2-5

 平太に見せてもらった嘆きの衣の読売を頭の中で反芻はんすうしつつ、水を飲もうとした信蔵は、水瓶の中がだいぶ減っていることに気づき表に出た。


 井戸で水を汲もうとしたところに、どこかに出ていたらしいお留が帰ってくる。ちょうど、さっきの平太と信蔵のような塩梅あんばいだ。


「お出かけでしたか、お留さん」


「ええ、仕上げた着物を持っていってきたの」


 彼女は針仕事が上手いらしく、時々仕事を頼まれるのだそうだ。


「急ぎのものだったから、久しぶりに夜なべしちゃったわ」


「それはそれは、お疲れさまです」


 労いながら、信蔵は考えていた。


 権三が小野禍福の居所を突き止めてくれた時にも思ったことだが、市井の人々のもつ情報というのは全くもって侮れない。根拠のない噂や流言の類も多いのだろうが、それでもやり取りに慣れていない信蔵よりは、よほど情報のつてを持っているようだった。


「ところでお留さん、嘆きの衣の噂って聞いたことあります?」


 井戸端の小話として、何気なく振ってみる。


「あら、どこもかしこもあの衣の話で持ちきりなのね」


 この言いようは期待できるな、と信蔵は内心にんまりした。


「私は今日初めて聞いたんです。厄災を呼ぶ衣なんてあるんですね」


 信蔵が言えば、彼女は頷く。


「ちょっと怖い話よね。でもそうは言っても所詮噂は噂だし、根も葉もない話が流れてるだけじゃないのって、思ってたんだけど……実は、アタシの友達がね」


 そう話し始めたお留だったが、最後まで辿り着く前に口をつぐんだ。話したいが、これ以上口にしても大丈夫だろうか、という葛藤が見え隠れする。


 信蔵はすかさず尋ねて背を押した。


「ご友人に、何かあったんですか?」


「……うん、ちょっとね」


 今まで見てきた限り、お留は結構なおしゃべりだ。彼女がここまで躊躇ためらうのは、もしかしたらその話してくれた友人に、何か直接関わることだからなのかもしれない。


「もちろん無理にとは言いませんけど、私は別に言いふらしたりはしませんよ」


 声を潜めて言えば、お留はほっとしたような顔になって頷いた。


「あのね、あまり大きな声じゃ言えないんだけど……その、嘆きの衣とかいうのがね……友達の家にあるかもしれないっていう話を、何日か前に聞いたのよ……」


「——————え!?」


 さすがに驚いた信蔵に、お留は小声で事情を話し始める。


 お留の幼友達の一人に、お絹という娘がいるらしい。彼女は三井越後屋ほどの大店ではないにしろ、結構な稼ぎのある呉服屋の娘で、両親や兄弟、店の人間にとても可愛がられて育てられた。だからと言ってわがまま放題になることもなく、おっとりとした実に気立てのいい娘らしい。


「京からの下りものを扱う呉服屋なの。今川橋の近くにある南天屋っていうお店なんだけど……」


 その南天屋の主人が、先日上物の打掛けを手に入れて店に出した。紅色と金が美しく折り混り、吉祥を寿ぐ紋様がそれはそれは見事な西陣織の一品だ。本場たる京でも、なかなかお目にかかれないような素晴らしい代物であったらしい。当然それはすぐに人目につき、高額にも関わらず早々に売れていった。


 ところが、である。


 何の因果かその打掛け、三度も店に出戻ってきてしまったのだという。


「……三回も、ですか」


「そうなのよ。なにしろ高価なものだから……ないことではないとは思うんだけどね」


 一度目は、その打掛けが使われるはずであった縁談が、つまらぬことで破談になってしまったらしい。


 二度目は購入した家で災難があり、その支払いどころではなくなり返品。


 三度目はその衣を贈られた姫が急な病を得て亡くなり、悲しみに暮れた両親がそれを見ると思い出してしまうということだったので、南天屋の主人が気持ちを汲んで引き取りを申し出た。


「それで……あれがきっと嘆きの衣なんだろうって、巷では言われてるみたいなの」


 持ち主に厄災が降りかかる衣。


「確かにちょっとした不幸は重なったかもしれませんが……正直、ただの偶然のような気もしますね」


 口には出さなかったが、茶屋での翁の話にしろ、読売で読ませてもらった来歴にしろ、それが本当であればくだんの衣はかなり古い時代のものであるはずだ。そもそも京からの高級な下りものを売りにしているような店では、まず取り扱わないのではないだろうか。


