはそれなりに腕があるとヴァシルは感じていた。一対一でもやり合うことはできたが、少しの隙が命取りになりかねない相手でもある。何せ傭兵四人を仕留めてしまった男だ。もう二度と油断は許されない。だが、そんな危険でも引き受けたくなるのは、やはり高額報酬のせいだ。今ならこの額が支払われる理由をヴァシルは理解できた。ラスカーを殺すことはできても、生け捕りにすることはかなり難しいだろう。あの素早い身のこなしでは、捕まえる前にこちらがやられる可能性のほうが高い。しかし、それをわかっていても報酬は魅力的だった。十万スールもあれば、数か月は生活が安泰だ。体を張った仕事もしなくて済む。傭兵にとっては、この上ない額なのだ。


「我々としては、続けてもらいたいのだが」


 ミレスクが、やや控えめに言ったところで、ヴァシルは心を決め、口を開いた。


「やります……やってみます」


 危険にさらされても、十万スールの魅力には敵わなかった。金に釣られた自分に内心呆れながらも、傭兵とはそういうものだと開き直り、ヴァシルは真剣な眼差しでミレスクを見る。


「そう言ってくれると助かる。人員不足解消のめどが、未だ立っていないのだ。引き続き傭兵の募集は行っているのだが、今のところ集まっていない」


 椅子から立ち上がりながら言うミレスクに、ヴァシルは聞いた。


「じゃあ、次の傭兵が来るまで、俺は待機ですか?」


 ミレスクの動きが止まる。


「何を言っている。君にはすぐに彼を追ってもらう」


 目を丸くして、ヴァシルはミレスクを見つめた。


「……俺、一人で行くんですか?」


「そうだ。……何か問題でもあるのか」


 ミレスクは、じろりと見る。


「一人でやつを生け捕るのは……せめてもう一人くらいいれば――」


「君一人で捕まえろとは言っていない。彼の腕は私も知っているつもりだ。可能だと言うのなら、もちろん捕まえてもらいたい。だがおそらく難しいだろう。だから君は傭兵が集まるまで、彼を見張っていてもらいたいのだ」


 ああ、と理解したヴァシルは安堵する。尾行するだけなら一人でも十分なことだった。


「居場所はどうやって伝えますか? いちいちここに戻って報告、ですか?」


「見失った時はそれでもいいが、君のことは他の隊に伝えておく。担当の兵士がいるから、その者に報告してくれ」


 そう言うと、ミレスクは奥の部屋に戻り、地図を持って再び戻ってきた。


「湖に落ちて消えたと言ったが、逃げた方向などは見たか」


 机に地図を広げながら聞く。


「落ちた後、右へ泳いでいくのが波紋で見えました。だからこの地図で言うと……北の方角へ向かったことになります」


 ディフ湖の上を指でなぞりながら、ヴァシルは説明した。そこから北の地域を見てみると、ただ山が連なっているだけの、村も町もない山岳地帯が広がっているだけのようだった。ユーリア要塞の辺りで、すでにあの寒さだ。それより北へ行けば、さらに雪に阻まれ、寒さも尋常じゃないことは容易に想像できた。


「でも、俺はそのままやつが北へ逃げたとは思いにくいんですけど……」


 これにミレスクはうなずいて見せる。


「私も同じだ。彼は湖に落ち、びしょ濡れの状態だ。その体でさらに北へ逃げるのは自殺行為にもなり得る。まずは寒さから逃れ、次に暖を取るために、手近な集落などを目指すはずだ」


