十 気違いぞろい
九時四十分であった。
広間へ由良婆さまがやってきた。あたりを見廻していたが、海老塚医師に、
「千草はいませんか」
「知らんです」
あいそのない返事である。傍らにいた宇津木さんが、ひきとって、
「千草さんはズッとお見えになりませんわ。食卓にもお見えにならなかったようね。そうでしたわね。海老塚さん」
「ぼく、知らんです」
「あやかさま、千草さん、御存じ? 食卓にいらしたかしら」
「いいえ、お見えじゃなかったわ」
「まア、どうしたのでしょうね。こちらかと思っていましたけど、じゃアどこにいるのかしら」
老婦人はたどたどしい足どりで引返して行った。婆さまは一度中風でひっくり返ったことがある。それ以来、歩行があんまり自由じゃなく、引きずるように歩き、階段の上下はつらいというのだが、外に適当な部屋がないので不便を忍び、這うように、階段を上下している。老夫婦は夜の便所は便器で間に合わしているということであった。
私たちは、みな酔っていた。ピカ一も珍しく大量に飲み、内海まで、かなりビールのコップを重ねている。殺人事件の当夜のつどいは、神経的に、なんとなく鋭く、苦痛になるのも仕方がない。誰かしら人殺しがまじっているということが、何かにつけて、チクリと意識に上るのが、不快なのである。
木ベエはふだん酒を飲まないタチだが、たまたま酔うとシツコクからむ奴で、先刻からだいぶ丹後にからんでいたが、どうした風向きだか、やにわに
「気むずかし屋の名医先生。ちょいと、君、ここへ掛けませんか。ふん、イヤかね。よかろう。君は我々を気違いと解せられる由、ひそかに承っているが、僕が見るところ、気違いはまさしく君だね」
「ヒヤヒヤ。名言、名言」
ピカ一は大よろこびで、一同を制し、
「謹聴謹聴」
「僕は人のスキャンダルをあばきたてるのは、キライなのだが、君の場合だけは、この慎しみを適用したくなくなったね。君は我々文人の私行をヒンセキの御様子だが、君自身は釣殿なるところへ御宿泊で毎晩なにがし嬢とゴジッコンの由じゃないか。又、加代子さんは君の診察がきらいで、立会人がいなければ君の診察はうけないそうだね。そのよって来たるところを権助オ鍋一党の風説から判ずるに、君はお加代さんの手を握ったり、お乳を長くいじってみたりするそうじゃないか。又、ちかごろは、下枝さんという可愛いい小間使いに殊のほか御執心で、胸の病いがあるようだ、とか、どこか内臓に異常があるようだ、とか、
「よし、よし、そこだ」
とピカ一は大喜びだが、御婦人達はなるべく知らないふりをして何がなし私語を交すことにつとめようとするのは、彼女らの社交的な思いやりと礼儀心のせいだろうが、木ベエの言葉は、御婦人達の社交的性癖などを、やがて一気に凍らせる迫力をひそめていた。
「名医先生。君子先生。その目だよ。その目だよ。みんな見なさい。あの目、ギラギラ、気違いの目。人を殺す目。血に飢え、血の海を見ても飽きたりぬ殺人鬼の目。この正体は隠すことができないぜ。さア、見たり、見たり」
木ベエは酔いに青ざめて殺気立ち、彼自身ギラギラ悪鬼的な沈んだ目を光らせていたが、まさしく海老塚の目はその比ではなかった。私は始めからその経過を見て気づいていたが、彼は怒りにぶるぶるふるえ、逆上的な昂奮から、まさしくギラギラと狂人の光を眼に宿していた。それはたしかに、とびかかって人を殺すことのできるその一瞬の目の光である。八ツ裂きにもすることができる、ひねり殺すこともできる、狂人の行いうる全てのことを行いうる狂暴無比な光であった。
婦人達は息をのんだ。
木ベエは海老塚をハッタと睨んだ。
「彼はまさしく変質者、精神分裂というのだか、
海老塚の目は益々燃えた。それは極点まで見ひらかれ、もう、どうする
そのとき、ひきずる
「千草がどこにもおりませんよ。どうしたのでしょう。もしや皆さんに御心当りはございませんか」
一座に別の恐怖が走った。
「そんなバカな。まさか殺されやしないだろう」
ピカ一が大声で喚いた。
「お婆さん、安心しな。あの子はサカリがついているのさ。婆さんの前だけれども、あの子ときては、満身これ性慾じゃないか」
一座はそのまま沈黙した。誰も、つづいて物を言いだす者がない。
すると諸井看護婦が、水死人が水の中から物言うような静かな沈んだ声で、
「そうです。千草さんはアイビキにおでかけでした」
「なんですって? じゃア、あなたは知っていらしたの」
お由良婆さまの呆気にとられた視線も、諸井看護婦の冷たい顔には、とりつく島がなかった。
「千草さんはアイビキの紙片をお受けとりです。ヒラヒラふり廻してお見せでした。私は読みはしませんが。そして、六時ごろ、おでかけでした」
「どこへ?」
「存じません」
「誰ですか、男の方は?」