 偶然ではという信蔵の意見に、お留も頷く。


「アタシもそう思う。たまたま時期が合ってて、誰かが面白半分で適当に言い出したことだろうけど……でも、三回戻ってきて本願が果たせなかったのは事実だから、不吉だと感じる人も確かにいるのよね。その上にそんな風聞が広がっちゃったもんだから……値を下げても買い手がつかないし、怖がるお客さんもいるから店にも出しておけないしで……お絹ちゃんのおとっつぁんも苦笑いしてるみたい」


 信蔵は不自然にならないように気を使いながら、そろりと言う。


「南天屋さんも気の毒ですが、その打掛けもまた可哀想なことですね。せっかく見事に織ってもらったのに、日の目もろくに見られず蔵の中とは」


「あ、まだ蔵にはしまってないんだって。仕舞い込んだら仕舞い込んだで、万が一何か起こったりすると困るからって……ひとまず奥の間に衣桁いこうにかけて置いてるみたいよ。だけど正直、扱いに困ってるみたい」


 信蔵は頷いて言った。


「まぁそうでしょうね。仕舞い込んで祟られても困るし、かと言ってこうなった以上、人に売るのも障りがあるでしょうし」


 お留も苦笑して頷き返す。


「お店で働いている人たちも、薄気味悪がって近づかないようにしてるみたい。嘆きの衣って噂によると付喪神らしいし、もし本当にその着物がそれなら、今に勝手にいなくなるんじゃない?って、慰めはしたんだけど……あの子、昔からお化けとかすごく怖がるから、大丈夫かちょっと心配で……あら、お帰り、アンタ」


 仕事に出ていた米吉が、道具箱を担いで戻ってきた。


「お帰りなさい、米吉さん」


「おう、ただいま。悪ぃな、信蔵。お留のやつ、話し出したら止まらねぇんだ」


 そう笑った米吉を、お留が軽くはたく。


「いえ、とても興味深い話を聞かせてもらいましたよ」


 南天屋さんの衣の話、とお留が言うと、あぁあれか、と米吉は頷いた。既に仔細は聞いているらしい。


「しかし付喪神ですか……そんなもの、本当にいるんですかね?」


 正直、妖だの怪異だのというものに対して、信蔵はかなり懐疑的だ。なにしろ人より多くの時間を、彼らの領分と言われる夜や暗がりに潜んで生きてきたが、そんなものにはついぞ出会ったことがない。


「ま、いるかいないかは俺にはわからんが……少なくとも、このたった二つの目ん玉に映るものが全てとは限らねぇよな。なにせ、この長屋にも妖怪尻壁抜きが潜んでることだしよ」


 笑いながら米吉が言った。


「はァ?それはそもそも妖怪妻投げが原因じゃないの。俺は関係ない、って顔されちゃ心外ね!」


 お留がむくれて米吉をつつく。


「妻投げって……俺はちょっと払っただけだろうが」


 いくら喧嘩中とはいえ、腕力にものを言わせておなごを投げるのはいかがなものか、と思った信蔵だったが、それが顔に出てしまっていたらしい。お留は笑いながら首を振る。


「いや違うのよ、信蔵さん。この人は確かにちょいと手を振り払っただけだったんだけど、床に手拭いを重ねて置いてたのを、アタシがうっかり踏んづけて滑っちゃってね。それで思い切り勢いがついて、あの惨事なのよ……それにしても、あの時のこの人の顔ったら」


 お留は笑いながらも、情のある眼差しで彼を見ている。確かにあの時米吉は血相変えて妻を心配していたから、仲が良いという大家の言は正しいのだろう。


「頭でも打ったら危ねぇだろうが。まぁ尻ですんだからよかったけどよ」


「あら、あたしのお尻に大あざができて大変だってのに?」


「なぁに、しっぽり撫でて可愛がってやりゃ、じきによくなるさ」


 米吉が何やらにやにやしながら、お留に触っている。


「あらやだ、妖怪助平が出たわ。まだ日も高いってのに」


 なにやら惚気のろけ始めた二人に別れを告げ、信蔵はひとまず長屋を後にした。


 あのまま二人の隣の部屋であったら、もしかしなくとも夜の睦言まで聞こえていたのかもしれないなと、なんとも言い難い気持ちになりながら。

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