11-3

「そのような諸々があってな……結局最終的に、河上殿は頭領の座を退しりぞいて引退されることになった。だが、彼がまだ頭領であった頃の命により、お前は一切を不問となっている。よって、私がお前を始末する道理はない。まぁ今はひとまず私が頭領代理をしているから、尚のことだ」


 例の騒動の後、一旦姿を隠した禍福がどこに行っていたのか、ようやくわかった。狸長屋に戻って来るまでの間どこにいたのかを尋ねても、はぐらされるばかりだったのだ。まさか天落衆の里のひとつに、殴り込みに行っていたとは思わなかった。


「あいつ……人に脅しだ、人非人にんぴにんだなどと散々言っておいて……自分の方がよほどやらかしているではないか」


〝傷心の幽霊もどきを脅しつけるとんだ人非人のつぐない〟という名目で、この後付き合わされる予定が満載なのに、と信蔵が憮然ぶぜんとして言うと、佐太郎は愉快そうに笑った。


「禍福殿は今後のお前の身を心配したのであろうな」


 しかし聞けば聞くほど、とんだ怪談話だ。長屋の中では話が筒抜けになりかねないと、人気ひとけのない土手に移動しておいて正解だった。


「信蔵。ここからは真面目な話だ」


 佐太郎は真っ直ぐに信蔵を見つめ、そう切り出した。


「頭領代理としてお前の意思を問う。不問になったとはいえ、お前は命令に一度ならず二度背いた。もはや衆に身を置く気はないという意思表示であると、そう理解して良いな?」


「はい」


 信蔵は真っ直ぐに彼の目を見返し、頷く。


「たとえこの先呪いが解けることがあっても、もう戻るつもりはありません。主人や里に仕えるべき忍としては、正直俺にもうその資格はないでしょうし……己がそうすることを望んでいないということも、この江戸に来てよくわかりました」


「……そうか」


 佐太郎は静かに頷いた。


「師匠にはたくさんのことを教えていただいたのに、恩をろくに返せないうちにこのようなことになってしまって……」


 心苦しく思いながらしぼり出した信蔵に、佐太郎は柔らかく微笑むと、ぽん、と頭の上に手を乗せる。信蔵がまだ幼い頃に、よくそうしてくれたように。


「お前が笑ったり怒ったりできるようになったのであれば、それでよい。これまでの働きで充分だ」


「……」


 思いもよらぬことを言われて、信蔵は目をしばたかせる。


「やはり気づいていなかったか。お前は誰よりも優秀な忍ではあったが……ずっと己をどこかに置き忘れたような顔をしていた。何をしていても」


 人の気持ちに聡い佐太郎は、信蔵が心の奥底に押し込めたまま自分でも忘れていたものに、ずっと気づいていたのかもしれない。


「我々衆が引き入れたばかりに、お前には人としてろくな育ち方をさせてやれなんだが……それでも生きてさえいれば、学ぶに遅いということはなかろう。達者で暮らせ、信蔵」


 尻の土を払いながら立ち上がった佐太郎に、信蔵は反射的に追いすがった。もうこれで別れることになるのだと、今さらのように気づいたからだ。


「佐太郎師匠……いえ、頭領。私はあなたから、人としてとても大切なことを教わったと思っています。それを大事にして、これからは生きていくつもりです」


「……頭領代理だ」


 少し困ったような顔で訂正してくる彼に、信蔵は首を振った。


「どうせすぐに本決まりです。間違いありません。あなたほど衆の父にふさわしい者などいないと、皆知っています」


 その時々で変わる主人やら里やら命令やらよりも、彼の下で働くことに意義を見出している者が少なくないことを、自身も含めて信蔵はよく知っている。そして佐太郎は己がそのように慕われていても、河上のように彼らを目的を達するためだけの道具としては決して扱わないだろうということも。


『お前はどうしたい?信蔵』


 あの狸頭領に散々念押しされていたにも関わらず、彼だけは信蔵にそう問い続けてくれた。


 恐れに絡め取られて誰かに従うという選択肢しか残せなかった信蔵に、何を命じられても御意としか言わない信蔵に、そう問い続けたことの意味も、その重さも大きさも、今ならわかる気がする。禍福がいつか言ったように、彼に出会うまでわずかながらでも埋まり切らずに自分が残っていたのは、紛れもなく佐太郎のおかげだった。


「私にとって、あなたは紛れもなく親で師です。長いこと教え育ててくださり、ありがとうございました。このご恩は決して忘れません」


 信蔵は深々と頭を下げる。不本意を塗り重ねた里での暮らしだったかもしれないが、それでもこの感謝は紛れもない本物だった。


「……そう言ってもらえると、私も救われる。元気でな」


「はい。師匠もお身体に気をつけて」


 歩き出した佐太郎の後ろ姿を、なんとも言えない気持ちで信蔵は見つめた。


 もはや上役と配下ではない。同じ里に生きる者ですらない。


 これで縁は終わる。終わってしまう。


 ——————信蔵、お前はどうしたいのだ?


 自然と、自分の内からそんな声が聞こえてくる。


 ——————なぁ、望みがあるのだろう?


「……あの」


 背に声をかけられた佐太郎が振り返った。


「……文を……その、役に立たない他愛のないものですが……文を、送っても……良いですか…?」


 驚きで見開かれた彼の目が、嬉しそうに細まるまでにそう時間はかからなかった。


「楽しみに待っている」


 こうして、天落衆の信蔵はただの信蔵に戻った。


 江戸の狸長屋に住む、ただの市井の人に。

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