終章 大輪の華の下
「そういえばひとつ、不思議に思うていたことがあるのだが」
大川——————なんでも江戸の人々は隅田川をそう呼ぶらしい——————の土手に腰を下ろした禍福が、そう切り出してくる。
「なんだ?」
信蔵はこのところ、なかなかに忙しく日々を過ごしていた。というのも、めっきり他出の増えた禍福の護衛として、方々へ共に向かっていたからだ。外出理由としては嘆きの衣の関係だったり、禍福がやらかした例の件の関係であったり、五角家経由で持ち込まれた相談事への対応だったりと様々である。
そうして慌ただしいままひと月が過ぎ去ろうかという、今日の正午過ぎ。昼飯を食べている最中に、禍福が突然
『川開きしてしばらく経つというのに、儂としたことがまだ信蔵を花火見物に連れて行っておらん!』
と。思うに連日の忙しさから、禍福自身も娯楽を求めていたに違いない。こうして、言い出したら聞かぬところのある彼によって、信蔵は速やかに両国の土手へと連れ出される運びとなった。
正直なところを言えば、信蔵としては花火など見ても見なくてもどちらでもいい。
しかし『人世の楽しみ方を教えてくれ』と禍福を引き止めた手前、「火薬として以上の興味は持っていないからあれはいい」などと言うわけにもいかず、こうして大人しくついてきた次第である。
「お主あの日、梶原の別宅から増上寺まで、一体どうやって来たのだ?」
「そんなもの、走って行ったに決まってるだろう」
なぜそのような当たり前のことを問うのか、と信蔵は
「……儂を
と、眉根を寄せる禍福。
「いや、逆に聞くが、他にどんな手があるのだ?江戸では夜半でも馬や
「急時に金子でも積めば話は別かもしれんが……いやこの前な、梶原の別邸に行った時に、雨之丞の奴が妙なことを言っておったのだ。あの家には枕時計があるゆえ、時刻を誤ったとは考えにくいのだが……お主があそこに滞在しておった刻と、増上寺に到着した刻が合わぬのよ。あれでは四半刻も経たぬうちに、あの距離を走り抜いたことになる」
「そうだな。全力で走ったから、四半刻もいらぬだろうな」
信蔵が頷けば、禍福が信じられないものを見るような目で見つめてくる。
「屋根の上を直線上に走って極力遠回りを防げば、時間は多少短くできるぞ」
「いや、それにしても吉原を越えた先から増上寺だぞ?一体どんな妖術を使ったのだ」
「俺に怪しの術などできるわけなかろう。お前じゃあるまいし。……
ちら、と
「わかったわかった。悪かった。儂が悪かったよ」
禍福は苦笑して答えた。
「……しかし、縮地だと?これはいよいよ、お主が新手の妖である説が真実味を帯びてきたな」
「なんでそうなる!俺はただの人だぞ!?」
いつだかの件を蒸し返されて反射的に叫んだ信蔵に、禍福はしたり顔で告げる。
「縮地など、人の身で会得できるものではないわ。よくて仙人の領域ぞ。……大体、あの天落衆と一対多数で散々戦って崖まで落ちた怪我人のくせに、なんなのだ。怪異相手にまったく引けをとらんとは。正直あそこまでいくと、儂でも
「いやそれは、鍛錬していれば誰でもできる。お前の言う縮地は伝承上のもので、俺の言う縮地はあくまで武術として存在するものだ。残念だが仙術などではないぞ」
「……妖は嫌か?」
どこか
「別に妖が嫌と言うのではない。だが、事実ではないからむず痒い」
「いいではないか、そのような
ぽつりと付け足されたひと言に、彼が味わってきた長い長い孤独が透けて見える。
「……。……お前が爆雷筒から俺を庇ったあの時、たぶん俺は……お前の気持ちが少しわかったように思うよ」
信蔵は呟くように言った。
「自分が死ぬよりも、親しい人間が死ぬ方が……しんどいな」
置いていかれる方が辛いのだと、と心底思った。
「ほぉ?わかると言う割に、寺の境内では随分と勝手なことを言ってくれたではないか。ん?」
禍福は信蔵の脇腹を肘で小突きながら、意地悪げに笑う。
「……そうだな。俺は勝手だから、まだ生きられるのに、お前がいなくなってしまうのはどうしても嫌だったのだ。……悪いな」
信蔵の素直な謝罪に興を削がれたのか、禍福は苦笑して答えた。
「……まぁいいさ。その代わり、儂の暇つぶしにこれからたっぷり付き合ってもらうからな。……おお、上がるぞ」
濃紺の夜空に、赤みがかった
遅れて、ドォン……と身体を芯から揺らす音。なぜだろう。その振動に、不思議と〝ああ、ここにいる〟と己の生を実感する。
