二十三 最後の悲劇

 その夜の警戒は厳重を極めていた。

 洋館の階段を上ったところに、私の部屋の前にヨミスギ刑事が、一馬あやか夫妻の前には八丁鼻がガンバリ、廊下の両端から各室の扉を睨み合せている。

 階下にはカングリ警部と南川巡査が非常用のハシゴまで用意して庭の様子をうかがっている。

 遊撃がアタピン女史で、これは階上の廊下をブラブラ、私たちの誰かが便所へ立つと、送り迎えするという念の入れ方で、女中が酔いざめの水を運んできても、先ずアタピンがとりあげて毒見をする。

 すると、八丁鼻がムッツリと、そのコップを横どりして、怒り顔、

「オレによこせ」

「何をするのよ」

「オレが毒見をしてやる」

 ガブリと口に含む。

「あら、まア」

 アタピン先生、ビックリ、八丁鼻を見つめているうちに、みるみる、大感激をあらわして、

「マア、マア、あんた親切ねえ。そんなに私を思っているの。うれしいじゃないの。そんなに実があるなら、あんたと結婚してあげるよ」

 八丁鼻は不興げに目を光らせて、

「バカぬかせ。オレには女房があるのだぞ」

「なによ、女房ぐらいあったってヘイチャラじゃないの。私も女房になってあげるよ。オメカケはキライだからね。女房が二人でいいじゃないか。あんたの半分、私が可愛がってあげるよ。みんなじゃ、つけあがって仕様がないよ」

「そんなの、あるかい」

「バカだね、あんたは。恋愛なんて半分ぐらいずつでちょうど手頃のものなのよ。だから、四丁鼻だけ可愛がってあげよう」

「ふうむ、そうか」

「うれしいだろう。ねェ、ちょいと」

 と、アタピンに頰ッペタをつつかれて、八丁鼻はグニャグニャする。アタピンはすっかりノボセあがって、

「今夜は、素敵じゃないの。この秋に、東京のフグ料理で結婚式をあげようよ。あんた貯金、もってる」

「恥をかかせるもんじゃないよ」

「うん、よしよし、フグぐらい、私がたべさしてあげるよ」

 いやはや、奇怪なれごと騒ぎ、いかなる妖魔も殺人鬼もこの時ばかりははずかしくて出られたものじゃないなどとはしろうとの考え、明方の四時というころに、濡れごとの扉を距てた向う側に、けたたましい悲鳴が起った。一馬とあやか夫人の部屋である。

 争う必死の音がする。力つきて倒れる音。そして音は終ってしまった。

 扉を押したが鍵がかかっているから、

「オイ、二人はこの場を動くな」

 八丁鼻は階下へ駈け降りる。かねて用意のハシゴをかけて、カングリ警部と二人、外から窓を叩きわって、はいる。

 電燈が消されているから、二人は用意の懐中電燈で室内をてらした。

 床に人が倒れている。胸もあらわにあやか夫人が仰向けに倒れ、その上に折重って俯伏しているのは一馬であった。

「現場をみだすな。スイッチを探して、電燈をつけろ」

 カングリ警部の命をうけて、八丁鼻は電燈をつけた。

 一馬を抱き起してみると、すでに、もんの果、息絶えている。デスクに飲みのこしたコップの水があり、白色の粉末が散りこぼれている。青酸加里のようであった。

 あやか夫人の口からも血が流れていた。一馬を横手へ寄せて、あやか夫人をだき起そうとすると、夫人は目をあけた。

「どうしましたか」

 夫人の答えはない。ボンヤリと目をあいているうちに、ふと意識がもどったらしい。悲痛の色を目に宿して、首をうごかそうとした。二人が寄りそって抱きおこすと、口から流れる血に気付いて、絶望的なせんりつをあらわしたが、うがいをさせ、手当を施してみると、舌をんでいるだけで、大きな負傷ではなかった。

 あやか夫人は全く我にかえって襟をかき合せたが、横手に寄せてある一馬の屍体に気づくと、小さな、絶望の叫びをあげた。

「何事が起ったのですか。思い起して下さい」

 と、カングリ警部は鋭く夫人を見つめて返答を待ったが、夫人はしばらくそれを同じような鋭さで見返しているばかりであった。

「あなた方、いつ、いらしたの」

「今きたばかりですよ。室内からの物音に、外からはしをかけて、窓を叩きわって、窓の鍵を外して、とびこんできたのです。何事があったのですか」

 あやか夫人は一馬の屍体を抱き起して膝にのせたが、もう手応えがないので、祈るように二人を見上げた。カングリ警部は首を横にふった。夫人はウツロの目をむなしく戻したが、やがて一馬の屍体を膝から下して寝台に手をかけて立ち上り、考え考えたたずみながら、寝台からデスクへ、椅子へ、何かに寄りそいながら窓まで歩いて行った。破れた窓から、涼しい風が吹いてくる。自然に気持が落着いてきたようであった。

 夜が明けそめている。あやか夫人は戻ってきて、寝台に腰を下した。

「電燈がついていましたか」

「いいえ、私たちが飛びこんできて、つけたのです」

 あやか夫人は、うなずいた。

「主人はおそくまで起きていました。私がいつ目をさましても、電燈がついていて、主人は机に向って、何かしていました。そのうち、ふと目をさました時には、暗闇でした。私は誰かに押しつけられていたのです。びっくりして起きようとしますと、主人の声で、僕だよ、と、手をゆるめてくれましたが、そのときは、殺意を感じるほどの強い力ではありませんので、何が何やら分らぬ気持で、びっくりして半身を起しただけです。主人はやさしく私を抱きよせるようにして、僕は死ぬ、一しょに死んでおくれ、もう僕はダメなんだから、と申しました」

