2-6

 町々の木戸はとうに閉められ、人も眠りについた夜半過ぎ。


 闇に紛れやすい濃紺の衣に身を包んだ信蔵は、狸長屋をそっと抜け出した。着慣れた忍装束ではなく薬売りのような装いにしたのは、万が一、人目についた時のための用心である。


 どの町の木戸もしっかりと立てられていたが、信蔵にかかれば気づかれずにそれを乗り越えるなど、わけもないことだった。


 ただ、唯一の懸念は例の呪いだ。


 その影響で人の目のあるところに引き摺り出される前に、可及的速やかに事を済ませねばならない。


「……」


 情報を得た後すぐに下見に行ったから、進む道に迷いはなかった。


 ややあって見えてきたのは、呉服商南天屋だ。


 信蔵はその敷地に入り込むと、あたりをつけていた部屋をしばし窺った。気味悪がっているのであれば、恐らくその側で寝たりはしないだろうと思ってはいたが、やはり無人のようだ。


 今回は着物がいつの間にか勝手に出て行ったように見せかけた方が、色々と都合が良いだろう。どこかしらを破壊して人が侵入した痕跡が残るより、入ったことがわからぬ方がいい。


 そう考えた信蔵は、用意していた問外といかきという開器の一種を使って雨戸の錠を外から開け、そっと部屋に忍び込んだ。











 お留の言っていた通り、部屋には衣桁にかけられた打掛けが鎮座していた。大ぶりな箪笥がある以外は、他には何も置かれていない座敷だ。


「……」


 信蔵はまじまじとその衣を見る。暗闇ゆえその色や模様は判然とはしないが、やはりただの着物にしか見えない。


 ——————特に不吉とは思えんが……


 小野禍福が所望した〝嘆きの衣〟が、これであるのかは正直分からない。だが現状、巷でそのように呼ばれているのは間違いなかった。そして彼が信蔵を忍とわかった上で、〝とってこい〟と言った以上、こういうことを期待している可能性も否めないのだ。


 お留の話だと、持ち主の南天屋の方でも持て余しているようであるし、確認のために少しの間持ち出すくらいなら問題ないだろう。違えばすぐに返すし、もしこれが彼の望んだものであれば、改めて自分の金子を代金として置きに来ればいい。


 そんなことを考えながら、信蔵は打掛けに手を伸ばし——————


「ひとつ言い忘れていたのだが、この南天屋のものは儂が望んだものとは違うぞ」


 声と同時に、手がぐいっと掴まれた。


 心の臓が一瞬硬直し——————一拍置いてから——————慌てたように血を送り始める。どっどっどっど……と、心音をいやに激しく身の内に響かせながら。


 信蔵は本当に驚きすぎると声など出ないということを、身をもって知った。


「……」


 黙ったままそろりと目だけを動かせば、小野禍福が人の悪い笑みを浮かべて、こちらを見下ろしている。


「おや、驚かせたか?」


 ——————なんなのだ、この男は……


 なぜ至って平然と、こんなところにいるのか。


 ——————一体どうやって、ここまで気づかれずに入ってきた……?


 家人に事情を話して通してもらったのか?


 ——————いや、誰かが起きている気配も、近くにいる気配もない。


 では、鍵や雨戸を開けて忍び込んだところからついて来ていた?


 ——————いいや、絶対に誰の気配もなかった。


 信蔵は完全に陰に特化した忍だ。身を隠すすべに長け、耳もよければ気配にも聡い。人が側にいて、気づかぬはずなどなかった。


 それなら初めからこの部屋にいて、気配を殺して信蔵を待ち構えていた?


 ——————それこそあり得ない。


 信蔵は天落衆の中でも特別に夜目が利く。この部屋に最初に踏み込んだ時に、誰もいないことをはっきりとこの目で確認していた。


 それなのに今——————小野禍福は当たり前のような顔をして、信蔵の手を掴んでいる。


 説明がつかない。突然隣に湧いたという以外に、言い表す言葉が見当たらないのだ。


「……」


 これまで味わったことのないその異質さに、ぞわりと総毛立つような気がした。


「どうしたのだ、信蔵?幽霊でも見たような顔をして」


 手首を掴んだまま、小野禍福は薄く薄く、嗤う。まるで信蔵の恐れを見透かし、嘲笑するかのように。


 ——————……幽霊だと?これがそのようなかそけきものであるものか……!


 どろりと、部屋の四方を取り巻く闇が、粘度を増してこごったような気がした。そして迫ってくる。まるで闇が意志をもつかのように、信蔵の周りをぞろりと囲い込み始めた。


「……」


 声が出ない。


 身体も動かない。


 未だかつてないほどに、全身の肌が粟立った。春であるはずなのに、雪の降りしきる冬になったかのような冷たさが、空間に満ちている。


 ——————これはまずい……


 老女に呪いをかけられた時とは比べものにならぬほどに、信蔵の本能が強く警告した。なりふり構わずに、今すぐそこから逃げろ。この男から離れろ。


 そうでなければ、待ち構えるのは。


 そこまで考えて、信蔵は歯を食いしばって己を叱咤した。


 ——————冷静でいろ。次の一手を考えろ。生き残る術だけを考え続けろ。


 ぎりぎりの局面で恐怖に呑まれてしまったら、一瞬ですべてが終わってしまう。


 信蔵は歯を食いしばって小野禍福を睨みつけ、掴まれた手を全力で振り払った。そして脚絆きゃはんに仕込んでいた棒苦無ぼうくないに手を伸ばそうとした、その刹那、


「……お主、思うていたよりも活きがいいな」


 ふいに彼がそう笑って——————ふぅ、と何事もなかったかのように、異様な空気が引いた。まるで浜から波が引くように、あっけなく。


「……とにかく、これが違うのは伝えたぞ」


 そしてその言葉を聞いた次の瞬間、信蔵は柄にもなく狼狽ろうばいした。


 異質な闇どころか、同時に小野禍福の姿まで消えていたのだ。まるでそんなものは、はじめからいなかったとでもいうように。


 今ここにあるのは、衣桁にかけられた打掛けと箪笥。それから夜の静寂ばかり。


「……」


 手首に残る誰かの温度と、ただ信蔵の背を伝う冷や汗ばかりが、束の間の悪夢の名残を静かに物語っていた。

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