2-4

 長屋に戻ってきた信蔵は、木戸のところで茶色い大きな毛玉と鉢合わせた。


「おぉ、茶々丸」


 勝手に狸汁にされては困るから、と見分けがつくように紅白の組紐の洒落た首輪をしているその狸は、木戸番小屋の藤一郎のところに居着いているものだ。


「お前も今帰ってきたところか」


 もう何年もこの長屋にいるらしいだけあって、茶々丸は相当に人馴れしている。屈み込んで手を伸ばせば、大人しく撫でられてくれるのだ。慣れない暮らしに奮闘する信蔵の、良き癒しである。


 狸は里でも時折見かけたが、基本的に互いに関わりを持つようなことはなかった。畑が荒らされるようなことがあれば、始末しなければならない相手である。よって信蔵には狸を可愛がるという考えがまるでなかったのだが、こうして触れ合ってみればなかなかに愛らしいものであった。所変われば品変わる、ということなのだろう。


「ん、もう藤一郎さんとこに帰るか」


 ひとしきり撫でられた後、茶々丸は木戸番小屋にとことこと戻って行く。


「……俺も帰るとするか」


 信蔵はその後ろ姿を見送ってから、立ち上がって歩き出す。


 犬や猫と違って、狸というのはあまり鳴かぬものであるらしい。信蔵がこの長屋に居着いて以来、茶々丸が鳴いたのを一度も聞いたことがなかった。


「おお、お帰り、信蔵」


 細道から裏長屋に入っていくと、井戸端で桶を手にした平太が振り返った。ちょうど水を汲みに出てきたところだったらしい。


 彼は部屋が仕事場も兼ねているため、大抵は長屋にいる。お留曰く、かなり腕の良い指物師であるらしい。彼の作る机や箪笥は瀟洒しょうしゃで人気が高く、常に予約待ちが控えているということだった。年の頃は三十そこそこくらいだろうか。


「どうだった?会わせてもらえたか?」


「それが、会わせてはもらえたんですが……今度は嘆きの衣とかいうものを、探さねばならなくなりまして」


 信蔵は苦笑しつつ、事の次第を彼に説明する。無論、忍云々のくだりは伏せてだが。


「……かえって金子よりも難儀なものを要求されたな」


 話を聞いた平太は、眉根を寄せて呟いた。


「そうなんです。それで今度は探し物……というか、探し妖をしなければならなくなりまして……ただ、ご存知の通り私は最近江戸に来たばかりで、流行りの妖とやらのことはよく知らないんですよ。ついさっき茶屋でご隠居に教えてもらって、ただの着物じゃないと知ったくらいですからね……何かご存知ありませんか、平太さん」


「……そうだな……」


 言いながら、彼はちらちら、と辺りを窺った。そして声を潜め、


「信蔵、ちょっと寄っていけ」


 と、己の部屋の方を顎でしゃくる。


 信蔵が言われるがままについて入ると、彼は戸を閉め、夜でもないのに心張り棒をした。


 平太の部屋の中は、木の香りと削り屑でいっぱいだ。彼は板間の一部の木屑をざざっと手でよけると、信蔵に座るように促す。


「……あの」


 声を立てるなという仕草をして、平太は部屋に上がり奥へと向かった。


 彼がつくったものなのか、設えのいい立派な茶箪笥の前でごそごそしていたかと思うと、何かを手にして戻ってくる。それは幾枚かの紙だった。


「……内緒だぞ?別にまつりごとの批判とかそういうのじゃないから、黙認の範囲だろうが……一応、お上は禁じているものだからな」


 潜めた声で言いながら渡されたその粗い紙には、絵と幾らかの文が書き連ねてある。


「……あ」


 それは読売だった。嘆きの衣のことを書いた、一枚摺りだ。


 聞けば、平太の趣味は読売の収集なのだという。


「一番最初に出たのはこれだな」


 指し示された紙面には、中央から下の辺りに着物の絵が描かれていて、その周りにぞろぞろと文字が書き連ねられている。


 この頃江戸を騒がすもの、として嘆きの衣の噂が記されていた。翁が茶屋で話してくれたものよりも多少突っ込んだ書き方はされていたが、概ね似た内容だ。もしかしたら彼もこの読売を読んで知ったのかもしれない。


「こっちがその少し後に出たものだが、内容が一枚目とほとんど変わらないんだ……だから最初に出たものを、別の奴がただ真似して書いただけのやつだと思う」


 差し出された読売は、確かに取り立てて目新しい情報はなく、その文の体裁と着物の絵が多少違うくらいだ。


「それでこれとこれが、最近出た新しいものだ」


 一枚には呪詛じゅその衣の脅威、もう一枚には付喪神の祟りか、という見出しが書かれ、その後にはそれぞれ、この衣を得たどこそこの何某なにがしがこのような厄災に遭った、という記述が連ねられている。


 多少不幸な目に遭ったというよりは、家の断絶だとか、無一文になったとか、持ち主の死亡だとか、結構な大事が羅列されていた。そしてその横には悲劇に打ちひしがれる人の姿と着物が、どこか物悲しくもおどろおどろしく描かれている。


 ——————いや……これは本当か……?この堀川天皇の御代の何某だの……戦国の世の何某だとか、一体どうやって調べたというのだ……


 信蔵は内心首を傾げながら、小声で平太に尋ねる。


「あの、江戸ではこういう妖とか怪異とか……そういうものがよくあるんですか?」


 彼は少し考えるような目をしてから頷いた。


「そうだな。俺は実際に自分で行き合ったりしたことはないが、読売なんかではよく扱われているぞ。どこぞの堀に河童がいただの、幽霊が出ただの、鬼火が飛んだだの、不思議な話なんかは噂話でそれなりに耳にしたりするし……まぁ事実かどうかはわからんが、こういうのは読み物として面白いから、俺は好きなんだ」


 そう言って平太は楽しげに笑う。


 なるほど、情報を得るためというよりは、草紙などの娯楽のようなものに近いのか、と信蔵は思った。それぞれ色んな楽しみ方があるらしい。


 信蔵は四枚の読売をじっくり見つめ、しっかり記憶に焼き付けてから、


「ありがとうございます。助かりました」


 と、平太に返した。


「大事なものを見せていただいたので、何かお礼がしたいんですが……」


 信蔵が言うと、彼は笑って首を振る。


「そんなのいいさ。俺としては、自慢の収集品が役に立ったってだけで充分嬉しいからな。……あ、でももしこの先、信蔵が読売を売ってるところにうまく行き合うことがあったら、買うか俺に伝えてくれると助かる。もちろん金は払うからさ。一応情報は仲間内で融通しあってるんだが、それでも必ずしもってわけにはいかないからな」


「それくらいならお安い御用です」


 信蔵はふたつ返事で約束すると、平太の部屋を後にした。

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