 ミレスクは目だけで地図上をたどる。そしてある場所に目が留まった。


「軍の野営地か……ディフ湖から南西、ここからは真北の場所だ」


 指し示したところをヴァシルはのぞき込む。ディフ湖からはそう遠くないが、ここからだと結構な距離がありそうな場所だった。


「村はこの野営地を越えた先にしかない。だが彼なら軍だろうと構うことなく襲うだろう。おそらく彼は、この野営地周辺を目指すはずだ」


 ディフ湖から一番近い人気のある場所は、その野営地しかない。ヴァシルもミレスクの考えに同調した。だが、一つ気になったのは、野営地までの距離だった。


「そこに向かうとして、日数はどのくらいかかるんですか?」


「三日から四日くらいだろう。道中にいくつか村もある。道がわからなければ前線へ向かう軍に同行の許可を取ってもいい。途中までなら案内ができるだろう」


 これにヴァシルは一安心する。軍や村があるのなら、食料や寝床の心配はしなくて済みそうだった。


「今日は体を休めて、出発は明日の朝だ。……頼んだぞ」


 地図を畳むと、それを持ってミレスクは早々に奥の部屋へ入ってしまった。ラスカーの件以外にも、やらなければいけない仕事は山ほどあるのだろう。素っ気ないミレスクの心中を察しながら、ヴァシルは部屋を後にし、宿へ向かった。


 そろそろ正午という時間帯で、通りには買い物客や昼食に出てきた兵士達の姿が多く見られた。この国は今戦争中だというのに、人々の表情にその暗さは微塵も表れていない。戦場がここから遠く離れたところだというせいもあるだろうが、もう何十年と続いているこの状況に、人々は開き直っているのかもしれない。もしくは、嘆き悲しむことに疲れてしまったのだろう。自分達を苦しめる戦いは、なかなか終わりを見せてくれない。それなら今ある状況を、できるだけ楽しく過ごすしかないのだ。そうして人々は辛い心を笑顔で隠している。ヴァシルはそう感じた。


 幼い時からすでに始まっていた多国間の戦争に、特に何の感情もなくヴァシルは接してきた。そもそもこの戦争がなぜ始まったのか、ヴァシルは知らない。聞く大人ごとに、始まった理由は様々だった。要するに、大人もなぜ戦うのかわかっていないのだ。そんな戦争に意味などないとヴァシルは冷静に思ったものだが、兵士が剣を振るう姿には、素直にかっこいいと思えた。勉強嫌いで、ろくに学校へも行かなかったヴァシルは、かつて兵士だったという老人に剣術を教わり、その腕を高めた。軍に入ることも考えたが、厳しい規律を嫌がったヴァシルは傭兵という道を選んだ。剣一本で気ままに仕事ができる傭兵はヴァシルの性に合っていた。危険な場面も多いが、剣を活かせる傭兵は、この先も続けたいと思っていた。


 そんな傭兵にとって、この戦争は仕事を増やしてくれるいい環境となっていた。戦いが起これば、当然その地域の治安は悪くなる。泥棒や賊が頻繁に出没し、困った住人が最終的に頼るのは大体傭兵だった。軍の兵士は戦地に取られ、賊に構っている暇がない。その代わりとして傭兵は呼ばれるのだ。報酬は安くても、仕事の数が減ることはない。そんな立場からだと、戦争という現在の状況は決して悪いことではなかった。だがこのまま永遠に続いていいものとはヴァシルも思っていない。無惨な現場を見聞きして、人々の悲しみは痛いほど伝わってくる。戦争はただちに終わらせるべきものだと、心ではわかっていた。しかし、生活を考えると、それでは困るという自分もいた。複雑な心境に答えは出ない。どちらか一方を選ぶのは、ヴァシルには難しいことだった。だから、目の前のできることだけにヴァシルは集中するようにした。助けられるのなら助け、仕事があればそれをこなす。自分ができることを淡々と成し遂げようと決めたのだ。それが、出ない答えの代わりにヴァシルが心がけていることだった。


 どこからか正午を知らせる鐘の音が聞こえて、ヴァシルもちょうど宿に到着した。山で冷え切ってしまった体を早く温めようと、入り口の短い階段を駆け上がる。が、ふと足を止め、ヴァシルは背後に振り返った。


「……気の、せいか」


 目の前には通りを歩く人々と馬車、その奥にはいろいろな店の建物が並んでいるだけで、特に変わったところはなさそうだった。妙な視線を感じたヴァシルだったが、何もないとわかると、気にすることなく宿の中へ入っていった。


 その後ろ姿が消えたのを確認して、遠くの木の陰から白い足が静かに離れていった。

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