「申しあげては、いけないでしょう」冷然と言った。
一座は再び沈黙した。
海老塚が熊のようにユラユラと腕をふった。なんという変ったシグサだろう。興奮のためであろうか。そして、飛び上るような激しさで、ふりむいた。スタスタとビッコの尻をふり、腕をユラユラふりながら、部屋から立ち去ろうとした。
と、廊下の入口で急にふりむいて、
「バカヤロー」
満身の絶叫だった。小柄のくせに、まったく気違いの蛮声、なんというハリサケルような声なのだろう。そして又、とびあがるようにふりむいて、歩き去った。
「ワハハハハ、ワハハハハ」
ピカ一が、気違いのように笑いだした。
「茶番だらけだ。なアに、殺人だって茶番じゃないか。ここのウチは、元々、ここのウチが茶番そのものなのさ。マジメなツラをしていられるかい。淫売宿と言いたいが、それどころか、まるでもう、性慾のカタマリ、色きちがいの巣じゃないか」
「ウルサイ! ゴロツキ! あんたは東京へお帰り! ただ今、さっさと帰ってちょうだい」
あやかさんは怒りにふるえて、電気のようにビリビリ、神経がとびだすような激しさだった。
「何だと、このヤロー。もう一度、言ってみろ」
そう言い終ると、ピカ一の人相が変ってしまった。まさしく鬼だ。海老塚には殺人鬼のメスのような静寂があったが、ピカ一ときては、狂暴、人間の相ではなしに、鬼、狂いたつ野獣であった。
パッとハズミがついたとき、彼は躍りかかって、あやかさんをつかみあげ、大きく一回転振りとばした。あやかさんはモノの二間も振りとばされて、四ツん這いにツンのめり、服はさけ、膝を打ち、起き上ることができなかった。
私たちが抱き起すと、すぐ起き上り、見かけによらぬ気丈なところのある人で、キッと顔をあげて、
「ゴロツキ! 犯人」
「この野郎」
我々がアッと思ったときには、もうあやかさんがピシャリとぶたれて突きとばされたときで、まったく、こいつの腕力は矢のような早業であった。
然し、私たちがその次にアッと思ったときは、それどころじゃない。奴はいきなり、かたわらにある大きな花瓶をふりあげていたのである。
人見小六が武者ぶりついたから、よかった。ピカ一は花瓶をなげ下ろしたが、誰にも当らず、床にくだけて、ミジンにわれた。
ピカ一は猛牛の怪力で小六をふりとばした。あやかさんは殺気をさとると、身をひるがえして逃げだした。食堂へとびこみ、食堂から庭の方へ逃げだした。
ピカ一はすでに追っていた。
私たちが追いつくことができたとき、庭の松の木に押しつけられ、あやかさんは散々ぶたれ、突きまわされて、息も絶え絶えの所であった。
私たちが鈴なりに武者ぶりついてぶらさがって、ようやく引き分けたが、どうやら十間ほども引き分け、あやかさんも婦人連にまもられて去りかけ、ピカ一もフウフウ一とまず牛の息をまとめているから、もう終りと油断したのがしくじり、急に矢の如く追いだした。
それをさとると、あやかさんは、これ又、矢の如く逃げだした。まったく、あやかさんは、身軽な人で、スラリと細い身体だが、魚のように一直線をひいて行く見事な速さがあるのであった。
あやかさんは出てきた食堂から逆に屋内へとびこんだ。私たちは後を追ったが、追いついた時にはあやかさんは自分の寝室へとびこんで内側から鍵をかけており、ピカ一は階段を駈け登るときツマズイたのが失敗で、若干距離ができたのである。
ピカ一は狂気の如く、あやかさんの寝室の扉を蹴とばしている。私たちが追いつくと、
「この野郎ども」
私たちを追いまくり、
「畜生め、スベタめ。出てくると、殺してやるぞ。しめ殺してやる。しめあげてやる」
ピカ一は自分のシャツの襟をつかんで、自分のノドをグリグリしめ廻したが、散々パラ扉を蹴とばしたあげく、ごろんと扉の前へひっくり返って大の字にのびた。
そういうことが一時間ちかくつづいたろう。私たちがちかづくと、起きあがって、とびかかってくる。ケダモノのごとくに
私たちは諦めて、それぞれ自分の寝室へはいった。
ピカ一は十分か二十分おきに起き上って、あやかさんの寝室の扉を蹴とばすのがきこえるが、あとは大の字にひっくりかえって、喚きつづけているのだ。
私はあきれて寝てしまったが、ピカ一はそれから三時間もわめきつづけたということで、翌朝誰かが目ざめたころは、ピカ一は疲れて、あやかさんの扉の外に大の字にねむりこけていたという。
あやかさんは無事だった。ピカ一も翌日はすっかり静かに落ちついたが、然し、はからざるところに殺人が行われていた。
セムシ詩人がその寝台に殺されており、又、我々が手わけして千草さんを探してみると、千草さんは三輪山の森の中で殺されていたのである。
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