二十六 絶体絶命の悪戦苦闘

 巨勢博士は顔をあげて語りつづけた。

「さて第二の珠緒殺しですが、これは極めてカンタンです。酔っ払いの珠緒さんは、この日は特にでいすいして、吐き苦んだアゲク熟睡しました。元々珠緒さんの寝台は、殺して下さいと言わぬばかりの好地点にあるのですから、きわめて仕事はカンタンで、土居画伯が忍んで行って、部屋に有り合せのアイロンのコードで殺して、電燈を消してひきあげた。なぜモルヒネ粉末をこぼしてきたか、海老塚とか諸井看護婦という一ママある人物の存在を見て、容疑者の範囲を手広くするために、そんなイタズラを残したのかも知れません。然し、その正確な意味は、私にも推定はできません。さて、ここまではカンタンでした。ところが珠緒殺しが発見されると、千草さんがガクゼンとして、どうやら、眠り薬ママの件であやか夫人を疑りだした様子ですので、ここに矢ツギバヤに、千草殺しを行わねばならなくなりました。まさに一刻の猶予のできぬ場合です」

 博士の顔に熱情があらわれた。どうやら、これからが、事件のヤマであるらしい。ピカ一は平然として、口をつぐんでいる。あやか夫人も童女の如く、ただ耳をすましているようであった。

「その日の午後は予定によって王仁さんをダビにふす日でありました。何かの方法によって、土居画伯とあやか夫人は千草殺しの手筈を打ち合せたものでしょう。先ず、あやか夫人が内海先生のアイビキの手紙を偽造して、内海さんからことづかったからと千草さんに渡しました。それを真実めかすために、棺が送りだされるとき、あやか夫人は内海さんと並んで門の外まで棺を送って出たのです。まさか千草さんが、この手紙を人に見せようなどと、さすがのあやか夫人も夢にも考えていませんでした。そうでしょう。美女は恋の仕方に於て、概して秘密を愛するものです、ところが、醜女は恋をひけらかす性質のもので、さすが練達のあやか夫人も、わが性癖にめしいて、千草さんの特異な性質を洞察することを忘れていた。まさかアイビキの手紙を人にひけらかして見せようなどと、夢にも思ってみなかったのです」

 私にとって半信半疑の真相が、どうやら信ぜざるを得ぬものとなりつつあるようであった。然し、私にとっては今もって、あやか夫人が犯人であると思われず、全てが巨勢博士のイタズラで、今に突如として別の真犯人を指名するように思われてならなかった。博士は語りつづけた。

「火葬場について読経を終って火をかけ、さて帰ろうとした時が六時六分、偽造のアイビキの文面では、午後六時半から七時ごろまで三輪神社裏で、となっております。そのとき土居画伯は色々の方法を用意せられていたでしょうが、たまたま屍体をつんできた大八車がカラのまま帰ろうとするのを認めたので、とっさにその利用をはかられ、言葉巧みに内海さんを大八車にのせ、自分もあとを押して、若衆二人と土居先生の三人びきですから猛烈な勢いで、みるみる谷径を登り、我々の視界から消え去りました。谷をのぼりつめたところで、土居先生は大八車のあと押しをやめました。そして、すこしやりすごして間道へとびこみ、猛烈な全速で走って三輪神社の裏へでてここに待っていた千草さんに話しかけ、内海先生があとからヒョッコリヒョッコリ歩いてくるぜ、ひとつカクレンボでもしようじゃないか、まア、どんな風に持ちかけたのか知りませんが、フロシキをかぶせておいて、なんなく締め殺してしまった。ただちにハンドバッグをひっかき廻して、例の偽造のアイビキの手紙を奪いました。これをやり終るまで恐らく五分とかからなかったに相違ありません。直ちに走って先廻りをして、大八車をやりすごして、内海さんより一足先に戻られた。内海先生は石コロだらけの急坂にかかる前に大八車を降り、セムシの危い足で、一足ずつ休んでは降り休んでは降り、相当の時間をつかって石コロだらけの急坂を辿たどっておられ、その間に土居先生は易々と先廻りして第一着に歌川家へ戻られたのでありました。土居先生は表向きこの土地は始めてのことであり、歌川家へ到着して三日目、土地不案内と目せられますために、間道の利用ということから当然除外される位置にあるという、これもメンミツな計画のうちの一つであったに相違ありません。こうして千草殺しは易々と終り、犯人御両名は危機を脱した筈でしたが、どッこい、青天のヘキレキと申すべき最大の危機が待ちかまえていました。すなわち、申すまでもなく、例のアイビキの手紙を千草さんが諸井看護婦に示したという、はからざる事実が判明致したからであります」

