十一章 後始末

11-1

 古い言葉で記されている禍福の縁起を梶原から聞き習い、その屋敷を出た頃には、すっかり月が高く上がっていた。


「……行くか」


 景気づけにひと言呟いてから、信蔵は闇の中を駆け始める。


 修練の賜物たまもので夜目はきく上、今夜の月は丸く大きかった。よって、走ることにさほど支障はない。


『裏の維人については、儂らにもまったくと言っていいほどわからんのだ。恐らく表と同様に、複数人いるのだろうとは思うが……ただ、禍福様の動きであれば恐らく、継承を完全に終えた後に所在がわからなくなる可能性を考え……増上寺にいるらしい裏の維人と、ついでに子どもを始末するために、動けるようになった後すぐにそちらに向かわれるのではないかと思う。どうせ全員ほふらねばならぬことを思えば、その方が確実だろうからな。昔、彼から聞いた話から推測するに、爆薬で吹き飛ばされた身を戻すには、数刻もあれば足りるだろう。時間の猶予はない』


 記憶の中の梶原の声に背を押されるように、速度を上げていく。


 そういえば、と信蔵はふいに思い出していた。


 しくもあの日も満月だったな、と。


 ——————もしかしたら呪いをかけられたあの夜に、全ては決まっていたのかもしれない。


 可能な限り直線距離をとるため屋根上に跳び上がり、夜に華やぐ吉原を眼下に駆けながら、頭の片隅でそんなことを思った。


 染み込むように慣れ親しんだ夜の気配を、久方ぶりに全身で感じる。ひゅうひゅうとまとわりつく風と遊ぶように、下界の灯りの届かぬ闇をゆく。


 崖から落ちて痛めつけられてはいたものの、それでも長年鍛え抜いた身体は、意のままに屋根の海原うなばらを進んだ。


 盛り場ゆえかもしれないが、江戸の夜とはこんなにも賑やかなのか。まるで空気が酒の香を含んでいるかのようだ、と信蔵は思った。いや、場所柄ゆえに酒も多く供されているのだろうが、それ以上に場の持つ気のようなものが人を酔わせている。


 連なる提灯、浮き足立つ人々、治まることのない喧騒に、この世かと疑わんばかりに贅を凝らした趣向。そしてまばゆさに伴って、その根本に一層黒々とわだかまる闇。


 信蔵はそれを目の端に映しながら吉原を通り過ぎ、ひたすらに走り続ける。


「……」


 任を帯びて幾度となく駆けた夜と似て、だが決定的に異なる夜だった。


 逃走のためでも、回避のためでも、急ぎの伝達のためでもない。


 そう、今この身を突き動かしているのは、誰かの命令でも目的でもなかった。


 だが、迷いはない。


 月明かりに照らされた屋敷に、商家や長屋の群れ。夜鳴き蕎麦の提灯に、小腹を空かせて麺を手繰たぐる人々。夜更かしをしているらしい部屋からは小さな灯りが覗き、粛々と夜回りをしている人がいる。


 またたく間に後ろに飛んでいくそれらの風景に、どこかぬくもりのような温度を感じる己が不思議だった。この江戸に来るまでは、何も感じないように自分の感覚を押し殺していたのだと、今さらのように思い知る。


 しかし矛盾するようだが、同時に今この時ほど自分が忍でよかったと思ったこともなかった。そうでなければ、この状況下で走れている己はいない。友の窮地に駆けつけられるのは、今のこの信蔵であればこそなのだと。


「待ってろ、禍福。ちゃんと待っていろよ」


 焦りに呑まれぬようひとち、信蔵は瓦の海を駆け抜ける。


 こんな時ではあったが、月光と提灯の灯りに浮かび上がる江戸の町のさざ波は、とてもとても美しかった。



 *  *  *  *  *  *



 どうやら禍福を追って増上寺へと向かっていた時のことを、夢に見ていたらしい。


「……」


 まだ夢の名残が意識に絡みついたままで頭がはっきりせず、信蔵はやむなくぼんやりと天井を見つめていた。


 一瞬、禍福の離れにいるのかと思ったが、しかし考え直す。いや、あそこは俺が焼いてしまったのだった、と。ようやく記憶が遅れて頭に走り込んでくるのを感じる。


 そうだ、この天井の木目は狸長屋の自室のものだ。そして紙をめくる音に引かれるようにそちらを見やれば、傍らで誰かが本を読んでいた。


 目に映ったのは、見慣れた鮮やかな模様ではない。濃紺の渋い色味の羽織だ。


「起きたか、信蔵」


 ——————そうだ、禍福は昨日から城に呼ばれているのだったな……


 そんなことを考えた一瞬の間の後、信蔵は一気に目が覚めた。


「……——————さ、佐太郎隊長!?申し訳ありません!」


 いかな気配を消すのがうまい師の前といえども、気づきもせずにぐっすり眠り込んだままでいたなど不覚にも程があった。


 一体いつからいたのだろう。信蔵は大慌てで跳ね起きる。


「良いさ。うちの特務隊と散々やり合って崖から落ちた上に、吉原の向こうから増上寺まで走り込み、その上あの禍福殿と対時したのだろう?そりゃ疲れもする……身体は?」


 聞きながら、佐太郎は本を閉じて信蔵に向き合った。


「多少の傷はありましたが、手当も済んでおりますので、特に問題はないかと」


 そうか、と頷いた彼は、ややあって少し呆れたような表情を浮かべて言う。


夜叉一やしゃいちたちには随分加減してやったのだな。全員生きて戻ってきた」


「……衆のこの先を担う者たちです。俺の都合で、無下むげに殺すわけにもいかないでしょう」


「お前を殺そうとやって来たというのに?」


 なんとも形容し難い表情を浮かべて、師は呟く。


「……頭領の命令とあらば、互いに如何いかんともしがたいことです。特に佐介とあやめの奴は、大熱でも出ているのかと思うくらい手が鈍っていましたよ」


 その二人は、後輩の中でも特に信蔵になついている者たちだった。


「あやめと言えばお前、帰ってきてからずっと泣いておったぞ。自分が足を滑らせたために、お前が咄嗟とっさに庇って崖から落ちて……自分のせいで、信蔵兄が死んでしまったかも知れないと」


 まったく、あまり妹分を泣かせるんじゃないわ、と佐太郎は渋い顔だ。


「夜叉一は大丈夫でしたか?あれは本気で来たので、あまり加減してやるわけにはいかなくて」


「腕と脚は折れていたが、まぁそのうちくっつくだろう。問題ない。だが、死ぬほど悔しがっていたぞ。多勢に無勢、おまけに自分はひとつも手を抜いていなかったのに、歯が立たなかったと。それでまぁ例のごとくむくれて」


「「年下のくせに生意気だ」」


 被った声に、二人は笑った。散々言われてきたことなので、もはや耳にせずともわかる。


「自分が年上と言っても、たかだか三月みつきほどのくせになぁ。同じくらいの年の奴は何人もいるのに、あいつは昔からお前にばかり突っかかる」


 佐太郎は苦笑して続けた。


「『命の借りはいずれ返す。だが勝ったと思うな』だそうだ」


「打ちかかる前に『信蔵、覚悟ォ』などと声を上げたりするから負けるんだ、とお伝えいただけます?……ところで、佐太郎隊長」


 信蔵はそっと切り出す。


「頭領に、俺を始末するように言われたのですか」


 今もてる全てを本気を出しきってもかなわないであろうこの師から、いかなる手を使えば逃げ切れるだろうか、と内でひっそり算段しながら。


 問いを受けた佐太郎は、微かな笑みを浮かべて信蔵を見返した。

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