十章 信蔵

10-1

 ギィイン……!


 耳が痛くなるような、金属と金属の擦過音さっかおんが境内に響き渡る。


「……っ」


 あわやという刹那、信蔵はからくも禍福と僧の間に割って入ることに成功した。


 ——————間に合った……!


 受けた刀からビリビリと手に伝わる振動に安堵しながら、力を込めて押し返す。


「……なぜ、お主がここに」


 禍福が顔を歪めて、信蔵を見下ろしている。


「……よもや梶原が嗅ぎつけて知らせたのか……?お主ときたら……本当に困ったやつよなァ」


「困った奴はどちらだ、禍福。など……後で五角様の説教だな?」


 互いに力を緩めないまま、ギギ、ギチチ、と鋼とつばが鳴る。


「そこをどけ。信蔵」


「断る」


 いつも澄ましている禍福の顔に、珍しく焦りが見えた。


 恐らく気づかれる前に、全員一気に消してしまわなければ縁起が継がれてしまうからだろう。誰か一人でも生き延びてしまえば、恐らく事は成らない。消せば消すだけ、もしかしたら不完全にはなるのかもしれないが、完全に消えることはできないだろうと梶原は言っていた。そうなれば、禍福を繋ぎ止める鎖は断ち切れない。


「お主には関係のないことだ!どけ!!」


「どかぬ!」


 信蔵は真っ向から禍福を見据え、怒鳴り返した。


「俺はお前の護衛だぞ?そもそもからして無関係なものか!……それからな、禍福。これは忠告だ。今仮にこの方々を殺しても……お前は死ねんぞ」


「お主が維人たちに伝令でも飛ばすからか?……梶原や他の連中など、身を隠したところでいくらでも追えるわ。誰であるのかさえ、わかっておればな。幸か不幸か儂は只人ただひととは違って、色々やりようがあるのだ。お主も南天屋でとくと味わったであろう?」


 禍福はそう嗤ったが、信蔵は首を振って告げる。


「口で言うのは簡単でも、恐らく遂げられんぞ?なにせ、俺が維人になったからな」


「……」


 二人の、互いに一歩も譲らぬ視線が交錯こうさくした。


「あのなぁ、信蔵よ。はったりにしても、もう少しましな嘘をつかんか。わずか数刻で維人になどなれるわけがない」


 両者退くことのないせめぎ合いの真ん中で、ギチ、ギギギ……と鋼が嫌な音を立てる。


「本当にそう言い切れるか?言い切れないだろう!お前は嘆きの衣の読売のことを、覚えているはずだ!天は俺に味方したぞ?お前の巻物は、絵巻物ではなかったからな!」


 信蔵は腹に力を込めて不敵に笑った。


「そして俺は腐っても天落の忍……そう簡単に殺せると思われては困る」


 禍福が維人の条件をどれだけ正確に把握しているのかは、梶原にも未知数であるらしい。


「……お主ときたら、また誰ぞの言いなりか?信蔵」


 禍福が呆れたような表情を浮かべ、挑発してきた。


「衆の頭領殿の次は、梶原か?また親鳥を追う軽鴨かるがものごとくついていくわけか?」


 怒りで乱そうとしたのかも知れないが、かえって信蔵の頭は冷えていた。


「いいや、禍福。これは俺の意志だ。衆を敵に回したのも、梶原殿の頼みを引き受けたのも、ここまで走ってきたのも、全部全部……俺自身の望みだ。他の誰かではない。俺が選んだことだ。……俺のために」


