10-2

 信蔵はふいに、遠くからざわめきが近づいてくることに気づいた。


「まずいぞ、禍福。寺社奉行の連中か何かが、出張でばってきたのかもしれん。とにかく一度、お前はどこかに移動を」


 怒鳴り合い、散々斬り合って騒いだため、当然のように寺の誰かが気づいて呼んでしまったのだろう。


「良い。このまま捕まえてもらえば良いことだ。江戸城かどこぞかの牢かはわからぬが、上に事情を通してもらえばどこかしらに繋いでくれるであろう。その方が……儂にとっても、お主らにとっても良いだろう」


 禍福はそう静かに言った。


「良いわけあるか!俺はお前を牢にぶち込むために、こんなところまで走ってきたのではないぞ!?」


 信蔵は思わず叫ぶ。


「そうは言うても……やらかしたことの責任は、とらねばならんだろう」


「そんなもの、お前の責と言えるか!?そもそも志願したわけでもないのに、勝手にこの世に縛り付けられたのだろうが!」


「そうであっても……今こうすることを選んだのは、儂よ。少なくとも、直接危害が及びそうになったあの二人には、儂をとがめる権利が」


 二人が言い合いを止めたのは、そのくだんの僧が近づいてきたからだ。


「……御坊殿」


 歩み寄ってくる彼を見れば、どこか見覚えのある顔だった。柔和で、少しばかり狸に似た面差しをした、小太りの僧。


「……あ、あの時のお坊さまではありませんか」


 信蔵は己の背に庇っていたのが、以前茶屋で話しかけた僧であることにようやく気づいた。


「お久しぶりですね。まさかこのような形で再会することになるとは思いもしませんでしたが……拙僧は円心えんしんと申します。この増上寺に属する者ではなく、一時的に間借りしている流れの身です」


 まさかこの人が維人の一人だったとは、と思う信蔵の前で、円心は禍福へと真っ直ぐに向き合った。


「……幼い頃より維人の役目を帯び、わたくしはずっと思っておりました。我らが繋ぎ止めているのは、一体どのような化け物であるのかと」


 彼は真っ直ぐに禍福を見て続ける。


「ですが、違いました。化け物などとは、とんだ思い違いでありました。どうぞお許しを、禍福様」


「……義理立てする必要はないぞ。儂は本気だった。しようとしたのは人ならざる所業、なんの罪もない人間の大量殺戮さつりくだ。手始めに、戦場どころか殺生を嫌うこの場所でな」


「いいえ。義理立てしたく思います。……人なればこそ」


 円心は微笑んで言った。


「あなたが人であると、知ればこそ。……お前はどうだね、一成かずなりや」


 住職の後ろからひょっこりと顔を見せた少年は、まだ幼い面立ちはしていたが、賢そうな目をしている。


「わたくしもそう思います。不思議なのですが、なぜあの縁起えんぎはあのようなおどろおどろしい書きようをされているのですか?とてもではありませんが、禍福様とは似ても似つかないではありませんか」


「……おどろおどろしい?そちらの縁起は、おどろおどろしいのか?俺が読んだものは、そのようなことはなかったのだが」


 怪訝けげんな顔になった信蔵に、円心が顎を撫でつつ呟く。


「……もしかしたら、表と裏で伝えるものの意図が何か違うのかも知れません。これはぜひ擦り合わせをしてみたいですね」


 彼は禍福に向き直る。


「色々とお尋ねしたいこともございます。そのためにも、禍福様にはまずは取り急ぎお逃げいただきたい」


「そうだな、それがいい。全てはその後だ」


 円心たちがそう言ってくれるなら、それほどありがたいことはないと、信蔵も急ぎ同意する。


「……借りひとつ、だな」


 禍福はそう苦笑して、声が近づいてくる方向とは反対に歩き出す。


「禍福!しばらくしたら、ひとまず狸長屋に戻って来い!」


 信蔵は声を抑えつつ、そう叫んだ。


「絶対だぞ!」


 微かに振り返った禍福はひとつ頷いてから、闇に紛れて姿を消した。

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