 カングリ警部はうなずいて、その先をうながした。

「私は呆れて、何がダメ、とたずねました。答えの代りに、ウウという、唸り声がもれました。にわかにはげしい力で抱きすくめられたと思うと、クビをつきあげてきたのです。夢中に手向いました。そして、ころげ落ちて、そのあとは、覚えがないのです」

 カングリ警部はうなずいた。

「もっとよく考えてみて下さい。御主人は、ほかに何か仰有いませんでしたか」

 あやか夫人は考えていたが、首を横にふった。

「なるほど。死んでくれ、もう僕はダメなんだから。なるほど。警察の手が廻ったから、もうダメ、そういう風に申されたのですね」

「いいえ、ちがいます」

 あやか夫人はキッパリと言った。

「そんな風には申しません。もうダメなんだから、と申しただけです。主人は昨夜、寝室へ来てから、ざんなほど、やつれはてておりましたのです。いらいらと、寸時も居たたまらぬていで、脅えきっている様子でした。それはあの玄関の柱に脅迫のハリ紙を見たためで、私はその理由をよく存じておりましたのです。主人は海老塚さんを犯人と信じておりましたから、あの方が捕われてからは安堵しておりましたのです。ですから、あのハリ紙のショックはひどすぎたのです。不安と恐怖に、私がさきに眠ることさえ心細い有様でしたが、私がいつ目をさましても、主人は机に向って、考えこんでいたのでした」

 カングリ警部はうなずいた。そして彼は改めて一馬の屍体をしらべはじめた。顔や手にあやか夫人の抵抗をうけて搔きむしられた傷があり、彼のパジャマもひきむしられ、胸のボタンがとんでいた。

「危いところでしたな」

 と調べ終ってカングリ警部は言った。

「あなたは気絶なさったから、よかったのです。抵抗をつづけていたら、ふたたび生きかえることはできなかったでしょう。あなたが死んだものとみて、御主人は覚悟の自殺をされたのです」

「なぜですか」

「お気の毒ですが、これまでの惨劇はすべて御主人が犯人でした。我々には分っていたのです。ただ、物的証拠がなかったために、逮捕ができなかったのでした」

「ちがいます」

 あやか夫人は叫んだ。

「私は存じております。昨夜、私どもが食堂へ参ります時には、柱のハリ紙はなかったのです。そのとき私は何気なく柱を見た覚えがありますから、間違いはございません。そして主人は一しょに食堂へはいりまして、食事の終るまで一歩も席を離れたことはございません」

「ごもっともです」

 とカングリ警部はうなずいて、困ったような、くすぐったい面持であったが、

「実はあのハリ紙は私どもが致したのです。八月九日、宿命の日、つまり、犯人に対する宿命の日。この皮肉は、犯人にだけは、通じた筈です」

 呆然たるあやか夫人をシリ目に、カングリ警部はいささか得意の色。やがて八丁鼻に命じて、はじめて扉をあけさせた。

 本署から鑑識の一行が、自動車をいそがせて到着したのが、十時半ごろ。十一時ちょッとすぎるころ、巨勢博士が戻ってきた。

 ついに歌川家滅亡、という意外な結果に、私が広間にボンヤリしていると、巨勢博士は食堂の出入口から、とびこんできた。

「道で警察の自動車が追いぬきやがったもんで、それから盲メッポウ駈けだしたんだけど、この節は運動不足で」

 と息をきらしているところへ、二階からカングリ警部の一行が降りてきた。

「やア、巨勢さん、お帰りですか。一足おくれましたな。お留守のうちに、悲劇はついに終りましたよ」

「終った? すると、歌川先生が殺されましたか」

「いや、歌川一馬氏は、自殺しました」

 巨勢博士の顔色が変った。虚脱にも近い苦悶と落胆の色であった。

「ヤ、おそかった! 僕は、バカだ。不眠、不休。然し、ああ、一生の不覚だった!」

 絶望的な悔いの苦痛がきざまれた。カングリ警部は笑いだして、

「ひどくお忙しかった様子ですね。不眠不休ですか。お気の毒です。然し、私どもも、昨夜は不眠でしたよ。然し、ともかく、落ちつくところへ落ちついたようです」

 巨勢博士の全身にすさまじい怒りがこもった。

「畜生め! もう、逃さない。ああ、然し、手おくれだった! 然し、仕方がなかったのです。今さら面目もありませんが、ツラの皮だけはヒンむいてやります」

「誰のツラの皮をヒンむくのですか」

「犯人の、です」

「歌川一馬氏は自殺しましたよ」

 カングリ警部は涼しい顔で答えたが、巨勢博士はそれに頓着していなかった。

「歌川先生は、毒薬でなくなられたのですね」

「左様、青酸加里です」

「遺書はありますか」

「いいえ、然し、何か、一晩中、書いては消し、書いては消したものがあります。ひどく消しつぶして判読できませんが、あるいは遺書をかくつもりだったかも知れません。目下、鑑識に廻してあります」

 巨勢博士はうなずいた。

「遺書ぐらいは用意してあるだろうと思っていました。私はこの殺人を予期していたのです。それが自殺の形で行われることも、すでに準備ができていることを知っていました。第一回目の殺人のとき、望月王仁氏殺害のとき、歌川先生が自殺の形で殺される準備ができていたのです」

 巨勢博士の決然たる断言ぶりに、カングリ警部も呆気にとられた様子であった。

「ともかく、別室へ来ていただきましょう。憎むべき殺人鬼の手口を説明いたしましょう」

 巨勢博士はカングリ警部と刑事の一行をうながした。警官たちは不承不承巨勢博士について、立ち去った。

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