二十七 心理の足跡

 巨勢博士が先程からクドク説く心理の足跡、心理といえば我々文士もそれが商売のようなものだが、まだ私には、なんのことやら、皆目見当がつかなかった。それに応ずるように、巨勢博士は我々を見廻した。

「同席の皆様は恐らく日本最高の心理通、人間通と申すべき練達の方々であります。その皆様にして、この足跡にお気づきなさらない。それは皆様の手落ちではなく、恐らく犯人御両名の演出があまりにも真に迫り、疑念をはさむ余地を断っているからでありましょう。然し、それにも一つの不遜な理由を私流に附け加えますなら、皆様が犯人の計画通り、あまりにも表面の事象を盲信しすぎていられた、つまり、土居画伯、あやか夫人、御両名の不和を、絶対の真実と盲信せられて疑うことを忘れていられた、そこに心理の足跡を見逃す根拠も生れたのだと思われます」

 弱気の都会人で、自慢のキライな巨勢博士は、自分の広言にテレて面はゆい様子である。

「さて、青天ヘキレキのピンチにのぞんだ御両名は一刻の猶予もならず、互に言葉尻をつかんで、ケンカを始め、突如として猛烈な格闘、ブン殴り、摑んでフリ廻し、投げとばし、さらに、あやか夫人は戸外をめざして走り去りました。演技は真に迫っております。然し、皆さん、もう一度、当夜の状況を、皆様自身の念頭に思い描いていただきたいと思います。即ち、この部屋には、人見さん、矢代さん、三宅さん、一馬先生、神山さん、私、これだけの男が揃い、この男は全部あやか夫人の味方たる人、土居画伯の暴力に対してあやか夫人をまもり闘うに相違ない人々であります。現にその前夜も、あやか夫人に向い土居画伯が暴力を揮いかけたとき、人見さん矢代さん神山さんらが奮然と土居画伯に立ち向って、あやか夫人を助けたではありませんか。その晩とても、そうです。あまりに事が突発的で、我々の予期せざるうち、アッと思うまに、あやか夫人は殴られ、フリ廻され、投げとばされておりました。然し我々は我にかえるや、当然土居画伯に躍りかかって彼を取り押え、距てました。それで事は済んだと我々は思ったのです。すると又距てられたまま二言三言言い争ったと思うと、我々の予期せざるうち、再び突如として土居画伯はあやか夫人に飛びかかり、あやか夫人は身をひるがえすや、脱兎の如く戸外を指して逃げ去りました。即ち、皆さん、私が心理の足跡とよぶのは、ここであります。なぜならば、あやか夫人の最大の味方たる者の大部分がその場に居合しているのです。戸外には何もありませぬ。誰も味方はおりませぬ。戸外を廻って母屋へ逃げても、母屋の男は老いはてた病人と老いはてた下男の外にはおりませぬ。村の人家は一里も離れ、駐在所も亦一里離れておるのであります。我々が土地不案内な夜道などで、深夜オイハギに出合ったような場合でしたら、我々はオイハギをのがれて暗闇に向ってメクラ滅法逃げだすことは自然であるかも知れません。然し、あの晩の如く、現に味方の大部分がその場に居合わす場合に、その味方の方へ逃げこまずに、味方の居るべき筈のない暗闇の戸外へ向って逃げさることが自然でありましょうか。自ら死地へ赴くことではありませんか。我々の目の前ですら、フリ廻されて投げつけられ、衣服はさけて膝から血が流れるほどの暴行を受けているのに、味方の中へ逃げこまずに、暗闇の戸外へ逃げ去るとは、人間の心理に於て、およそ有りうべからざる奇怪事であります。即ち、そこには、どうしても、人のいない戸外へ向って逃げねばならなかった必然性がなければならぬ。そうせざるを得なかった理由がなければならぬ」

 巨勢博士は言葉をきった。然し、思い入れよろしく自らテレたものか、すぐさま言葉をつづけた。

「私も演技の妙にだまされて、その日は、その不自然に気付くことができませんでした。その翌朝、内海さんの惨殺が発見されたとき私がようやくそれに疑念をもつことができましたのは、それから一週間の後、歌川多門先生と加代子さんが毒殺せられた当夜のことでありました。皆さんも、あの日のことは御記憶に明かなことと思いますが、さっそく平野警部の訊問があった折に、あやか夫人は土居画伯を指して犯人とよび、指の魔術師とよびました。すると、土居画伯は平然として、かたわらの碁石をつまみ上げ、黒白夢幻の恋の巻、ハイ、東西東西、悠々と指の魔術を御披露あそばされたものです。のみならず、それが終って、尚言い争い、土居画伯が、自分もいつ毒殺されるか分らない、こんな家にいたくない、と申されますと、お前が犯人じゃないか、お前のほかに誰が毒をもるものですか、あやか夫人がそう叫ばれた。私がハテナと思ったのは、その時でありました。何か勝手が違う、そこが私の気にかかった、すると、私は気づいたのです。そうだ、内海殺しの夜は、なんでもないツマラヌことがキッカケで、あの物凄い格闘となった。ところが、この日は、言葉上の敵意の激しさでは、そして又、言葉にこもる悪意の激しさでは、この日にまさるものはない。それにも拘らず、土居画伯は平然として、敢てあやか夫人にとびかからない。これは、いったい、なぜだろう? そう思った時、あの格闘の激しさの不思議が、はじめて、不思議なものとして私の意識によみがえり、これにつづいて、あの心理の足跡、あやか夫人が戸外の暗闇へ逃げ去ったという有りうべからざる不自然さが、ようやく目に映じてきたのでありました。私が御両名の周到きわまるカラクリを見破ることができたのは、ようやく、その時でありました。あまりにも、おそすぎました。然し、又、あまりにも巧みな演技、あまりにも巧みな計画ではありませんか」