「これは生まれたままに生を終えていたら、目にできなかったものの筆頭だな……雅でありながら力強く、
「……その材料にしても、古い時代には概ね人を殺す用途にあったものが、多くの人をこんなにも喜ばせるようになる……幾年見ても、人はわからんな。とても、わかりきらん。その可能性は、一目で測れたものではないわ」
髪を夜風にはためかせながら、禍福が呟く。
その視線は遠く、あまりに遠く、まるで流れていく時の先を見据えようとしているように見えた。
「なぁ禍福。せっかくの花火見物に、甘いものはいらんか?」
思わずその袖を引っ張ってそんなことを言ったのは、隣にいるのに手の届かぬどこかへ行かないでほしいという、せめてもの信蔵の主張だったのかもしれない。
「……うん?なんぞ持ってきたのか?食うことはともかく、食うものにはさほど興味のないお主が?」
禍福は驚いたようにこちらを見た。どうやら付いてはいけない先の世から、彼を引き戻すことに成功したらしい。信蔵は満足して、
「長屋の人たちにな、桜餅以外で外でも食える旨い甘味を知らぬかと聞いたのだ。揚げ
包みを開け、禍福に差し出す。
「そういえば久しく食べていなかったか……この菓子を見ると、あやつを思い出すな」
「あやつ?」
禍福は懐かしそうな表情を浮かべて饅頭を見つめ、それからぱくりと食いついた。
「この江戸を都にした男さ。儂はあれに呼ばれてこの地に来たのだ。もともとは京にいたのだが、ある時不測の事態で連れ出されてな。当時は儂もあそこに嫌気がさしてきておったから、これ幸いと色んな権力者のもとを渡り歩いておったのだが……ある時人質となっていたあやつと、たまたま出会ったのだ」
彼は笑いながら続ける。
「今でこそ忍耐の人、などと言われておるが……昔は結構短気というか、
子どもに無理やり部屋から引き摺り出されそうになって喚く禍福を想像した信蔵は、思わず吹き出した。
「基本的に健康をむねとした食を優先する男だったが、このような揚げ饅頭も好んでおったよ。そもそもあの頃はまだ、砂糖だの油だのの融通がきくのは上の連中ばかりだったからな。初めて
「……なぁ禍福……それってあの、天下人の……」
禍福はなんでもないことのようにさらっと語っているが、実は結構とんでもないことを聞いているのかもしれない、などと思いつつ信蔵は尋ねる。
「そう、竹千代よ。あやつやたらと名が変わっておったからなぁ……最終的には確か、家康、だったか?まぁ市井の人間がこういうものを楽しめる世になったと知れば、あやつも喜ぶだろう」
夜空の向こうにある記憶を覗き込むかのような目をして、彼は微かに笑った。
信蔵も揚げ饅頭をひとつつまみ、大きく
——————なるほど、これは旨い。
「さすが紀州様の花火は立派だよなぁ」
「な。明日は伊勢屋の大旦那のとこだってよ」
少し離れたところに腰を下ろしている連中が、持参した酒を飲み交わしながら話している。
「へぇ、あそこの店は景気が良いもんな。とくりゃあ見逃せねぇな。で、その次の日は尾張様、と」
「おいおいなんだよ、それじゃあ要するに、俺たちゃ毎日来なけりゃならねぇじゃねぇか」
「良いじゃねぇかよ。俺らは身軽な独り身、どうせ毎日どっかで酒盛りなんだから変わりゃしねぇさ!」
「違ぇねぇ!」
すでに酔っているのだろう。他愛のないことで、大笑いしている。
ヒューと空に昇り、柳のようにシュルル……と広がっていく赤銅の光の華に、やんややんやと
ドォン、と空が鳴った。空気が、身が、全てが、びりびりと共に震える。
ああ、生きている。
ここにいる。
俺も、禍福も。
「見事だな。次は屋根船に乗ろう、信蔵」
「ああ。それもいいな」
川に繰り出された多くの船を見つめながら、信蔵は考えていた。果たして百年後、今あるもののうち一体どれほどのものが、世には残っているのだろうか、と。
江戸の町はどうなっているのだろう。まだ徳川が治めているだろうか。それとも再び世の運命たる
この川開きは、花火は続いているだろうか。揚げ饅頭は、残っているだろうか。
またひとときの間を置いてから、深い藍を鮮やかに染めていく赤銅色に、信蔵は願った。
百年の後も、この美しい川開きが生き残っているように。
そして何よりも、この奇妙な友人の隣に、どうか心許せる誰かがいてくれるように、と。
了
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