第2話 竜の喚巫女

 森の中を少女が走る。

 おかしい。走っても走っても森を抜けることができない。

 そう、おかしいのだ。その森は少女にとって庭同然であり、迷うはずのないところのはずであった。

 しかし見慣れたはずのその景色は、走っても走っても変わることがない。


「ハァ、ハァ…」


 息を切らせて、遂には立ち止まり、傍の木の幹に凭れかかる。

 止まってはいけない、何故だかそう思いながら。


―――――チリン…


 鈴の音だ。今まで聞いたことのないような、美しく恐ろしい音。

 振り向く少女。森の奥から、鈴の音が近づいてくるのが分かる。

 あっと思った瞬間、『それ』は既に少女の目の前に来ていた。


「ふ、ふふ…いたいた、こんなところに。」


 長い白髪、皺の刻まれた顔、紫の瞳。

 その痩身の老人は嬉しそうに笑いながら、鈴を垂らしていない方の手を、少女に伸ばす。

 その冷たい指先が、少女の柔らかな頬に触れる。


「ひッ」


 目を瞑り、身を縮こませる。足は震え、逃げることも出来ない。


「ふ、ふ、心配しなさんな。取って食ったりはしないよ。」


 老人は目を細めて少女を眺めた。


「……素晴らしいぃぃ才能だ。キミは良い巫女になる……」


 頬に触れていた老人の手が動き、少女の左肩を掴む。

 途端、その手の平から物凄い熱さを感じた。


「ああっ!」

「実際の火ではない。傷は残らないよ。尤も、もっと良いものは残るがね。」


 老人はさも愉快そうに嗤った。

 少女の意識は薄れゆく。あの好きだったおとぎ話に出てくる恐ろしい悪魔は、こんな顔をして笑うのだろうか、と想いながら――


  