 真っ直ぐに禍福を見据える。


「俺が俺であるために」


 言い切った信蔵に、禍福が顔を歪めた。


「……わかった。ならば——————お前共々全て斬るだけだ!」


 ギィン!ギン!ギィン!と二人の間で激しい音が立ち、目にも止まらぬ剣戟けんげきが繰り広げられる。


「どうした信蔵!?天落の名はその程度か!!」


 かわすか受け流すかばかりで防戦一方の信蔵を、禍福が重ねて挑発した。信蔵は静かな目で見返して、短く告げる。


「俺はもう、極力人は斬らない。ましてやお前は……絶対に斬らない」


「……なるほど。では大人しく斬られてくれるというわけだな」


 うめくように言って信蔵を睨んだ禍福が、とうとう堪えきれなくなったように叫んだ。


「わからぬ奴よなぁ!儂はもう充分以上に生きた!これ以上野暮やぼな横槍を入れるでないわ!」


 ひとときの間で言葉を選んでから、信蔵は答える。


「……俺はな、禍福。自分のしていることを、野暮とは思わぬ。もし……もしも今、お前がどこまでもお前らしくいて、その上で迷いなく選ぶのが死だというのなら、俺のしていることは確かに無粋ぶすいかもしれん……だけど自分を置き去りにしている今のお前に、その判断が正確にできるとは……とても思えんのだ」


「……なに?」


 思わぬことを言われて戸惑っている禍福を、信蔵は真っ直ぐに見つめた。


 禍福が、諦めきって己の奥底にうずもれていた信蔵に、手を差し伸べてくれたように。


 ——————俺にもお前にしてやれることが、なにかあるだろうか。


 頼むからあってほしい。そう祈るように願いながら、ここまで走ってきた。


 信蔵が梶原のもとで目にした極秘の巻物の主人公は、言いようもなくみやびな男だった。折々の風情を愛し、美しいものを愛し、旨いものを愛し、そして何より人々を愛する、そんな懐深い者。真実かどうかは定かではなかったが、それでもその書きように嘘はないような気がしたのだ。


 だが信蔵が出会った禍福は、それとは似て非なる様子をしていた。片鱗へんりんは確かにあった。信蔵に手を差し伸べてくれたのは、その雅な男だったのだろうと納得できる。だが同時に、彼の言動には大きな矛盾もあったのだ。


 そうして思った。本当は禍福自身も、己ではどうにもしがたい現状の中、澄ました顔の裏側で自分を見失ってしまっているのかもしれないと。


「なぁ禍福、俺はずっと闇に潜んだまま、何も感じないように生きていたから知らないんだ。だから、教えてくれ。去年の紅葉は綺麗だったか?桜は?花火はどうだ?一年のうちなにが一番旨かった?どのようなものが新しく生まれた?どれが気に入りだ?なにが嬉しかった?なにが悲しかった?どんな者と出会った?一昨年は?その前の年は?お前の中に、お前が心動かした何かが残っているなら、どうか俺に教えてくれ」


「……」


 問いかけを受けた禍福が、たじろいだ目で信蔵を見た。


「答えられないだろう?お前が大切に思うものを……本来、お前という存在の内を占めるべきお前が愛するものを、内に入れる選択をほとんどしていないのに……それでもお前は今、自分を置き去りにしていないと言えるのか?間違いなく己であると言えるのか?」


 信蔵は大きく息を吸い込むと腹に力を込め、禍福に思いの丈をぶつける。


「そんな状態を己に強いながら!己ではないものに成っていながら!今しているその選択が絶対に間違っていないと、お前は確信を持って言えるのか!?答えろ!小野禍福!!」


「……」


「俺に自分であれだの何だのと、頼んでもいない世話を焼くくせに、お前自身は己にそっぽを向いたまま死ぬ気なのか!!」


 しん、と耳が痛くなるような静寂が、境内に満ちた。


 禍福以外の誰もが、ただ息を詰めて禍福を見つめている。


 彼は何かを言おうと口を開き、しかし閉め、しばらくそれを繰り返していた。


「……れ」


 そしてとうとう、その震える唇から何かが噴き出す。もはや抑えきれなくなった何かが、激情と共に。


「黙れ……黙れ黙れ黙れだまれぇぇええ!!」


 怒りというよりは、恐らく悲しみが過ぎるあまりの……どこへも行き場のない、ただひたすら己の内に溜まり続けるしかなかった想いが。長い年月、人も物も風習も、愛した何かが消えてゆくのを見送り、ただひたすらに見送り続けなければならなかった……きっと誰にも言えなかっただろう、その心が。