 いよいよ、巨勢博士の、いわゆる事件の急所である。私は又ピカ一を見たが、彼はすでに吾関せず、全然人ごとのように、勝手にしやがれ、バカバカしいという様子であった。

「あの夜、九時何分ごろでしたか、お由良婆さまと諸井看護婦が広間へはいってきて、千草さんは六時ごろアイビキにでかけた、その手紙を諸井看護婦が見せられた、男の名前も知っている、それと判ったときの土居画伯あやか夫人のきようがくてんとういかばかりであったか、もはや計算、熟慮の余地もありません。千草さんが殺されたとは知らないから、諸井看護婦はアイビキの男の名前の言明をはばかりましたが、兇行が発見されれば、それを言わずにいられる筈はありません。さすれば、手紙の偽造が発見する。のみならず、偽造の手紙をあやか夫人が千草さんに手渡しているのですから、おのずから偽造主も発見する。そして事件のぜんぼうが自然に発見せざるを得ないのであります。これを防ぐには、内海先生を殺すか、諸井看護婦を殺すか、いずれしかない。条件として内海殺しが容易でもあり、又、諸井看護婦は広間に於てこそ男の名前の言明をはばかったにしても、母屋の誰かにもらしているかも知れず、日記に残しているかも知れません。さすれば、内海先生をその夜のうちに殺す以外に危機を脱する道はないのであります。もはや一刻の猶予もならぬ、熟慮の余地もないのです。即座に内海殺しの手筈を打ち合せなければならないのです。その打合せの方法、それは多分、周到な御両名がかねて急場にそなえてピンチに処する方法をきめておかれたでしょうが、それがつまり、例の格闘、つかみ合い、ぶんなぐる、ふり廻す、あげくに、あやか夫人が人気のない戸外へ逃げ去る、土居先生が追っかけて、つかまえる。ほかの人たちの追いつくまでに、争うフリをして、打ち合せをとげる。つまり、あの必死、凄惨な格闘こそは、御両名にとって、吾々が当時見て感じたよりも、さらに必死、絶体絶命の悪戦苦闘でありました筈です」

 私も、そして多くの人々も、どうやら説得せられてきた。してみると、あやか夫人が真犯人であったのか、もはや巨勢博士が、今までのことは冗談です、真犯人は、と言いだすことは有りうべからざるものに思われた。それにもかかわらず、あやか夫人を真犯人と信じることがに出来がたいものであったか。それは多くの人々にも、同様の心境のように思われた。

 巨勢博士は我々の思惑などはおかまいなしに、言葉をつづけた。

「御両名は筋書通り巧みに格闘を演じ、あやか夫人はだつの如く戸外へ逃げ去り、土居画伯はこれを追跡、追いつめて、我々が駈けつけるまでに、内海殺しの手筈の打ち合せを仕遂げました。その方法は、すでに先程申し上げました如くに、土居画伯が、あやか夫人の扉の前で喚きつづけ、顔をだす者に食ってかかって、自らのアリバイをつくりつつ監視の役目を果す。あやか夫人がその監視の掩護のうちに、下へ降り、談話室より短剣を持ちだして、内海先生を殺す。まことに巧妙な方法です。表面犬猿ただならぬ御両名が、かくの如くに協力していようとは知る由もない我々にとって、当の犯人あやか夫人は最もケンギの外に置かれ、神山さんの推理に於ても、御両名だけは絶対に犯人ならずと結論さるるに至っております。巧妙に又周到なあやか夫人は、すでにこの夜の突発事に備えて、平常から自室の扉の内側に鍵をかけッ放しておく習慣をつくって人々にも信じさせ、この急場に自室へ逃げこむことが不自然でないというメンミツな用意をととのえておいたのであります。即ち土居画伯の到着以来、一馬先生の寝室に起居していられるあやか夫人は、それだけの用意がなければ、この急場に自室へ逃げこむという言訳が成り立たない。私は始め、そんなにウマク自室の扉の内側にちゃんと鍵がさしこんであったなんて、話がウマすぎると疑ったのですが、矢代先生その他におききしたところによっても、あやか夫人はズボラな方で、常々鍵を自室の内側へカケッ放しにしておく習慣であったという、益々話がウマすぎるので、むしろ全てが長日月に計画せられたメンミツ極まる犯罪であることは益々信ずるに至ったほどでありました。然しかほどメンミツに準備せられた犯罪も、この日の危機があまりに青天ヘキレキであり、かつ重大であったがために、熟慮の余地がなかった、そして、さすがの御両名も、ここに不覚な心理の足跡を残すに至ったのであります」

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