 ピカ一は相変らず、平然と沈黙していた。その沈黙は必ずしも不自然ではなかった。心理の足跡とはいえ、尚それが決定的な説得力には、どこか不足なものがあった。我々のその思いが、ピカ一の平然たる顔と、それは奇妙に調和のとれた、要するに、変に間の抜けた痴呆状態をつくりだしているのであった。

 巨勢博士は語りつづけた。

「さて、五回目の多門、加代子毒殺事件にうつります。多門先生の場合、あやか夫人が多門専用の砂糖壺へモルヒネをまぜておき、プリンの中へモルヒネを仕込んだのですが、プリンの中へモルヒネを仕込んだだけでは、あやか夫人が直ちにケンギをこうむりますから、先ず、多門専用の砂糖壺へモルヒネを入れておく、それを気付かずにプリンへ入れたように見せかける、そういう用意をととのえたワケであります。この仕事はカンタン明快で、あやか夫人も別に苦心はなかったでしょう。問題は加代子殺しであります。幸いに土居画伯の連夜の乱舞によりましてコーヒー茶碗が一ダース余もかけ、そろいの茶碗では満足のものが不足になって、一つだけカケた茶碗がまじることになりましたから、これを利用して筋書をたて、加代子さんと同時に、多門先生を殺害する手筈をととのえ、一馬先生の誕生日を予定しました。加代子さんはふだんはこの食堂へ来ることのない方ですから、加代子さんのコーヒー茶碗は土居画伯以上にカケたものが当ります。加代子さんは表向き女中なみの待遇をうけているのですから、外来の方々よりも待遇の落ちるのは自然で、これを利用して、土居画伯がコーヒー茶碗をとりかえてあげる、そのとき例の指の魔術という天才的な妙技によって、毒薬を入れて加代子さんにすすめる。この妙技を成功させるには、他の人々にも、コーヒー茶碗に毒薬を入れうる可能性をつくっておくことが必要で、これはあやか夫人の役割です。即ち、あやか夫人は、その頃を見はかって、矢代夫人をさそって便所へ立つ、予想の如く広間にコーヒーが並べられているのを見届けてから、慌てて食堂へきて、便所の窓から庭に怪しい人影を見たと言って、一馬先生、矢代先生、それに私を誘って便所へとって返しました。人々がにわかに何人か立ちますと、それにつれて又何人か便所へ立つのはよくある現象で、食事の終り時ですからその必要の方々も数人おられて、神山さん、三宅さんらが便所へ立たれた。こうして、五、六名の方々に、広間の卓上に並べられていたコーヒー茶碗へ毒薬を入れうるチャンスを設定されたというワケであります。これだけの助演が完了すれば、あとは土居画伯の手練の妙技に狂いのある筈はありません。巧みに毒薬を入れたのち、巧妙な手段によって、加代子さんの茶碗をとりかえた。そして演技は見事に成功し、土居画伯はあやか夫人をハッタと睨んで、奴メがオレを殺そうとした、と怒り、あやか夫人は土居画伯をさして、ウソです、あの人こそ犯人です。あの人は指の魔術の天才ですから、と又しても、ここに、かねて計画のカケアイ漫才の名演技が行われたワケであります。以上で主要なる殺人目的の大半を果しまして、あとは最後に主目的たる一馬先生の殺害が残るばかりでありますが、その中間に、不連続殺人事件の不連続たる一石を投じておく必要があり、宇津木秋子さんがイケニエに選ばれて滝壺につき落されてできしました。先ほども申上げました通り、私は多門加代子殺しの終って後にようやく事件の真相をつきとめることができましたので、それも要するに心理の足跡を発見し得たことによって事件の全貌を推理し得た、というだけのこと、一つとして物的証拠はないのです。かくなる上は、次の事件を待って現場を押える以外に手はないと思いましたので、土居画伯につきまとっていれば、次の事件の端緒をつかみ得るだろうと狙いをつけて、幸い神山さんと土居画伯が毎日タマツキの賭けに熱中しておられるところから、私も賭のタマツキに一枚加わることに致したのです。又しても、これが私の失敗でした。私はカン違いを致したのです。内海殺しは突発的な危急存亡の大事ですから、一か八か、白刃の下をくぐる千番に一番のカネ合いで、ついにあやか夫人が短剣を握って出演するに至りましたが、これは例外中の例外で、最後の一馬殺しをのぞいて不連続方面の兇行にあやか夫人の出番はもはやなかろうと私は考えてしまったのです。そして土居画伯につきまとい、ここにつきまとっているうちに、必ず次の不連続興行の端緒が握れるものと信じていました。この軽率な見込みは、ものの見事に裏をかかれてしまったのです。即ち土居画伯は、ひそかに宇津木さんと三輪山の滝壺でアイビキの約束をむすびました。一方、あやか夫人は当日鉱泉宿へ遊びに行き、その帰途に、千草殺しの際に、土居画伯の走った間道を駈けぬけて滝壺へ現れ、そこに土居画伯を待ちかねている宇津木さんと、何くわぬ顔で肩を並べて滝壺を散歩しながら、とつぜん宇津木さんを突き落しました。そして再び、今来た間道を駈けぬけて元の道へ現れ、ブナの林の方から何事もなかったように御帰館あそばされた次第であります」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る