  ― ◆ ―


「!」

 彼女が目覚めたのは、寝なれたベッドの上だった。思わず、毛布を捲り自分の身体を見る。伸び切った手足。間違いなく、大人となった、今の自分。


「……久しぶりに、見たな……」


 長い髪をかき上げながら、もう戻ることのない遠い日の自分を、思い返す。

 そんな夢を見たのは、間違いなく昨夜の出来事のせいであろう。

 憂鬱な気分のままベッドを降り、寝間着のワンピースを脱ぎ捨てる。

 下着姿の彼女の左肩甲骨のあたりには、昨夜亜竜が飛び出した十八芒星と同じものが、大凡おおよそこぶし大くらいのサイズで、黒く刻まれていた。

 それこそが、彼女の運命を決定付けたものであり、彼女の最も憎む刻印であった。


 洒落っ気のない簡素な白い服に着替えると、彼女は寝室を出る。そこは、仕事場兼ダイニング。小さな彼女の家には、その二部屋しかなかった。

 キッチンの鍋のスープを温め直していると、戸ではなく、その傍の小窓を叩く音がする。

 彼女は、ふっと溜め息を吐きながら、窓を開けた。


「よう。」


 そこには、男が一人立っていた。痩身で、浅黒い肌。ギラついた目は、一筋縄ではいかない雰囲気を漂わせている。


「……随分、早いじゃない。」

「リコ、久々にやらかしたな。」


 男は薄笑いを浮かべながら、窓の外側ある板に頬杖をついた。


「街は結構騒ぎになってるぜ。」

「……私が狙ってやったわけじゃないわ。」


 彼女――リコは、俯きながら反論した。


「まあ、そうなんだろうがな。街の人間に取っちゃ、狙ってやろうが偶然だろうが、どっちだって同じことさ。お前をメーワクな存在だと思うだけだ。」


 したり顔で言う男を、睨みつけるリコ。


「…厭味を言いに来ただけなんだったら帰ってくれる?」

「怒るなよ、客として来たんだぜ。」


 男は、懐から銅貨を取り出すと、板の上に三枚並べた。


「いつもの傷薬をくれ。」

「また怪我したの?」


 リコの問いに、無言で足元を指す。その左脛に、血の滲んだ包帯が巻いてあった。


「切り傷?治療は?」

「高いから薬だけでいい。タダでやってくれるなら、喜んで受けるぞ。」


 リコは再び溜め息を吐くと、後ろの戸棚へと向かい、引き出しから貝殻に挟んだ塗り薬を取り出す。


「いい加減、無茶はやめたら?」

「無茶なこと以外で、オレみたいなのが食っていけるかよ。」


 男は、目をギョロっとさせてリコに向けた。その瞳は、金色だ。


「……」

「まあ気にするなよ。感謝してんだぜ。薬屋のお前が嫌われ者でいてくれるおかげで、オレみたいな厄介者が、大っぴらに買い物に来れる。」


 今度はリコがまた睨み返す番だったが、男は気にせず塗り薬を受け取る。


「お互い世知辛いな。」

「……」

「ま、嫌がらせしてくるようなヤツがいたら言えよ。常連のよしみで、格安で始末してやるよ。」

「言うわけ無いでしょ!」


 男はフフンと笑って背を向けて、さっさと去っていった。

 金目の男、彼の名はマルティンと言った。リコの薬を求める者は少なくないが、こういった会話まですることは少ない。その数少ない者の一人だ。

 もしや街の騒ぎを知って、朝から様子を見に来てくれたのか?と、思い至るくらいには、リコの心はまだ荒み切ってはいなかった。

 が、それを口に出して聞ける程、誰かに弱さを見せられるような人生を、歩んでもいなかった。



  ― ◆ ―


 人垣の出来た、早朝の路地。

 その間を縫うようにして、中肉中背の男が進む。


「すまん、通してくれっ」


 昨夜酒場にいた戦士の片割れだ。

 やがて人垣を越え、中心地に辿り着く。


「!」


 そこには夥しい領の血痕と、僅かな骨と肉片、衣類の切れ端、抜かれることのなかった剣。

 その剣には、見覚えがあった。


「これは…どういうことだ?」


 間違いなくそれは彼の相棒のものだったが、本人がいない。周りの血が相棒のものなら、何故死体が欠片しかないのか。


「アンタの仲間かい?」


 現場を調べていた、街の住民と思わしき初老の男が声をかける。


「いや、その剣の持ち主は間違いなく俺の仲間なんだが…」

「これは、竜にやられたんだよ。」


 疑問に答えるように、初老の男が言う。


「竜!?こんな街中にか!?」

 

 森や山奥ならともかく、街のど真ん中に突然現れる竜など聞いたこともない。仮に竜がいたのなら、その竜は一体何処に行ってしまったというのか。


「…可哀相になぁ…アンタのお仲間は、『竜の喚巫女よびみこ』に魅入られてしまったんだよ。」

「竜の喚巫女?」

「魔法を使って、竜を呼び出すんだ。」


 その世界の人々なら誰でも知っている昔話。かつての聖戦時代、魔人が竜を召喚したという、伝説の中の魔法…


「作り話じゃなかったのか…いや、仮に本当だったとしても、今の時代にそんな魔法を使える者が、存在るのか?」

「いるんじゃよ、残念ながら…この街に、一人な。」


 別の老人が、さも恐ろしげに言う。

 それに同調するように、周りの者たちも騒ぎ出す。


「最近は大人しくしていやがったのに…」

「やっぱり殺したほうがいいんじゃねぇか?」

「誰が殺せるんだよ、竜の喚巫女を…」

「じゃあ街から追い出しちまうのは!?」

「…しかし、あれほど腕のいい薬師もおらんしな…」


 口々に勝手なことを言い出した街の住民たちを見て、戦士の男は何か『業』のようなものを感じた。なるべく、関わりたくないような――

 しかし、である。自分と相棒は雇われの身であり、雇い主の要望は、相棒がいなくなったことの真相究明だ。殺されたなら殺されたではっきりさせなければ、契約途中で職場放棄しての、前金の持ち逃げと思われてしまう。


「……会うしかないか、竜の喚巫女……」


 なんとなく、昨夜の美人を思い浮かべた。そしてそれは、間違いではないだろう。

 空は澄み切って高く晴れ渡っていたが、男には目の前に暗雲が立ち込めているように感じられた。

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