 真正面からぶつかられたことでせきが壊れ、まるで決壊したかのようにあふれ出てくる。


「お前になにがわかる!!少し目を離したらおっ死ぬような人間風情が!!愛しても愛しても全てに置いていかれる儂の気持ちが——————わかってたまるかぁ!!」


 血を吐くような叫びと共に繰り出された力任せの剣戟けんげきは、彼が生きてきた時間の全てを吸ったようにひどく重かった。


「ゔぁぁあああああああああああああ……!!!」


 叫びながら振り下ろし、乱れ突き、切り上げ、息つく間もない禍福の猛攻は続いた。


 並の武人であれば、勢いに押されてとうに首が飛ぶか、身を刀身が貫いていただろう。


 だが信蔵は一度も反撃することなく身をかわし、短刀一本で全てを受けきり、静かに言葉を返した。


「……そうだな。置かれた状況が違う以上、どんなに想像したところで……俺はお前の絶望を、正確にはわかってやれないだろう」


 信蔵は真っ直ぐに禍福を見ながら、刀を受けていた短刀を引いた。禍福が戸惑ったようにたたらを踏む。


「だから提案だ。お前がどうしてもと望むその時は……表も裏も、全ての維人を殺してから」


 信蔵は己の首に短刀をあてがった。ぷつ、と表の皮が裂け、血が滲む感触。


「俺も自害して一緒に死んでやる」


 目を見開いた彼に、信蔵は懇願を続けた。それ以外に、彼を引き止める方法を思いつかなかったから。


 打ち合ってみてわかったが、幸い信蔵は禍福より武に長けている。だから、骨を折るなり腱を切るなりして、彼を一時的に動けなくしようと思えばそれもできるだろう。


 だがだからといって、組み敷いて止めたのでは意味がないこともわかっていた。仮に力で押さえつけて無理やり生かしたところで、そこにいるのはうつろなるもので、本来の自然な禍福ではない。


 自分がそうだったから、よくわかっていた。時に突っかかり、時に笑い合った、信蔵が友と慕う禍福にこそ、ここに居てほしいと信蔵は思う。


 自分自身にさえかえりみられず、暗闇でうずくまるしかなかった信蔵に手を差し伸べてくれたのは、風情や人を愛する彼の中の最も禍福らしい部分だったのだろう。長く続く苦しみの中で片隅に追いやられてしまったその彼にこそ、信蔵は手を差し出したかった。


「だから……だからどうか、その時までは生きてくれないか?生きて俺に教えてくれ。この人世の楽しみ方とやらを」


「……」


「お前と出会って、俺は知りたくなったんだ。せっかく生まれ落ちたこの世の、ふたつとない喜びとやらを。なにしろお前も知っての通り、俺は世を楽しむことに不慣れだからなぁ……お前がいないと絡繰からくり人形のように毎日を繰り返して、そのまま一生を終えそうじゃないか?」


 我ながらなんとも格好のつかないみっともない提案だな、と内心苦笑しながら、信蔵はそう告げて答えを待つ。


「……」


 訪れたのは、長い長い沈黙だった。


 春のぬるい風が境内を吹き抜け、本堂を、人を、幾度も柔らかく撫でていく。


 そうしてようやく——————禍福が口を開いた。


「……この、馬鹿者が。……信蔵、お主な……それが……なものか」


 なんとも形容し難い泣き笑いのような顔をして、かすれた声で呟き——————そしてとうとう、禍福は刀を下ろした。


「……それは、ぞ」


 目をしばたかせて、その言葉の意味を吟味ぎんみし——————


「……そうか。俺はお前にとって質になるのか。……それはよかった」


 信蔵はそう笑った。

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